第3話 雪中の一歩と、狼の足跡
「本気でございますか、姫様!? そのようなお体で、吹雪にでも遭われたらひとたまりもございません! せめて、せめてこの梅も、いえ、杉田殿のような屈強な(どこがだ、と茜は心の中でツッコミを入れた)お方を…!」
「大丈夫よ、梅。それに、杉田殿は道案内をお願いするわ。ねえ、杉田殿?」
茜が、有無を言わせぬ笑顔(本人はそう思っているが、寒さで顔が引きつっているだけかもしれない)を向けると、杉田は壁にもたれたまま、やれやれといった風に肩をすくめた。
「…まあ、姫様がどうしてもとおっしゃるなら。ただし、日が暮れる前には必ず戻ります。それと、あまり期待なさらぬよう。この時期の山は、雪と氷以外、何もございませんから」
その口調は相変わらずだが、ほんの少しだけ、面倒くさそうな色合いが薄れたように感じられたのは、茜の気のせいだろうか。
かくして、茜の生まれて初めての「雪山薬草探索行」が始まった。装備は粗末そのもの。茜は梅が無理やり着せた何枚もの下着と、動きにくいほど厚い綿入れ、そして滑りやすい古びた革の雪靴。梅はといえば、涙目で茜の袖にすがりつき、「姫様、お気をつけて! もしものことがあれば梅は…梅は!」と今生の別れのように見送っている。
杉田を先頭に、茜は一歩一歩、深い雪に足を取られながら山道を進んだ。帝都の庭園を散策するのとはわけが違う。数歩進むだけで息が切れ、額には汗が滲む。いや、汗なのか、寒さで溶けた雪なのかもはや分からない。
「ひ、姫様、足元にお気をつけ…ひゃっ!」
案の定、茜は派手にすっ転んだ。雪まみれになり、まるで不恰好な雪だるまが一つ出来上がったかのようだ。
「…大丈夫でございますか、姫様。だから言わぬことではございません」
杉田は、振り返りもせず、淡々と言う。その背中が、心なしか笑っているように見えるのは、きっと気のせいだ。うん、気のせいに違いない。
「だ、大丈夫…これしきの雪…わたくしは氷の姫御子ですもの…冷たくないわ…全然…さ、寒くないんだから…!」
強がりを言いつつも、歯の根がカチカチと小さな音を立てているのは隠せない。それでも茜は、埃まみれならぬ雪まみれの『北方風土記』の写しを懐から取り出し、記述と周囲の地形を見比べる。
「このあたりに…確か、日当たりの良い岩陰に、冬でも枯れない『雪割草』という薬草が…腹痛や解熱に効くと書いてあるわ…」
杉田は、そんな茜の様子を横目で見ながら、時折立ち止まっては周囲の気配を窺っている。彼のやる気のなさそうな態度は相変わらずだが、山歩きの足取りは驚くほど確かで、まるで雪の上を滑るように軽やかだった。長年の辺境暮らしで培われたものだろうか。
しばらく進むと、杉田が不意に立ち止まり、片手を上げた。
「…静かに」
彼の低い声に、茜はびくりと動きを止める。風の音と、自分たちの荒い息遣い以外、何も聞こえない。
「どうしたの、杉田殿?」
「…狼の足跡だ。新しい」
杉田が指さす先には、雪の上に点々と続く、大きな獣の足跡があった。それは明らかに、昨日鉄が話していた「氷狼」のものと思われた。足跡は、茜たちが進もうとしている道の先へと続いている。
茜はごくりと唾を飲み込んだ。書物で知る「もののけ」と、その生々しい痕跡を目の当たりにするのとでは、わけが違う。
「…引き返しますか、姫様?」
杉田の問いに、茜は一瞬ためらった。怖い。正直、今すぐにでもあの隙間風だらけの館に戻って、布団にくるまりたい。だが、ここで引き返してしまっては、何も変わらない。
「…もう少しだけ、進んでみましょう。あの大きな岩の辺りまで。あそこなら、風も避けられそうだし…」
茜が指さしたのは、少し先に見える、雪を被った大きな岩塊だった。『北方風土記』によれば、そのような場所こそ、厳しい寒さを避けて植物が自生しやすいのだという。
杉田は何も言わず、再び歩き出した。その慎重な足取りからは、先ほどよりも強い警戒心が感じられる。
そして、ついにその岩陰にたどり着いた時だった。
「あ…!」
茜が小さな声を上げた。雪と岩の隙間に、健気にも緑色の葉を覗かせている植物がいくつかあったのだ。それは、まさしく『北方風土記』に記された「雪割草」の特徴と一致していた。数は少ないが、確かにそこにあった。
「見つけたわ! 梅! 杉田殿! あったのよ!」
寒さも忘れ、茜は小躍りしたいような気持ちでその小さな緑に手を伸ばした。生まれて初めて、自分の力で何かを見つけ出したという達成感が、胸いっぱいに広がる。
しかし、その喜びも束の間だった。
グォオオオオオン…!
