第7話 忘れられた社の山守と、姫様の道中記
杉田の思わせぶりな言葉に、茜の心は俄然色めき立った。
「杉田殿! その『奇妙な物語』とやら、詳しくお聞かせ願えませんか? もしかしたら、それが今の白銀郷を救う手がかりになるやもしれません!」
前のめりになる茜に対し、杉田はふっと煙管(いつの間にやら懐から取り出していた)の煙を吐き出し、わざとらしく天井を仰いだ。
「さて、さて。ただの古い言い伝えでございますよ、姫様。この白銀郷の北、雪見山脈のさらに奥深く…『忘れられた社』と呼ばれる場所に、風変わりな山守が一人、ぽつんと暮らしておるとか、いないとか」
「山守…! その方が、もしやもののけと…?」
「さあ、どうでしょうなあ。ただ、その山守は、雪見山脈のあらゆる獣や草木、そして…目に見えぬモノたちの声を聞き、その理を解するともっぱらの噂。もっとも、その姿を見た者は、ここ数十年、誰一人としておりませぬが。下手をすれば、ただの雪男伝説でございましょう」
雪男伝説、という言葉に梅が「ひいぃっ!」と小さな悲鳴を上げたが、茜の耳にはもはや入っていなかった。
(山守…もののけの声を聞く…)
これだ、と茜は直感した。たとえ万に一つの可能性だとしても、それに賭けてみる価値はある。
「わたくし、その山守に会いに行きます!」
茜の宣言に、梅は今度こそ本当に卒倒しそうになった。
「姫様! なりませぬ、なりませぬぞ! 雪見山脈の奥など、生きて帰れる場所ではございません! ましてや雪男やもののけの巣窟へなど、この梅が、この梅が盾となりて…!」
わんわんと泣き崩れる梅をなだめつつ、茜は杉田に視線を送った。杉田は、肩をすくめて煙管をポンと叩き、灰を落とす。
「まあ、姫様がどうしても退屈しのぎをなさりたいのであれば、お供くらいは致しましょう。ただし、道中の安全も、山守とやらに会える保証も、一切いたしかねますがね」
その口調はいつもの通りだが、その瞳の奥には、茜の決意を試すような、あるいは、何かを期待するような複雑な光が揺らめいていた。
山守に会うという茜の突拍子もない計画は、あっという間に子供たちの間にも広まった(情報源は、もちろん小雪だ)。
「茜様、山に行くの? 大丈夫?」
小雪は、心配そうに茜を見上げ、小さな手で握りしめた何かを差し出した。それは、不格好だが愛嬌のある、布切れで作った「てるてる坊主」のような人形だった。
「これ、おばあちゃんに作ってもらったの。『晴れ乞い人形』だって。茜様が、無事に帰ってこられるように」
「ありがとう、小雪ちゃん…!」
茜は、胸が熱くなるのを感じながら、その人形を大切に懐にしまった。
一方、その様子を遠巻きに見ていた鉄は、例によって苦々しげな表情を浮かべていた。
「フン、今度はもののけに命乞いでもしに行くのかね、お飾り姫様は。どうせ無駄な足掻きだ」
その言葉は冷たいが、茜がふと鉄と目が合った瞬間、彼の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、言いようのない不安のようなものがよぎったのを、茜は見逃さなかった。
茜が出発を決意したその前夜、事件は起こった。
村の数少ない家畜である山羊を飼っている小屋が、氷狼の群れに襲われたのだ。幸い、村人の誰かが気づき、松明を投げつけて追い払ったため、全滅は免れたものの、二頭の山羊が犠牲となり、小屋は無残に破壊されていた。静まり返った村に、犠牲になった山羊の飼い主である老婆の、悲痛な泣き声だけが響き渡る。
源爺は、握りしめた拳をわなわなと震わせ、絞り出すような声で言った。
「…これ以上、村の者を危険に晒すわけにはいかん…何か、何か手を打たねば…」
その言葉は、茜の決意をさらに固くさせた。
翌朝、梅の「姫様ぁ~! 行かないでくださいませ~!」という涙の絶叫を背に(実際には、杉田が梅を羽交い絞めにして押さえていたのだが)、茜は杉田と共に、雪深い山道へと足を踏み入れた。
道は、想像を絶するほど険しかった。足首まで埋まる雪をかき分け、凍てつく風に耐え、時には四つん這いになって急斜面を登る。極度の寒がりである茜にとっては、まさに生き地獄だ。
「す、杉田殿…わ、わたくし、もう…指の感覚が…お、おにぎりが…凍って石に…」
あまりの寒さに歯の根も合わず、懐に入れていたおにぎり(梅が持たせてくれた)がカチコチに凍りついて凶器のようになっているのを発見した時には、さすがの茜も泣きそうになった。
杉田は、そんな茜を半ば呆れたような、半ば面白がるような目で見ながらも、時折自分の分厚い外套を茜の肩にかけたり、凍ったおにぎりを焚き火で炙ってくれたりした(その火起こしの手際の良さときたら!)。
「まったく、姫様というお方は…これほどまでに世間知らずで、お人が良くて、そして…諦めが悪いとは。帝都のどなたが、今の姫様のお姿を想像できましょうな」
杉田の言葉は皮肉めいているが、その声には、どこか親愛の情のようなものが滲んでいるように感じられたのは、寒さで頭がおかしくなったせいだろうか。
どれほど歩いただろうか。日も傾き始め、体力も限界に近づいた頃、杉田が不意に立ち止まった。
「…あれをごらんなさい、姫様」
杉田が指さす先には、雪に半ば埋もれた、古びた鳥居が見えた。そして、その奥には、屋根に分厚い雪を乗せた、小さな、しかしどこか厳かな雰囲気を漂わせる社がひっそりと佇んでいた。
「…忘れられた社…」
茜は、息を飲んだ。人の気配は全くない。ただ、しんしんと雪が降り積もる音だけが、辺りを支配している。
(本当に、こんな場所に…山守が…?)
期待と不安が入り混じる中、茜が社へと一歩踏み出そうとした、その時だった。
カシャッ!
足元で、何かが作動する鋭い音がした。次の瞬間、茜の足首に、何かが絡みつく感触。
「きゃっ!」
バランスを崩し、雪の上に倒れ込む茜。見れば、足首には丈夫な蔓で作られた罠が、見事に食い込んでいた。
「姫様!」
杉田が駆け寄ろうとするが、それよりも早く、社の奥の暗がりから、低い、そしてどこか楽しむような老婆の声が響いた。
「ほうら、かかった、かかった。久しぶりの獲物じゃのう。さて…今宵は、姫鍋かの? それとも、役人鍋かのう?」
その声と共に、暗がりからぬっと姿を現したのは、腰の曲がった、しかしその瞳だけが異様に鋭い光を放つ、一人の老婆だった。