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第1話 氷の姫御子、北へ飛ぶ(飛ばされる)

 帝都の春は、まるで薄絹を幾重にも重ねたような、淡く優美な色彩に満ちている。桜の花びらが吐息のように舞い散り、水路を流れる水面を薄紅色に染め上げる頃、ここ泉川殿の主である氷室茜ひむろ あかねは、いつものように書庫の片隅で、その美貌を持て余していた。


「姫様、またそのような埃っぽい場所に。お着物が汚れますわ」


 老侍女のうめが、ほう、と小さなため息をつきながら、茜の肩にかかった豪奢な打掛の裾をそっと持ち上げた。陽光を弾く黒曜石のような黒髪、雪原の空を映したかのような澄んだ蒼い瞳。黙って座していれば、それこそ生き写しの「雪の精」と見紛うばかりの美しさなのだが、いかんせん茜は「置物姫」あるいは「氷の姫御子」の異名を持つ。つまり、帝の娘でありながら、飾り物以上の役割を期待されていない、というのが帝都における衆目の一致するところであった。


「梅、この『北方風土記』、実に興味深い記述が…」

「まあ、そのような無骨な書物より、琴や和歌のほうが姫様には…」

「ですが、北の地では熊の胆が万病に効くとか。あと、氷の下で育つという『氷中花』は、不老長寿の…」

「ひいっ、熊! 不老長寿は結構でございますが、姫様がそのような物騒なものにご興味をお持ちとは、帝がお聞きになったら卒倒あそばします!」


 梅の悲鳴じみた声も、茜にとってはいつものこと。彼女の心配は、茜の美貌と血筋に傷がつかないか、その一点に集約されている。実際、茜がその類稀なる美しさで公の場に出れば賞賛の嵐だが、ひとたび口を開いて古文書の珍奇な記述や、辺境の薬草、奇妙な風習の話などをしようものなら、周囲は微妙な沈黙に包まれるのが常だった。結果、彼女はますます書庫に引きこもり、その美しさを埃と共に死蔵させるに至っている。


 そんなある日のこと。

 珍しく父帝からお呼び出しがあり、茜が梅に幾重にも着飾られ、ようやく帝の間にたどり着くと、そこには見慣れぬ厳めしい顔つきの文官と、そして何やら疲れた表情の父帝が座していた。


「…というわけじゃ、茜。そなたに、北の『白銀郷しろがねのさと』へ赴いてもらいたい」

「は、はい? 白銀郷、でございますか?」


 寝耳に水、とはこのことか。白銀郷といえば、帝国の最北端、雪見山脈の麓に位置する、それこそ『北方風土記』に「冬は人跡稀なり、夏なお雪渓を残す」などと記述される極寒の地である。しかも、近年は雪鬼ゆきおにやら氷狼ひょうろうやら、物騒な「もののけ」の被害も報告されている、いわば曰くつきの場所だった。


「うむ。目付け役としてな。かの地は、その…色々と立て直しが必要でな。そなたの清らかなる気風が、あるいは良い影響をもたらすやもしれぬ」

(清らかなる気風、ねえ…)

 茜は内心でため息をついた。要するに、帝国の財政難と北方の防衛問題に頭を悩ませる父帝が、何かと手のかかる(と本人は思っていないが周囲には思われている)娘を、体よく遠ざけたい、という魂胆が見え見えであった。事実上の厄介払い、左遷というやつだ。

「はあ…」

 気の抜けた返事をしかけた茜の脇腹を、梅が肘でぐいと突いた。

「も、もったいなきお言葉、謹んでお受けいたします、父上!」

 ほぼ梅の腹話術である。


 こうして、トントン拍子に話は進み、茜の白銀郷行きは決定した。供として付けられたのは、もちろん侍女の梅。そしてもう一人、見るからにやる気のなさそうな、目の下に隈を作った下級役人の杉田すぎたという男だった。


「氷室茜様にございますね。杉田と申します。よしなに」

 ぺこり、と力なく頭を下げる杉田の顔には、「面倒な姫様のお守り役かよ、最悪だ」と書いてあるのが茜には透けて見えた。

「…杉田殿、よしなに」

 こちらも負けじと、心の声を顔に出さないよう努める。


 帝都を出て数日。快適な牛車も早々に乗り捨てられ、道は次第に険しくなった。梅は茜の寒がりを心配して、これでもかと茜に厚着をさせ、まるで真綿で包んだ雪だるまのようになってしまった。

「ひ、姫様、ご気分は…って、息ができてらっしゃいますか!?」

「う、うん、だいじょうぶ…くるひい…」

 もごもごと綿入れの襟元から声を出す茜。一方の杉田は、最低限の荷物だけを馬の背にくくりつけ、さっさと先を歩いている。時折、馬上で居眠りしているようにも見えた。


 そして、さらに幾日かが過ぎた。

 茜たちの目の前に、ついに「白銀郷」の入り口を示す、古びて傾いた木製の門が現れた。門の向こうに広がるのは、灰色の空の下、雪と氷に覆われた、どこまでも続くかのような荒涼とした大地だった。家々はまばらで、そのほとんどが屋根に重い雪を乗せ、傾きかけている。吐く息は瞬時に白い結晶となり、頬を刺す風はまるで氷の刃のようだ。


「こ、これが…白銀郷…」

 茜は、雪だるま状態のまま、言葉を失った。書物で読んだ知識とは比べ物にならない、圧倒的な「寒さ」と「寂しさ」が、全身にのしかかってくるようだった。

 梅は茜の袖を握りしめ、わなわなと震えている。寒さのせいか、あまりの光景に言葉を失っているのか。


「やあやあ、これはこれは、姫様御一行。ようこそお越しくださいました、こんな何にもない吹きっさらしの村へ」

 どこからともなく現れた杉田が、少し離れた場所で凍える一行を見下ろすように立っていた。その顔には、もはや隠そうともしない皮肉な笑みが浮かんでいる。

「ささ、こちらが姫様のお住まいとなります館でございます。まあ、お飾りにはちょうど良いかもしれませんな」

 杉田が顎で示した先には、村の中でもひときわ大きく、そしてひときわ傾いた、どう見ても廃屋寸前の建物が寒風に揺れていた。


(お飾り、ね…)

 茜は、自分の体が芯から冷え切っていくのを感じた。だが、それと同時に、胸の奥底で、小さな、しかし確かな炎が、ぱちりと音を立てて灯ったような気もした。

「…梅、杉田殿。参りましょう」

 雪だるまの中から、それでも凛とした声が響いた。

「まずは、この素晴らしい『お飾り』の館を拝見しませんとね」


 極寒の辺境での、お飾り姫の、決して飾られるだけでは終わらない日々が、今、幕を開けようとしていた。そしてその夜、茜は、人生で体験したことのない壮絶な寒さに、布団の中でカタカタと震えながら、「やっぱり熊の胆、必要かもしれない…」と本気で思うのだった。

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