第8話 偏屈山守と、姫様の胆力問答
「ひ、姫鍋…ですって…?」
足首に食い込んだ蔓の痛みに顔を歪めながらも、茜は老婆の不穏な言葉に目を丸くした。まさか、帝都では「氷の姫御子」とまで呼ばれた自分が、こんな雪深い山奥で、文字通り鍋の具にされようとは…。隣では、杉田が「ほう、役人鍋も乙なものですな。出汁は昆布でお願いできますかな?」などと、この状況でよくもまあ、と感心するほど落ち着き払って応じている。
「ふふ、冗談じゃよ、冗談。そんな痩せっぽちの姫と、胡散臭い役人なんぞ、煮ても焼いても美味くもなかろう」
老婆は、しわがれた声でからからと笑い、茜の足元の蔓を慣れた手つきでひょいと外した。意外なほどあっさりと解放され、茜は呆気に取られる。
「ささ、こんな所で立ち話もなんだ。わしの庵は汚いが、まあ、凍えるよりはマシじゃろう。ついてきなされ」
老婆はそう言うと、くるりと背を向けて社の奥へと歩き出した。その足取りは、見た目の老婆らしからぬほどしっかりとしている。
促されるまま社の中へ入ると、そこは想像以上に雑然としていた。壁という壁には薬草やら干した獣の皮やら、得体の知れないものが所狭しと吊り下げられ、床には古い書物や奇妙な形の道具が山と積まれている。だが、不思議と不潔な感じはせず、むしろ濃厚な薬草の香りと、古木の香りが混じり合った独特の匂いが鼻をついた。部屋の中央には小さな囲炉裏があり、弱々しいながらも火が燃えている。
「わしはルツィア。この忘れられた社の、しがない山守じゃ」
老婆――ルツィアは、囲炉裏のそばにどっかりと腰を下ろし、茜たちを睨むように見据えた。その瞳は、年の割に驚くほど鋭く、まるで全てを見透かしているかのようだ。
「して、帝都のお姫様と、そのお付きの役人様が、こんな雪深き山奥に、何の御用かな? まさか、本当に雪男見物ではあるまい?」
ルツィアの言葉には、明らかな揶揄の色が滲んでいる。
茜は、居住まいを正し、真っ直ぐにルツィアの目を見て言った。
「わたくしは氷室茜と申します。白銀郷の目付け役として参りました。本日は、山守様のお知恵を拝借したく…もののけから、村を守るための手立てを教えていただきたいのです」
「もののけから村を守る、とな?」ルツィアは、鼻でふんと笑った。「なぜ、わしがお前さんたちを助けねばならん? 人間ほど、この山で勝手気ままに振る舞い、自然の理を乱すものはおらんというのに」
その言葉は、かつて源爺が口にした不信感とどこか通じるものがあった。
「確かに、人間は多くの過ちを犯してまいりました。ですが…白銀郷の人々は、今、本当に苦しんでいます。このままでは、もののけの脅威に村そのものが飲み込まれてしまうやもしれません」
「それが自然の摂理というものかもしれんぞ? 弱いものが強いものに食われる。単純な話じゃ」
ルツィアの言葉は冷たい。だが、茜は怯まなかった。
「それでも、わたくしは諦めたくありません! 彼らを見捨てることはできません! たとえわたくしがどれほど無力であろうとも、何かできることがあるはずだと信じております!」
茜の必死の訴えに、ルツィアはしばらく黙って囲炉裏の火を見つめていた。杉田は、壁際に立ち、黙って二人のやり取りを見守っている。その表情は読み取れない。
やがて、ルツィアはぽつりと言った。
「…ふん。青臭いな、お姫様。だが、その青臭さ、昔のわしに少しだけ似ておるやもしれんのう」
その横顔に、一瞬だけ寂しげな色が浮かんだように見えた。
「わしも昔は、人間ともののけが手を取り合って暮らせる世を夢見たもんじゃ。じゃが、人間はすぐに裏切る。約束を忘れ、恩を仇で返す。だから、わしは人間と関わるのをやめたのじゃ」
