第2話 凍える館と、もっと凍える視線
夜通し吹き荒れた風は、夜明けと共にぴたりと止んでいた。しかし、それは白銀郷に穏やかな朝をもたらしたわけでは断じてない。むしろ、風がない分、放射冷却というやつだろうか、空気がガラス細工のように冷え切り、深呼吸すれば肺が凍りつきそうだった。
「ひ、姫様…ご無事で…?」
茜の簡素な寝台(と呼ぶにはあまりに粗末な板間に布団を敷いただけのもの)の横で、梅が毛布にくるまったミノムシのような姿で声をかけてきた。その声も、心なしか震えている。茜自身、何枚も重ねた布団の中で、まるで氷漬けの魚になったような気分だった。手足の感覚はとうの昔に家出をし、鼻の頭だけがかろうじて自分のものだと主張している。
「…なんとか、生きているようよ、梅」かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細い。「それにしても…この館、もしかして設計図の段階で『壁』という概念を省略したのかしら…」
「もうっ、そのような冗談をおっしゃっている場合ではございません! このままでは姫様が氷の彫像になってしまわれます!」
梅はそう言うと、ミノムシ状態から何とか這い出し、どこから持ってきたのか小さな火鉢に必死で炭をくべようとしている。しかし、その炭も湿気っているのか、なかなか火が熾きない。一方、茜は布団からそっと顔だけを出し、部屋の隅に目をやった。そこには、昨夜からまるで置物のように座り込み、時折壁の隙間から吹き込む雪を眺めては「風流ですなあ」などと呟いていた杉田の姿があった。彼は今、何事もなかったかのように、持参したらしい干し飯を水で戻し、黙々と口に運んでいる。その強靭な精神力、あるいは単なる無神経さには、ある種の敬意すら覚える。
「杉田殿は…お強いのね…」
「はあ、まあ、慣れでございますから。北の辺境勤務も長うございますので。姫様もすぐに慣れますよ、この『風情』には」
杉田は、もはや茜を姫として遇する気など毛頭ないかのように、あっけらかんと言った。
朝餉(と呼べる代物ではなかったが。冷え切った粥と、申し訳程度の漬物だけだ)を終えると、茜は意を決して館の外に出ることにした。このままでは凍死か餓死か、あるいは退屈死だ。梅は「姫様!そのような薄着で!せめて熊の毛皮を!」と騒いだが、残念ながら熊の毛皮などという高級品は、この廃屋には存在しなかった。茜は、持ってきた中で一番分厚い絹の外套をまとい、梅と、そして「道案内くらいはいたしますよ、遭難されても困りますし」と嫌々ながらついてきた杉田を伴って、白銀郷の視察に出た。
門を一歩出ると、昨日よりもさらに厳しく、そして静かな世界が広がっていた。家々の屋根からは鋭い氷柱が牙のように垂れ下がり、道という道は厚い雪に覆われている。時折、雪の中から煙突の先だけが見え、かろうじて人が住んでいることを示していた。しかし、人影は驚くほど少ない。たまに見かける村人も、皆一様にうつむき加減で、茜たちを見ると、まるで汚物でも見るかのように顔をしかめ、足早に家の中へ消えてしまう。
「…これが、村…」
茜の呟きは、白い息となって空気に溶けた。畑らしき場所は雪に埋もれ、作物など影も形もない。家畜小屋と思しき建物は傾き、中から動物の鳴き声は聞こえてこない。村の共同倉庫らしき建物に至っては、扉が半分壊れ、中は空っぽ同然だった。
「まあ、見ての通りでございます。冬はこんなもので。春になれば、少しはマシになりますが…今年はもののけの被害もひどく、蓄えも底をつきかけております」
杉田は、まるで他人事のように説明する。その言葉には、諦めと嘲りが滲んでいた。
村の中心部らしき広場に出ると、ひときわ大きな家の前に、数人の男たちが集まっていた。その中心にいたのは、背は低いが岩のようにがっしりとした体躯の老人だった。鋭い眼光が、雪原を駆ける狼を思わせる。
「あれが村長の源爺です。まあ、今の白銀郷で唯一、まとめ役と呼べる人物でしょうな」
杉田が囁いた。
茜が意を決して近づこうとすると、源爺は射るような視線をまっすぐに茜に向けた。