山の奥から、地を這うような低い唸り声が響き渡った。それは間違いなく、狼の咆哮だった。しかも、一匹ではない。複数の獣が、互いに呼応するように吠えている。先ほどの足跡の主たちが、そう遠くない場所にいるのだ。
「…まずいな。風向きが変わった。奴ら、こっちの匂いに気づいたかもしれん」
杉田の顔から、いつもの皮肉な笑みが消えていた。その目は、鋭く山の奥を見据えている。
「姫様、急いでこれを。そして、館へ戻りますぞ!」
杉田は、懐から小さな革袋を取り出すと、雪割草を素早く数株摘み取り、茜に手渡した。その手際の良さは、ただの下級役人のそれとは思えなかった。
帰り道は、行きとは比べ物にならないほど早足だった。転びそうになる茜の腕を、杉田が一度だけ、無言で力強く掴んで支えてくれた。背後からは、依然として狼の遠吠えが追いかけてくるように聞こえ、茜は生きた心地がしなかった。
ようやく館が見えてきた頃には、茜は疲労と恐怖で足がもつれ、半ば杉田に引きずられるような状態だった。
「ひ、姫様! ご無事でしたか!」
門の前で待ち構えていた梅が、泣きそうな顔で駆け寄ってくる。
「ええ、なんとか…それより梅、見て。これを…」
茜は、震える手で革袋から雪割草を取り出して見せた。数は少ないが、確かな収穫だ。
梅は、それが何か分からぬながらも、茜が無事に帰ってきたことに安堵し、ひとまずそれを恭しく受け取った。
館に戻り、囲炉裏(と呼ぶにはあまりに貧弱な火床だが)に火を熾すと、ようやく人心地がついた。
杉田は、採ってきた雪割草を手に取り、じっと眺めている。
「…ふむ。確かに、これは雪割草ですな。質も悪くない。まあ、気休め程度にはなるやもしれませんが」
その言葉は相変わらず素っ気ないが、どこか茜の行動を認めているような響きも、ほんの少しだけ、含まれているような気がした。
「それにしても姫様、なかなかどうして、肝が据わっておられる。あの状況で、よくぞまあ…」
「そ、そんなことは…ただ、必死だっただけよ…」
茜は頬を赤らめた。実のところ、腰が抜けそうだったのは内緒だ。
その夜、茜は梅が煎じてくれた雪割草の薬湯を飲んだ。味はひどく苦かったが、不思議と体が少し温まるような気がした。そして、疲労困憊のはずなのに、なかなか寝付けなかった。
(見つけた…自分の手で)
小さな成功体験。しかしそれは、茜にとって何物にも代えがたい、確かな一歩だった。
(でも、狼…もののけは、本当にいるんだわ…)
同時に、この土地の厳しさと危険性を、肌で感じた一日でもあった。
(次はどうしよう…薬草だけじゃ、村は救えない…食料は? 暖は? 村の人たちは…)
課題は山積みだ。それでも、茜の心には、諦めるという選択肢はもはや浮かんでこなかった。むしろ、あの凍てつくような村人たちの視線が、今はなぜか、茜の闘志を静かに燃え上がらせているのだった。
ふと、窓の外で何かの物音がしたような気がした。風の音か、それとも…。茜は、そっと布団から抜け出し、凍える窓に近づいた。雪明かりに照らされた庭には、誰の姿も見えない。
だが、雪の上に、新しい足跡が二つ、三つ…。それは、獣のものではない。人のものだ。そして、その足跡は、茜たちの館の周りを窺うようにして、村の方へと消えていた。
(誰かが見ていた…?)
茜の背筋を、ぞくりとしたものが走った。それは、狼とはまた違う種類の、冷たい何かだった。