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第9話 氷の牙、目覚めの兆し

 翌朝、まだ薄暗いうちから茜はルツィアの社を訪れた。杉田は、どこから調達したのか温かい茶をすすりながら、「姫様も物好きなお方だ。もっとも、この杉田も大概でございますが」と、もはや自分の役割を半ば楽しんでいるかのような口ぶりだ。


「ほう、来たか、性急なお姫様。昨夜はもののけの夢でも見てうなされたかえ?」

 ルツィアは、社の入り口で腕組みをして待ち構えていた。その顔には、意地の悪い笑みが浮かんでいる。

「いいえ、ルツィア様。むしろ、早くご指導いただきたく、夜が明けるのが待ち遠しいほどでしたわ」

 茜がきっぱりと言い返すと、ルツィアは「威勢だけは一人前じゃのう」と肩をすくめた。


「さて、今日の試練じゃ。この雪見山脈で、もののけが最も嫌う匂いの草と、逆に、好んで集まるという甘露を持つ木の実を、日暮れまでにそれぞれ三つずつ見つけてこい。ただし、条件がある。決してもののけに姿を見られてはならん。森の声を聞き、風の囁きに耳を澄ませ。お前さんの五感を全て使って、もののけの気配よりも先に、それらを見つけ出すのじゃ」

 それは、昨日よりも格段に難しい試練だった。

「杉田、お前さんは姫様の荷物持ちでもしておれ。ただし、余計な口出しは無用じゃぞ」

 ルツィアの言葉に、杉田は「御意に」とだけ応じ、茜の後ろに控えた。


 茜は、懐に入れた小雪お手製の「晴れ乞い人形」をそっと握りしめ、雪深い森へと足を踏み入れた。最初は、どこから手をつけていいのか皆目見当もつかない。だが、ルツィアの「森の声を聞け」という言葉を反芻するうち、茜はふと足を止め、目を閉じた。

(風の音…木の葉の擦れる音…遠くで鳥の鳴く声…雪を踏む自分の足音…)

 意識を集中すると、今まで気づかなかった様々な音が聞こえてくる。そして、匂い。湿った土の匂い、針葉樹の鋭い香り、そして…微かに獣の匂い。

「…杉田殿、あちらは…避けた方がよさそうですわ」

 茜が指さした方向は、風下に当たり、獣の匂いが濃く感じられた。杉田は何も言わなかったが、その目にほんの少しだけ感心の光が宿ったように見えた。


 苦労の末、茜は『北方風土記』の記述と、自らの五感を頼りに、鋭い刺激臭を放つ苔むした薬草と、鳥や小動物が群がっているのを目印に、凍てつく枝の先に実った小さな赤い木の実を見つけ出すことができた。途中、何度も氷狼の遠吠えを耳にし、そのたびに身を隠し、息を潜めながらの探索だった。日暮れ間際、ようやく三つ目の木の実を手にした時、茜は疲労困憊で雪の上に座り込んでしまった。


「…まあ、及第点というところかのう」

 社に戻り、茜が見つけてきたものを差し出すと、ルツィアは一つ一つを吟味し、そう言った。

「お前さん、意外と鼻が利くようじゃな。それに、もののけの気配を読む勘も、磨けば光るやもしれん」

 褒められたのか貶されたのか分からない言葉だったが、茜は素直に嬉しかった。


 その日から、ルツィアによる本格的な「氷の術」の指導が始まった。

「良いか、茜。氷を操るということは、まず水を知り、風を読み、そして何より、お前さん自身の心の『芯』を凍らせることなく、澄み切った状態に保つことじゃ」

 ルツィアは、そう言うと、まず自然の冷気を利用して、器の水を凍らせることから教え始めた。特定の呪言を唱え、印を結び、精神を集中させる。しかし、茜がやると、水はうっすらと氷の膜が張るだけで、すぐに溶けてしまう。

「ふん、まるで気の抜けた甘酒じゃな。そんなことでは、氷狼の鼻息ひとつで吹き飛ぶわい」

 ルツィアの容赦ない言葉に、茜は何度も唇を噛んだ。寒がりな茜にとって、冷気を操るというのは、まさに自分自身の弱点と向き合うことでもあった。


 だが、茜は諦めなかった。来る日も来る日も、日がな一日、凍える社で氷と格闘した。失敗してはルツィアに叱咤され、それでも食らいついていく。その姿は、帝都で「置物姫」と呼ばれていた頃の彼女とは、もはや別人だった。


 一方、その頃、白銀郷では日に日に緊張が高まっていた。

 氷狼は、もはや夜だけでなく、日中にまで姿を現すようになり、子供たちは外で遊ぶこともできなくなった。備蓄していた薪も底をつき始め、村人たちの顔には疲労と焦りの色が濃くなっていく。

「茜様は…まだお戻りにならんのか…」

 源爺は、毎日のように雪見山脈の方角を眺め、深いため息をついた。鉄も、若者組を率いて村の警備を強化していたが、増え続ける氷狼の数に、苛立ちを隠せない。

「ちくしょう…! このままじゃ、じり貧だぜ…!」

 梅は、茜が帰ってこないことに気を揉み、毎日小雪と共に社の方角へ手を合わせ、茜の無事を祈り続けていた。


 そんな村の状況など知る由もない茜は、ルツィアの社で、ついに小さな氷の塊を自在に手のひらの上に作り出すことに成功していた。それはまだ、氷の欠片と呼ぶのがやっとの大きさだったが、茜にとっては大きな大きな一歩だった。

「…やった、やりましたわ、ルツィア様!」

「ふん、まだまだひよっこじゃ。だが、まあ、ほんの少しだけ、氷の神様がお前さんに微笑んでくれたようじゃのう」

 ルツィアは、ぶっきらぼうに言いながらも、その目元は心なしか和んでいる。

「さて、お姫様。そのか細い『氷の牙』で、何を狩るつもりかね?」

 ルツィアが、にやりと笑って問いかけた、その時だった。


 杉田が、いつになく険しい表情で社に駆け込んできた。

「ルツィア殿、姫様! 一大事でございます! 白銀郷の村人が…氷狼の群れに囲まれて、山道で立ち往生しているとの報せが!」

「なんですって!?」

 茜の顔から血の気が引いた。まさか、このタイミングで…。


 ルツィアは、じっと茜の目を見た。その瞳には、厳しい光が宿っている。

「…どうする、茜。お前さんの『氷の牙』は、まだ雛鳥の爪ほどにも満たない。それでも、行くというのか?」

 それは、ルツィアからの、最後の問いかけのようだった。


 茜は、自分の手のひらを見つめた。そこには、まだ不確かだが、確かに自分の意志で生み出した冷気が宿っている。

(行かなければ…!)

「参ります、ルツィア様。たとえ、この力がどれほど未熟であろうとも…わたくしは、白銀郷の人々を見捨てるわけにはまいりません!」

 茜の瞳に、迷いはなかった。それは、かつての「お飾り姫」ではありえない、強く、そして澄み切った決意の光だった。

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