第6話 小さな灯火と、迫りくる影
源爺からの重い「宿題」を胸に刻んだ茜は、翌日から早速、自らの「覚悟」を示すための行動を開始した。まずは、自分たちの拠点である、あの隙間風だらけの館の住環境改善からだ。帝都育ちの姫君が、まさか左官のような真似事をすることになるとは、数週間前の自分には想像もつかなかっただろう。
「ひ、姫様、そのような…! 泥が、泥がお顔に!」
梅の悲鳴をBGMに、茜は『北方風土記』の記述を頼りに、苔と土を練り合わせたものを木のへら(杉田がどこからか見つけてきた、ただの平たい板きれだ)で壁の隙間に塗り込めていく。もちろん、最初からうまくいくはずもなく、顔やら髪やら、それこそ豪奢だったはずの(今は見る影もない)打掛まで泥だらけだ。
「うふふ、梅、なんだかこれ、帝都で流行っていた泥パック美容に似ていなくもないわね? お肌がすべすべになるかも…いたっ!」
調子に乗って言った途端、バランスを崩して尻餅をつき、さらなる泥だらけになる始末。その様子を、館の遠巻きに見ていた小雪が、くすくすと笑い声を漏らした。
「茜様、こっち! こっちの苔のほうが、もっといっぱいあるよ!」
いつの間にか、小雪は数人の村の子供たちを引き連れて、茜の作業を手伝い始めていた。子供たちは、最初はもじもじとしていたが、泥だらけで奮闘する茜の姿が面白かったのか、あるいは小雪に誘われたのか、小さな手で一生懸命に苔を集めたり、水を運んだりしてくれる。
「ありがとう、みんな。本当に助かるわ」
茜が心からの笑顔を向けると、子供たちははにかみながらも嬉しそうだ。
その様子を、村の女衆が家の戸口から複雑な表情で見守っていた。中には、小雪の祖母の姿もあった。彼女は、しばらくためらった後、茜のもとへやってくると、古びた布きれを数枚差し出した。
「…姫様。こんなものしかねえが、壁の隙間にでも詰めなされ。少しは風を防げるかもしれん」
「まあ…! ありがとうございます!」
茜が顔を輝かせると、老婆は「ふん」とそっぽを向きながらも、口元は少しだけ緩んでいるように見えた。それから、ぼそりと「腹が減っては戦はできん。乾物で汁物でも作りなされ。体が温まる」と、雪国ならではの知恵を教えてくれる。
それは、ほんのささやかな変化だったが、茜にとっては大きな一歩だった。凍てついた大地に、小さな灯火がひとつ、またひとつと灯っていくような感覚。
もちろん、全ての村人が好意的になったわけではない。
茜たちが子供たちと協力して、松ぼっくりや枯れ枝を集めていると、例によって鉄が仲間と共に現れた。
「ちっ、姫様は今度はガキ大将か。そんな燃えカスみたいなもん集めて、何になるってんだ」
鉄は、集められた燃料の山を足で蹴散らそうとする。
「やめてください!」茜は、鉄の前に立ちはだかった。「これは、わたくしたちが一生懸命集めたものです。確かに、気休めにしかならないかもしれません。ですが、何もしないよりはましですわ! できることから一つずつ、それが、わたくしの覚悟ですから!」
茜の毅然とした態度に、鉄は一瞬怯んだように見えた。だが、すぐにいつもの嘲るような笑みを浮かべ、「勝手にしろ」と吐き捨てて仲間と共に立ち去っていった。
しかしその翌日、茜たちが薪小屋(という名の、ただの壁際に積まれた場所)を見ると、そこには昨日まではなかった、明らかに質の良い乾いた薪が数本、無造作に置かれていた。誰が置いたのかは分からない。だが、茜は、それが鉄の不器用な「何か」であるような気がしてならなかった。
そんな日々が数日続いたある夜のことだった。
ゴォオオオオオオオ―――ン…!
館のすぐ近くで、獣の咆哮が響き渡った。それは、以前山で聞いたものよりもずっと太く、そして威圧的で、館全体がビリビリと震えるかのようだ。
「ひいぃぃ! で、出ましたわ、姫様! お、狼がすぐそこに!」
梅は布団を頭まで被り、がたがたと震えている。茜も、心臓が早鐘のように鳴り響き、恐怖で体が竦むのを感じた。
囲炉裏のそばで静かに酒を(いつの間に手に入れたのだろう)呷っていた杉田が、ふと窓の外に目をやった。
「…どうやら、本気で腹を空かせているようですな。雪見山脈の奥で、何かよほど大きな異変でもあったのかもしれません」
その言葉には、いつになく真剣な響きがあった。
「異変…?」
「ええ。あれほどの数の氷狼が、人里近くまでこれほど頻繁に下りてくるのは、尋常ではございません。あるいは、もっと大きなもののけ…例えば、雪鬼どもの縄張りが荒らされたとか」
杉田の言葉は、茜の胸に重くのしかかった。ただ寒さをしのぎ、日々の糧を得るだけでなく、この村は常に「もののけ」という直接的な脅威に晒されているのだ。
翌日、村の寄り合いが開かれたらしいが、茜はもちろん呼ばれるはずもない。だが、漏れ聞こえてくる話では、やはり氷狼の被害対策が話し合われたものの、老人ばかりの村では、もはや積極的な討伐もままならず、結局は「戸締りを固くし、できるだけ外出を控えるように」という消極的な結論に至ったようだった。
(このままでは…いつか、本当に…)
茜の心に、焦りと無力感が募る。そんな時、館に遊びに来た小雪が、ふとこんなことを口にした。
「ねえ、茜様。おばあちゃんが言ってたんだけどね、昔、この白銀郷のずっと奥の山には、もののけとお話しできる人が住んでたんだって」
「もののけと…お話しできる人?」
「うん。その人は、悪いもののけを鎮めたり、良いもののけと仲良くしたりできたんだって。でも、もうずっと昔にいなくなっちゃったんだって言ってた」
小雪の言葉は、まるで古いおとぎ話のようだった。だが、茜の心に、何かが強く引っかかった。
その夜、茜は、いつになく真剣な表情で、囲炉裏の火を見つめる杉田に声をかけた。
「杉田殿…この辺りに、昔、もののけと心を通わせることができたというような人物の…言い伝えはございませんか?」
杉田は、ゆっくりと顔を上げ、茜の目をじっと見据えた。その瞳の奥に、いつもの皮肉とは違う、深い光が宿っているように見えた。
「…ほう。姫様も、ようやく『おとぎ話』にご興味を持たれましたか」
彼は、ふっと口元に謎めいた笑みを浮かべた。
「さて、どうでしょうなあ。この白銀郷には、帝都の華やかな歴史とはまた違う、古く、そして少しばかり…奇妙な物語が眠っているやもしれませんぞ」
その言葉は、まるで茜を試すかのように、あるいは、新たな扉へと誘うかのように、静かに響いた。