【第2話 廃教会、三人と一柱】
白がほどけ、色が戻る。最初に来たのは冷たい風だった。鼻の奥に湿った石の匂い。目を開けると、ひび割れた石壁、落ちた天井板、蔦に呑まれた尖塔——絵に描いたような廃教会だ。
「やっほ〜、ひさしぶり! さっきぶり〜」
声の方向を向くと、白いローブの……子ども? 十歳そこそこの幼女が、つま先立ちで手を振っていた。金の飾りをつけた小さな冠、素足。けれどその瞳は年齢に似合わず深い。
「……利部さん、だよな?」
「りべ? あ、さっきのなまえだね〜。こっちではリベルティアってよばれてるの。じゆうの神さまだよ。ちょっと幼女だけど〜」
「ちょっと……」
「しんとがすくないからさいきんはこのサイズなの。えへへ、がんばる〜」
この軽さで神を名乗るあたり、余裕があるのか、ないのか。俺は額に手を当て、現実感を貼り付ける。
周囲を見渡すと、割れたステンドグラスから風が鳴り、祭壇は欠け、祭具はほとんど残っていない。ベンチの板は抜け、雨漏りの跡が点々。たしかに“邪神の神殿”というより、ただの「忘れられた場所」だ。
「ここが、わたしのおうち〜。……さみしいけど、ちゃんとまだ息してるよ」
リベルティアは廃教会の扉を押し開けた。軋む音の向こうで、人の気配。
「誰だ」
低い声。やせた老人が片手に杖をつき、こちらを射抜く。背後から、包帯を腕に巻いた高齢の女性、そして、薄い毛布を肩にかけたみなしごの少女が顔をのぞかせた。人数、三。噂に聞く“暗黒教団”の現在が、目の前にある。
「外の者か? ここは……」
「お、おまえ、ひとさらいじゃないよな」
少女が俺を睨む。目に警戒が張りついている。
「だいじょうぶだよ〜。このひとは、わたしがえらんだひと。えっとね、きょうから——」
リベルティアが、くるりとこちらを振り返り、胸を張った。
「ケイ=サンジョウ。きょうから、あんたが“きょうだんちょー”!」
は!?何言ってんだ?このフェイクロリ幼女!?
「待て待て待て待て」
反射で両手を上げる俺。逃げてきた単語が追いかけて来た。管理職。いや、教団長って、さらに上位互換じゃないか。
「おことば……まこと、でございますか、神さま」
高齢の女性が目を潤ませ、震える声で問いかける。老人は眉間に皺を寄せたまま、しかし杖をついて膝をついた。少女はなおも口を結んでいるが、目だけが幼女神を追う。
「ほんとだよ〜。このひとは、わたしのね、いちばんちかいところにいるの。じゆうをこわさないで、ちゃんとひとのはなしをきけるひと。だから、みんな、けいのことばは、わたしのことばっておもって、したがってね」
「いや俺はですね、現場に戻——」
「それからね〜、わたし、すこしおやすみしなきゃ。けいをここに“つれてくる”のに、ちから、つかっちゃったの。だから、おいのり、わすれないで。すこしずつ、もどるから」
幼女神は、ふわりと笑って、俺の袖をちいさく引いた。
「だいじょうぶ。けいには、そのうちぴったりのまほう、あげるから。いまは、みんなのところにいること。それがいちばん、たいせつ〜」
「おい、神さま——」
「けい、がんばってね。しんちょうに、でも、まよったらちゃんときめるの」
光がまた、彼女の輪郭を食べはじめた。風が鳴る。白が強まる。俺は伸ばした手を空に掴む。
「ちょっと待て! 本当に俺、教団長とか——」
「けいは、きょうから、みんなのちょーちょー(長)!」
最後に、子どもみたいな言い間違いを残して、リベルティアはふっと消えた。
——沈黙。風の音だけが戻る。三つの視線が、いっせいに俺に突き刺さる。
喉が鳴る音が、自分にだけ大きく聞こえた。何か言え。いや、下手に口を開くな。まずは様子見だ……。
……無理だ。この沈黙は長すぎる。ここで黙っていたら、余計に怪しまれる。
「ええい!」
自分でも驚くくらいの声が出た。三つの視線がさらに鋭くなる。逃げない。だったら、言葉で始めるしかない。
「……えーと。はじめまして。俺はケイ=サンジョウ。たった今、神さまに無茶振りされた者です」
老人が鼻を鳴らした。「神意なら、従うほかあるまい。わしはローヴェン。昔は剣を振れたが、今はこの通りだ」
高齢の女性が会釈する。「わたしはマーラ。神さまの灯りを、絶やさないようにしてきました」
少女は少しだけ顔を上げた。「……ニナ」
「ローヴェン、マーラ、ニナ。了解。まずは……この屋根、雨漏りがひどい。寝床の動線も悪い。食料は?」
「畑など、とっくに荒れた。森は魔物だらけだ。村には近づくなと言われている」
「在庫は乾いた芋と塩少々、あと干し肉が少し……」
数字が、頭の中で勝手に並ぶ。屋根修繕の工数、寝床と祈りの場の配置換え、食糧の残日数と一人あたり配分、燃料の確保手段。
——おい、俺は何をしている。管理職から逃げて転職サイトに登録したはずだ。なのに、気づけば“現場の管理”に戻っている。いや、よりによってトップとして。
「……よし。まずは雨漏りを止めよう。それから寝床と祈りの場所を分ける。食糧は配給制、数日で底が見える。森の入り口まで偵察に行くが、無理はしない。俺の勝手な命令に聞こえるだろうが、神さまの言葉ってことで、ひとまず動かせてくれ」
ローヴェンの眉が、ほんのわずかに緩む。マーラが胸の前で祈り、ニナが小さくうなずいた。
「……了解した、教団長」
その呼び名が、ぐさりと刺さった。
逃げた肩書が、ぐるっと回って、もっと重い形で肩に乗ってきた気分だ。
でも、やると決めたらやる。逃げ出した先で背負わされたのなら、なおさら——俺のやり方で。
(つづく)