ルツィアの言葉の端々に、深い諦念と、人間への不信感が滲み出ている。
「ですが、ルツィア様」と、ここで初めて杉田が静かに口を開いた。「全ての人間がそうとは限りませぬ。この姫様は…少なくとも、己の保身のためだけにここへ来たのではございますまい。その目を見れば分かります」
杉田の言葉に、ルツィアは少し意外そうな顔をして彼を見た。そして、再び茜に視線を戻す。
「…お前さん、名は茜と申したな。ならば聞こう。お前さんは、白銀郷の者たちをどう思うておる? 彼らは、助けるに値する人間か?」
それは、試すような、鋭い問いだった。
茜は、少しの間考え込んだ後、正直に答えた。
「…正直に申しますと、わたくしはまだ、彼らのことをよく存じ上げません。冷たく、頑なで、わたくしのような者を簡単には受け入れてくださいません。ですが…」
茜は、小雪の笑顔や、布をくれた老婆の優しさ、そして薪をこっそり置いてくれたかもしれない鉄の不器用さを思い浮かべた。
「ですが、彼らは厳しい自然の中で、必死に生きようとしています。不器用で、素直ではないけれど、その心根には温かいものがあると、わたくしは信じたいのです」
茜の言葉を、ルツィアは黙って聞いていた。そして、ふっと息を吐くと、まるで重い荷物を下ろしたかのように、その表情が少しだけ和らいだ。
「…仕方ないのう。どうやら、とんだお人よしのお姫様が迷い込んできたもんじゃわい」
ルツィアは、立ち上がると、社の奥の棚からいくつかの奇妙な道具と、乾燥した植物の束を取り出した。
「少しだけなら、知恵を貸してやらんこともない。ただし、これは施しではないぞ。お前さんが、それに見合うだけの働きを見せることが条件じゃ」
ルツィアは、茜に薬草の仕分けや、見たこともない鉱石を粉にする作業を手伝わせ始めた。その間、ぽつりぽつりと、もののけの習性や、自然の力を利用する方法について語り出す。
「もののけとて、みだりに人を襲うわけではない。彼らにも彼らの理がある。それを知らずして、ただ力でねじ伏せようとするから、余計に事を荒立てるのじゃ」
「氷は、ただ冷たいだけのものではないぞ、茜。使い方によっては、炎よりも強力な盾となり、鋭い刃ともなる。だが、それを扱うには、相応の覚悟と知恵がいる。生半可な気持ちで手を出せば、自分自身が凍てつくだけじゃ」
ルツィアは、ふと社の入り口に目をやり、何かの気配を感じ取ったのか、手にした木の棒で地面をトン、と軽く突いた。すると、社のすぐ外で、何かが雪に足を取られて転ぶような音がした。
「ほれ、こんな風にな。あれは、ただの雪兎じゃが、油断すれば足元を掬われる。もののけ相手なら、なおのことじゃ」
ルツィアの言葉は、茜の心に深く刻まれた。
陽が傾きかけ、社の中が薄暗くなってきた頃、ルツィアは茜に向き直った。
「さて、今日はここまでじゃ。お前さんの根気だけは、少しは見せてもらった」
その顔には、どこか満足げな色が浮かんでいる。
「本当にお前さんに、もののけと渡り合う覚悟があるというのなら…明日、もう一度ここへ来るがいい。次は、もう少し手強い『お客様』で、お前さんの胆力を試させてもらうとしようかのう」
ルツィアは、そう言うと、口の端を吊り上げて不敵な笑みを浮かべた。それは、新たな試練の始まりを告げる、偏屈な山守からの挑戦状のようだった。
茜は、ルツィアの言葉の重みと、その知恵の深さに、改めて身の引き締まる思いがした。そして、明日待ち受けるであろう「手強いお客様」とは一体何なのか、一抹の不安と、それを上回る好奇心を胸に、雪深い帰り道を杉田と共に下り始めるのだった。