第5話 手土産と、古木の心
翌朝、茜は鶏鳴(もちろん白銀郷に鶏などいないので、梅が気を利かせて「コケコッコーでございます、姫様!」と叫んだ時刻)と共に目を覚ました。昨夜のうちに、例の『北方風土記』から「雪国における食料保存の工夫」や「簡易的な雪囲いの作り方」といった記述を、拙いながらも分かりやすい絵図と共に和紙に書き出しておいた。そして、昨日採れた寒掘り芋の中から、特に形の良いものをいくつか選び、灰で丁寧に包む。これが、茜なりの「手土産」だった。
「姫様、本当にこれだけでよろしゅうございますか? 源爺様とやらは、たいそう頑固なお方と伺っておりますが…」
梅は、心配そうに茜の顔を覗き込む。
「ええ、大丈夫よ、梅。物で釣ろうというわけではないの。ただ、わたくしの気持ちを形にしただけだから」
茜はにっこりと微笑んだ。一方、杉田はといえば、柱に寄りかかって腕を組み、どこか芝居でも見るかのような面白そうな表情を浮かべていた。
「いやはや、姫様もなかなかどうして、骨のあることをなさる。吉と出るか凶と出るか、お手並み拝見ですな」
その言葉には、いつもの皮肉に加えて、ほんの少しだけ、期待のような響きが混じっているように感じられたのは、きっと茜の願望だろう。
源爺の家は、村の他の家々よりは多少しっかりとした造りではあったが、やはり雪の重みで少し傾いでおり、厳しい風雪に長年耐えてきた古木のような佇まいだった。戸を叩こうかためらっていると、中からひょっこりと小雪が顔を出した。
「あ、茜様!」
ぱあっと顔を輝かせた小雪は、すぐに「しーっ」と人差し指を口に当て、茜たちをこっそりと家の中へ招き入れた。
薄暗い土間を抜けると、そこは囲炉裏のある板の間だった。源爺は、部屋の奥で胡坐をかき、黙々と何か木細工をしている。その背中は、昨日よりもさらに小さく、そして頑なに見えた。
「源爺殿、氷室茜にございます。本日は、改めてご挨拶と…ご相談に伺いました」
茜が深々と頭を下げると、源爺はゆっくりと顔を上げた。その鋭い眼光は変わらない。
「…ほう、昨日のお飾り姫様が、今度は何の道楽で参られたかな」
相変わらずの刺々しい物言いだ。
茜は、ぐっと言葉を飲み込み、持参した寒掘り芋と書き付けを囲炉裏のそばにそっと差し出した。
「これは、昨日、小雪ちゃんに案内してもらって見つけたものです。そしてこちらは、わたくしが帝都で読んだ書物にあった、雪国での暮らしの知恵を書き出したものでございます。あるいは、何かのお役に立てるかと…」
源爺は、芋と書き付けを一瞥したが、すぐにふいと顔をそむけた。
「…くだらん。そんなもんで、この村の何が変わるというのだ」
「変わりませぬか?」茜は、静かに、しかし真っ直ぐに源爺の目を見据えた。「わたくしは、変えたいのです。この村を、少しでも暮らしやすい場所に。そのためなら、どんなことでもするつもりです。ですから…」
「だから、俺たちに指図しようってのか、あんたは!」
突然、荒々しい声が響いた。土間に、いつの間にか鉄が立っていたのだ。その手には、昨日と同じように鉈が握られ、目には敵意が剥き出しになっている。
「爺様! こんな女の甘っちょろい戯言に付き合ってる暇はねえ! それより、雪見山脈の様子がおかしい。氷狼どもが、やけに騒がしくなってる。こいつは、雪鬼が動き出す前触れかもしれねえぞ!」
「鉄、待て」源爺が低い声で制する。「姫様の言葉を、最後まで聞くのが筋というものだろう」
「筋? 帝都の連中に、そんなもんは通用しねえだろうが! いつだってそうだ! 口先ばかりで、俺たちを見捨ててきたのはどこのどいつだ!」
鉄の言葉は、怒りと、そして深い絶望に満ちていた。それは、彼一人のものではなく、この白銀郷に生きる全ての人々の心の叫びのようにも聞こえた。
茜は、鉄の言葉を真正面から受け止めた。
