【第1話 採用、おめでとうございます——異世界で】
管理職になってから、俺の仕事は報告書と部下の査定ばかりだ。
数字を積み上げるのは嫌いじゃない。だが、そこに人の顔が消えた瞬間、急に空っぽになる。
現場や取引先で話を聞き、課題解決することがやりがいもあったし、楽しかったのに。
「もう一度現場に戻りたい」と上に掛け合ってから一年。返ってきたのは当たり障りのない笑顔だけ。仕様変更のない改善案なんて、ただの飾りだ。
そんなわけで、俺は転職エージェントに登録した。
思い立ったが吉日。最初に紹介された会社の面接に向かって、エレベーターに乗る。鏡に映る自分は三十代後半の、少しやつれたサラリーマン。ネクタイは地味で、靴は磨いた。戦う場所を変えるだけだ、と自分に言い聞かせる。
面接室は、どこにでもある小会議室だった。白い壁、安っぽい観葉植物、冷房の音。
迎えたのは、切れ長の目に黒縁の眼鏡をかけたキャリアウーマン風の女性。名刺には「利部」とある。名字に聞き覚えはないが、妙に耳に残る音だ。
「どうぞ、お掛けください、三条さん」
声の落ち着きが印象的だった。人事の“慣れたテンプレ”ではない。こちらの反応を丁寧に観察する目線。俺は背筋を伸ばす。
「では、さっそくですが——あなたの得意分野は?」
雑談もそこそこに切り出された質問は端的すぎて、思わず笑いそうになる。だが、こういう直球のほうが答えやすい。
「現場を見て、話を聞いて、改善につなげていくことです。
数字は結果で、始発点は人です。人の動きが変われば、数字は後からついてくる。そういう現場づくりが得意です」
利部は小さく頷き、笑った。堅い笑みではない。勝ち筋を見つけたコンサルみたいな、安心した笑みだ。
「いいお答えです。自由にものを考え、自由に選ぶ人の話を、あなたはきちんと聴ける。そういう人は、実はとても稀少なんですよ」
「自由、ですか」
「ええ。自由は、放っておくとすぐ誰かに取り上げられてしまう。誰かの善意や秩序の名のもとに、簡単に——」
彼女はそこで言葉を切り、手元の書類に視線を落とす。ページが一枚めくられる軽い音。
「三条さん。私どもは、とある“組織課題の解決”を専門としています。対象は……普通の会社ではありません。世間からは“邪悪”と呼ばれている集団です」
「ブラック企業の更に上位互換、みたいな?」
「呼び名は人それぞれ。……過去にも何人か“適任者”を送りました。ですが、一人は自由を管理に変え、暴君になってしまった。
もう一人は力を得て戦争を始め、自由を奪った。——失敗です」
さらりと、とんでもないことを言う。冗談にしては目が笑っていない。
背筋に冷たい汗が伝う。だが、好奇心も同じくらい騒いだ。自由を掲げる集団? それがなぜ“邪悪”と呼ばれる?
「あなたには、数字があります。けれど人を数字で殴らない。そこが良い。だから——」
利部は椅子からすっと立ち、俺に向かって手を差し出した。握手の仕草。
彼女の掌は温かい。なのに、指先から痺れが駆け上がる。静電気にしては長い。
「**採用、おめでとうございます。**」
「え?」
「これより、あなたには“異世界”にて——とある教団の**再建**をお願いします。役職は、そうですね……教団の長」
「ちょ、待っ——俺は管理職お断——」
言い切る前に、室内の色が抜け落ちた。白い。蛍光灯の白ではない。雪の中に顔を突っ込んだみたいな、音を飲み込む白だ。
テーブルも、観葉植物も、俺の手帳も、すべてが白い光に融けていく。利部のシルエットだけがくっきりと残り、ふわりと揺れた。
「大丈夫。あなたは、私の願いに一番近い。……どうか、彼らの自由を、彼ら自身の手に」
耳の奥で、遠雷のように声が響く。利部の輪郭は、どこか幼い影に見えた気がした。
まぶたを閉じる。閉じても白い。足元がふわりと浮く。胃がきゅっと縮む。
「ちょ、ま——本当に俺、教団長とか無理だって! 俺はただ、現場に戻りたいだけで——」
「がんばってね、新しい——」
最後の言葉は、雪解けの水に溶けるように、聞き取れなかった。
世界が反転する。
落ちているのか、昇っているのか、わからない。
唯一確かなのは——
俺は、管理職から逃げてきたはずなのに。
よりによって、異世界で“トップ”を押しつけられたらしい、ということだった。
(つづく)