【第16話 稲妻と炎、アレは逆火——奇跡は消火器】
朝は重たい匂い。湿気はないのに空が湿ってる感じ。嫌なサインだ。
壁板に今日の欄を足す。乾燥指数=高。風向=西→東。警戒“橙”。防火帯は昨日までで3m×200m、今日は350mまで伸ばす予定。
「避難訓練ショート版から入る。子どもと年配は石壁内、合図は木笛3吹き“集合”。荷物は最小限。——“Clause 1(人命の即時危機)”は先に潰す」
「了解」とセラ。子どもたちに手を振らせてから、救急箱の確認。
ニナは見張り塔(と言っても脚立+ベンチ)に上がる。ルークは配水の路線を板に書く。
骨は“自然体”で整列。どや立ち、今日は絶対ナシな。
昼前、空が腹で鳴った。稲光、1拍置いて雷鳴。糸鈴が東一帯で連鎖して鳴る。ニナの声が落ちる。
「落ちた——東の尾根、薄煙!」
「全体、配置につけ。“Clause 2(代替策ゼロ)”はまだ該当しない。段取りで行く」
オーシに湿った防水布の曳き具を装着。引かせて地面を“ならす”役。
人はバケツと枝打ち、骨は土砂と下草払い。青タグ骨は各列のサブリーダー。
合図は拍手1で開始、2で停止。木笛1が“ここまで”、2が“全停止”、3が“集合”。頭に叩き込む。
「防火帯をあと150m延ばす。黒土を出す、段差は20cm刻み。枝は2mまで。水はケチらない。——“早い”より“確実”」
作業が回り始めた10分後、風が鳴いた。乾いた葉が一斉に裏返る。
糸鈴が短く、複数箇所で。飛び火が来た。
「スポット火! 列B、バケツ1、土2、枝!」
水が落ち、土が被さり、枝が叩く。煙は潰れる。
別の列でまた着火。繰り返し。全員の動きが、訓練の音をなぞるみたいに滑っていく。
「ケイ、正面の炎、勢いが増す」とローヴェン。
遠目にも赤い舌が伸びている。ここで腹をくくるタイミング。
「逆火でいく。俺とニナ、ローヴェンで点火。アンカーは岩場と用水路の曲がり。逃げ道は風下に確保。——“Clause 3(使後の戻し)”は、使わないから関係なし。やることは段取りどおり」
「了解。どや立ちは?」
「今日もダメ」
用水路の水を柄杓で撒いて、点火線の外側(こちら側)を湿らせる。湿りの帯を作ってから、松明でチリ、と枯れ草に火を置く。
風が舐めて、炎がこちら側にゆっくり歩く。狙いどおり。ゆっくり燃やして、向こうの本火とぶつける。燃えるものを先に食わせて、進む足を奪う——これが逆火。
「点火線、5mで止めろ。走らせない。煙が低く這うときは水を打て!」
骨が“カツ、カツ”と踵を控えめに鳴らし(なぜそれを覚えた)、土を抱えて走る。オーシは曳き具で湿った布の帯を引いて、火の前に“湿潤線”を敷いていく。
帆布がしゅる、しゅる、と土を吸う音。巨体なのに、歩幅はやさしい。角がコツンと俺の肩に当たる。「了解」の合図。勝手にそう解釈しておく。
風向が一瞬だけ振れた。逆火の舌がふっと跳ねる。危ない。
「停止!」拍手2。木笛1。“ここまで”。
湿りが勝って、火は鈍る。ゆっくり、舌を巻き取るみたいに戻っていく。
遠くの本火が来る。赤が高くなり、熱が頬を刺す。
こちらの逆火とぶつかり合って、バチ、バチ、と火花の音を立てる。
火と火が食い合い、燃えるものを奪い合って、やがて勢いを落としていく——計算どおり。決まった。
「列C、後方のスポット火、潰せ! クロス溝、深さ15cm!」
風で跳び越えた火の粉が、後ろで小さく燃え始めた。
骨がスコップで“十字”に溝を切り、人が水と土を打つ。
セラの声が飛ぶ。「火傷ゼロ続行!」
ルークは配水を回しながら、「右揃えで、残量——」
「数字は後で! 今は口で!」
15分。長い15分。
赤が低くなり、煙の色が白に寄っていく。
逆火ラインの先で、本火が最後に一息ついて、しゅう、と消えた。
糸鈴が風でひと鳴り。静けさが、戻ってくる。
「……勝った」
誰かの喉の奥で、音にならない歓声が揺れて、すぐ笑いに変わった。
オーシが鼻を鳴らす。骨は——胸を張りかけたけど、俺と目が合って“省エネ立ち”に戻った。学習したな、お前ら。
「被害、確認。畑の端が5m焦げ、植え戻し苗床は無事、建物ゼロ、怪我は?」
「軽い熱疲労が2。冷やしてる」とセラ。
「よし。全員、座れ。水飲め。勝ったときほど、油断しがち」
全体が水を飲む音を聞きながら、俺は板にチョークを走らせた。
・逆火:成功(アンカー=岩場+用水路)
・防火帯:3m×350m到達
・被害:畑端5m焦げ/建物0
・事故:人間の熱疲労2(処置済)/骨の部品外れ3(復旧)
・避難:子ども・年配、石壁内→全員無事
・奇跡三箇条:未使用(Clause1回避済/Clause2=段取りで代替可/Clause3=使わず)
手を止めると、風が灰を運んだ。灰の雪。
空はまだ鈍く、遠い稲光がときどき走る。けれど炎は、ここにはない。
段取りで、勝った。数字で、勝った。
奇跡は、壁の消火器のままでぶら下がっている。——そういう日を、選べた。
「ケイ。……“どや”、すこしだけ?」とニナが笑う。
「3秒だけ、全員で。“どや”!」
骨含めて、全員が胸を張る。1、2、3——「解除!」
笑いが散って、誰かが泣いた。泣き笑いの音は、いい音だ。
夕暮れ、糸鈴が二度、やさしく鳴った。
俺は板に最後の1行を足す。
事故ゼロ継続:64日。——明日も続ける。
(つづく)