「…帝都からの姫君様とやらが、何の御用でこんな掃き溜めに?」
その声は、長く風雪に耐えた古木のように嗄れていたが、有無を言わせぬ迫力があった。
「わたくしは氷室茜と申します。この度、白銀郷の目付け役として参りました。村の現状を把握したく…」
「ふん。現状を見てどうなさる。帝都のお偉いさん方が、この村に何かしてくださったことが一度でもあったかな?」
源爺の言葉は、氷柱のように冷たく、そして鋭い。その目には、深い不信と、長年積み重なったであろう諦観が浮かんでいた。
その時、源爺の後ろから、さらに若い男が一人、ずいと前に出てきた。歳は茜と同じくらいだろうか。鍛えられた体に、反抗的な光を宿した瞳。腰には大きな鉈を差している。
「爺様、こんなお飾り人形に構ってる暇はねえだろ。それより、雪見山脈の氷狼どもが、また昨夜、村の近くまで下りてきてたぞ。罠の一つも見回りに行かねえと」
男は、茜を一瞥すると、フンと鼻を鳴らした。その視線は、まるで道端の石ころでも見るかのようだ。
「…あれが、鍛冶屋の息子の鉄です。若者組の頭ですが、まあ、見ての通りの荒くれ者で」
杉田が、またもや楽しそうに解説を加える。梅は、もはや青い顔をして茜の後ろに隠れてしまっている。
(お飾り人形、ね…)
昨日から何度その言葉を聞いただろう。だが、不思議と腹は立たなかった。むしろ、目の前のあまりに絶望的な光景と、人々の凍てついた心に、茜の胸の奥の小さな炎が、さらに勢いを増すのを感じていた。
「…源爺殿、鉄殿。わたくしは、確かに帝都では『お飾り』だったのかもしれません。ですが、ここでは、そうありたいとは思っておりません」
茜は、震える手で外套の襟をぎゅっと握りしめ、精一杯の声を振り絞った。
「何か、わたくしにできることはございませんか。この村のために、皆さまのために」
しん、と広場が静まり返った。源爺は眉一つ動かさず、鉄は嘲るように口の端を吊り上げた。他の村人たちは、遠巻きにこちらを見ているだけで、誰一人として言葉を発しようとしない。
結局、その日は何の成果も得られぬまま、茜たちは凍える館へと引き返した。
「姫様…やはり無茶でございます。あのような者たちに、何を言っても…」
梅が涙声で訴える。
「…いいえ、梅。彼らの言うことにも一理あるわ。今まで、誰もこの村に真剣に向き合ってこなかったのでしょうから」
茜は、かじかむ指を息で温めながら、ぼんやりと窓の外の雪景色を見つめた。白銀郷に来てから、まだ丸一日も経っていないというのに、帝都での華やかだが空虚な日々が、まるで遠い昔のことのように感じられた。
(できること…)
部屋の隅で、埃を被った数冊の書物が目に留まった。それは、茜が帝都から唯一持ってきた、個人的な荷物だった。その中の一冊、『北方風土記』。以前はただの知的好奇心で読んでいたその記述が、今、重い意味を持って迫ってくる。
「…そうだわ」
茜は、何かを思いついたように、書物に向かって駆け寄った。
「梅、この辺りの山には、薬草や、食用になる野草は自生していないかしら? この本によれば、厳しい冬を越すための知恵が…」
「薬草でございますか? さ、さあ…そのようなもの、わたくしには…」
「杉田殿! 杉田殿はご存知ありませんか!?」
茜が勢い込んで振り返ると、杉田は相変わらずの無表情で、壁に背をもたせかけていた。
「さあ…どうでしょうなあ。山に入るのは危険でございますよ、姫様。もののけも出ますし、それに、そんなもので腹が膨れるとも思えませぬが」
その言葉には、いつもの皮肉に加えて、ほんの少しだけ、何かを試すような響きが含まれているように、茜には感じられた。
(危険…でも、何もしなければ、このまま…)
茜は、書物を握りしめた。表紙は擦り切れ、文字は掠れているが、そこには確かに、先人たちの知恵が詰まっているはずだった。
「…行ってみましょう、梅」
「ひ、姫様!? どちらへ!?」
「山よ。まずは、この目で確かめないと」
寒さで赤くなった頬に、決意の色を浮かべて、茜は立ち上がった。お飾り姫の、最初の一歩。それが、どれほど小さな、そして無謀な一歩であったとしても。