「…おっしゃる通りかもしれません。わたくしは、帝都では何もできず、この土地のことも、皆さまの苦しみも、本当の意味では分かっていないのかもしれません」
静かに頭を下げる茜。鉄は、ふんと鼻を鳴らす。
「ですが」と茜は顔を上げた。「だからこそ、教えていただきたいのです。この村で生きるための知恵を、厳しさを。そして、わたくしにできることが少しでもあるのなら、どうか、その機会をいただけないでしょうか」
「姫様の遊びに、俺たちを巻き込むなって言ってんだ!」
鉄が、一歩踏み出そうとした、その時だった。
「おじいちゃん! 茜様は、本当に村のことを考えてくれてるんだよ!」
小さな、しかし凛とした声が響いた。小雪が、源爺の前に飛び出し、両手を広げて茜を庇うように立っていたのだ。
「昨日ね、茜様、泥んこになってお芋掘ってくれたの! それから、松ぼっくりもいっぱい拾って、茜様がいたら、お部屋が少し暖かくなったんだよ!」
小雪の言葉に、鉄は一瞬たじろいだ。源爺の険しい表情にも、ほんのわずかだが、揺らぎが見えたような気がした。
「小雪…お前は、黙っていろ」
源爺は、苦虫を噛み潰したような顔で孫娘を制したが、その声には先程までの刺々しさが少し和らいでいる。
彼は、囲炉裏の灰をいじりながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「…昔、わしらも帝都の役人を信じたことがあった。豊作を約束すると言われ、けものの毛皮やなけなしの作物を差し出した。だが、見返りは何もない。それどころか、次の年にはさらに重い年貢を課せられ、村は疲弊する一方じゃった…」
その声には、長年抱えてきたであろう深い傷と、拭いきれない不信感が滲み出ている。
重い沈黙が部屋を支配した。
やがて、源爺は顔を上げ、茜の書き付けを手に取った。そして、それをゆっくりと、隅から隅まで読み始めた。鉄は、苦々しげな顔で腕を組んでいる。小雪は、心配そうに源爺と茜を交互に見ている。
どれほどの時間が経っただろうか。
源爺は、ふう、と長い息を吐くと、書き付けを静かに置いた。
「…姫様の言うことは、分からんでもない。確かに、この村は変わらねばならんのかもしれん」
その言葉に、茜ははっと顔を上げた。
「じゃが」と源爺は続けた。「わしらは、もう誰も信じられんのだ。特に、帝都から来たお偉いさん方はな」
彼は、じっと茜の目を見た。
「…好きになさるがいい。あんたが何をしようと、わしは止めん。だが、村の者に迷惑をかけるようなことだけは、決して許さん。もし、あんたが本気でこの村を変えたいというのなら…まずは、その覚悟を、あんた自身の行動で示してみせることじゃな」
それは、許可でもなければ、拒絶でもない。まるで、古木が風雪に耐えるように、ただじっと見極めようとするかのような、重い言葉だった。
茜は、深く、深く頭を下げた。
「…ありがとうございます、源爺殿。必ずや、ご期待に…いえ、わたくし自身の覚悟を、お見せいたします」
館への帰り道、茜の足取りは、来た時よりも少しだけ軽かった。もちろん、問題が解決したわけではない。むしろ、これからが本当の始まりなのだ。
「いやはや、源爺様も人が悪い。あれはつまり、『好きにやってみろ、だが失敗したら承知せんぞ』ということですな。姫様、なかなかに重い宿題を背負わされましたな」
杉田が、いつもの調子で言った。だが、その口元には、確かに笑みが浮かんでいた。
「ええ、分かっています。でも…それでも、ほんの少しだけ、前に進めたような気がするのです」
茜は、澄み切った冬空を見上げた。
その時、遠くの雪見山脈の方から、低く、長く尾を引くような遠吠えが聞こえてきた。それは、昨日よりもずっと近く、そして不気味な響きを帯びていた。
(氷狼…そして、雪鬼…)
白銀郷の厳しい冬は、まだ始まったばかりだ。そして、本当の脅威は、静かに、しかし確実に近づいてきているのかもしれなかった。