【第18話 ターニングポイント——焼き印と空白】
戻り道の風が、いつもと違った。
乾いているのに、匂いが濡れている。灰の匂い。音が少ない。糸鈴の細い声が、どこにもなかった。
森を抜け、見晴らしに出た瞬間、胸の奥がひやりと落ちる。
——廃教会の輪郭が、欠けていた。屋根が半分落ち、扉は黒く歪み、誓約板は地面で割れている。
土の上に、白い筋が何本も走っていた。聖灰の筋。扉の中心には、焼き印。円と十字を組み合わせた紋——主神派の印に酷似した意匠。周囲に炙り書きの文字。「清めよ、邪の影」。
「けい……」
リベルティアの声が震えた。幼い輪郭のまま、瞳だけが深い。
オーシが一歩だけ前へ出て、角で俺の肩を小さくたたく。戻れ、と言うように。けれど、戻る場所はもうない。
「証拠保存。——踏むな」
自分の声が、驚くほど静かだった。
見取り図を板に描き、時間を書き入れる。侵入の角度、破断の向き、灰の筋の重なり。
骨たちが立っていたはずの場所には、細かい白粉が山になっていた。関節の形を辛うじて留めた“残骸”。対アンデッドの聖句で、結節をほどかれたのだろう。
扉の片方を押し上げ、内側へ回り込む。焦げと水の匂い。それから——祈りの香。
足元の焼けた床から、淡い色の布がのぞいた。手に取ると、縁に小さく刺繍がある。マーラの祈り布。
喉の奥がきしむ。息が浅くなる。目の端で、崩れた梁の影が静かに横たわっていた。彼女が、いた場所だ。
「……マーラ」
名前を呼ぶと、リベルティアが目を閉じた。
「けい。ごめんね。いまのわたし、うしなわれた“いのち”は、もどせない。わたしの力は、ひとのじゆうを、うらぎらないように、できてる」
「知ってる。——だから、順番どおりやる」
外へ。
石段の脇に、小さな靴が片方。ミオのもの。縄の繊維が短く千切れて落ちている。地面には、複数の足跡と車輪の跡。北東へ向かっている。
ローヴェンは祈り場の柱の陰で見つかった。頭を打っていたが、息はある。応急で止血し、オーシの脇に寝かせる。
「弔いと救出、同時に動かす」
板を三枚、地面に並べ、チョークを握る。
——証拠保存SOP。
1)立入線を張る(紐・木杭)/2)写真板(図)に時刻と方位/3)足跡・車輪・灰筋の採取(布袋・封緘)/4)焼印・文言の拓本/5)聖灰の化学反応テスト(炭水・水)
——弔いSOP。
1)遺体の尊厳を守る(覆布・名の確認)/2)祈りの言葉を記す/3)埋葬仮地の確保(灰の流れから外す)/4)清掃は“後”にする
——救出SOP。
1)生存痕跡の追跡(小物・繊維・足跡の向き)/2)追撃は二段(先行2/後衛3)/3)町・査察官へ緊急監査の申請/4)商会へ供給停止と被害報告/5)使用制限:神の力は“三箇条”適用
書いている間、手が震えなかったのは、たぶん怒りが形を持つのを待っていたからだ。
リベルティアが、そっと指先で空を撫でる。視界の端で、足跡の一部がふっと浮かび上がった。生きている者の気配だけが、わずかに濃く見える。
「これ、だけ。すこしの、めがね。うしろは、けい」
「十分だ。——追える」
焼き印の線を指でなぞる。
主神派の正規印と似ているが、輪の内側の角度が違う。純化会——過激派の印、と仮定できる。
扉の破断は外へ向いている。内側から押し開けられた痕跡。最初の衝撃で鍵を断ち、次に聖灰を撒いて骨を落とし、祈り場を荒らし、焼き印を刻んだ。作法が早い。訓練されている。
「ケイ、どうする」
「制度で戦う。まず、査察官に緊急監査。現場の保存と、純化会印の真正を照合する。商会にも打ち上げる。供給は一時停止、理由は“襲撃”。
——同時に、救出に出る。先行は俺とオーシ、保全はローヴェンが回復しだい。神の力は三箇条の範囲で。今はまだ、使わない」
「つかうときは、言って。わたし、できるぶんだけ、だす」
「ああ」
祈り布を折り、胸に当てる。
俺は、誓約板の割れを二つ持ち上げ、土の上に並べた。——伐採一:植え戻し二。事故ゼロ継続。外周の火気管理。
焼けた文字の欠片に、今日の日付を書き足す。
破られたルールを、もう一度ここに立てるために。
ローヴェンが目を開け、かすれた声で言った。「行け。わしは、ここを見ておく」
「頼む。戻る」
オーシの角が、いつものように肩に当たる。コツン。
俺は頷き、焼き印を一度だけ見返した。
数字は、祈りを壊さない。——その言葉を、ここから先で証明する。
足跡は北東。乾いた風が、灰を少しずつならしていく。
空白を埋めるのは、復讐の衝動じゃない。手順と証拠と、連れて帰るという約束だ。
俺は板を背負い直し、オーシの手綱を握った。
リベルティアが小さくうなずく。糸鈴の切れ端が、風に揺れた。
(つづく)




