道案内
春、池田さん達四年生が卒業し俺は四年生になった。去年の予選会から監督なしでただひたすら走っている。
そしてある日、寮の電話鳴り響く音で目覚めた奴がいた。
「こんな朝早くから誰ですか!!」
ものすごく大きな声で受話器に怒鳴るのは、二年生の清水凪だ。
俺は朝ご飯の卵を割って、かき混ぜながら清水を見る。
「えぇ!?今からですか?」
何やら驚いたあと、静かに電話を置く。
「誰だった?」
俺が聞くと、清水は目をまん丸にして応えた。
「監督だったんですけど、今日から新しい監督が入るって…泉さん聞いてましたか?」
清水は俺を“泉”と呼ぶ。長いのが気に入らないらしい。
「いや、特に何も。何時に来るって?」
新一年生が入部してから一ヶ月。
確かに、そろそろ指導者がいないとキツくなってきた。
「十五時って言ってました。」
食堂の椅子に座って落ち着かない様子の清水を見ながら、俺はため息をついた。
「あんま気張るなよ?」
「な、わかってますよ!!」
今の部員の数は十五人。決して多いとは言えない数だが、俺が入部した時から二十人もいない少人数での部活だった。寮も古く、一年生と二年生は相部屋になり三年生から一人部屋を与えられる。
これは、寮長が決めたルール。寮長と言っても普段は居ないのだが。
グランドに集まった部員を見渡しながら、あることに気づく。
「光月は?」
鈴本光月。俺と同じ四年生で、一年の頃一緒に走った部員だ。俺が頼み込み副主将としてみんなを纏めてくれている。
「面接だってよ。」
ダルそうに応えたのは同じく四年の桜羽玲生。
コイツは突っかかりにくい性格。強面と口に加えた煙草でより威圧感が増す。
「面接…なら仕方ないか。」
光月が居ないのは少し心細い気もするが、大丈夫だろう。なんて言ったってただの顔合わせなんだから。
「おい、来たぞ。」
桜羽が煙草を口から吐き出し靴で踏みながら呟く。俺が後ろを見ると、そこに立っていたのは北条心彩だった。
「ほ、北条心彩!?」
デカい声で叫んだ清水の頭を桜庭が叩く。
「“さん”つけろ。」
清水の小さい“さん”が響いたあと、俺は思いっきり息を吸った。
「よろしくお願いします。」
全員が頭を下げたのを感じ取り、頭をあげると北条さんはニッコリと微笑んで言った。
「四年生は久しぶり。一年生から三年生は初めまして。北条心彩、宜しく。」
懐かしいこの、探られている感じ。
「お久しぶりです。」
俺がそう言うと、北条さんは軽く手を振ってから言った。
「今日から僕がこのチームの監督をすることになった。前の監督…えっと、なんだっけ。名前忘れちゃった。とにかく!!」
「君たち、箱根に行く気はあるのか?ないなら早々に退部した方がいい。」
「ちなみに、今パッと見で行く気あるのは…桜!泉!そして君!あとあの子、光月くん!!」
桜羽はダルそうに北条さんを睨み、“そして君”と言われた清水は小さくガッツポーズ。
パッと見とか言うが、今この場に光月はいない。
「箱根に出るのは十人必要なのはわかってるね?ここにいる四人の他に六人、最低でも必要だ。今話し合って誰が残って誰が辞めるか決めて。はいどうぞ。」
北条さんはそれだけ言うと、手をヒラヒラさせて土いじりを始めた。
沈黙が流れる。この状況をどう変えればいいのか。
俺が困っていると、桜羽が立ち上がりグランドの出口を指さして言った。
「何固まってんだよ。こんなの簡単だろ?やる気がないやつって言ってムズいんなら、」
一息置いてからもう一度言った。
「走ることに辛さを感じる奴、走りたくないと思ってる奴が抜けりゃいい。」
そんなこと言っても難しい。それは頭でわかっているが、桜羽のように行動はできない。
「泉さん」
透き通るような、低いような高いような声。
その独特な雰囲気と声の主は三年生の鎧塚遙。
「僕たちもですけど、いきなりそんなこと言われたって無理です。まずは北条心彩という方の練習方法をみてみないと。それに、僕たち三年から下の学年は箱根に行った経験がないので今までの練習に誤りがあったか、なんて分かりませんから。」
自分よりも大人な考えをしていることに、少しの苛立ちを覚えながらも桜羽をみる。
「頼んでこい。」
頷き、土いじりをしている北条さんの所まで行くと北条さんは土いじりを続けながら言った。
「あのやけに大人びてる奴は三年か?」
この会話、聞いていたのか。
「はい。三年の、鎧塚遙です。」
聞いていたのなら、一から説明する必要は無いだろう。
「へぇ、はる…ねぇ。」
遙は不思議な性格だが実力は本物だ。
「じゃあ見せてやろうか、僕の練習方法。」
―
正直驚いた。あの監督の部員だ。弱くないのはわかっていたが、強いとも思っていなかった。
「どうですか、今の竜胆は。」
泉がストップウォッチを片手に近付いてくる。
だけど
「まだまだだな。」
良くて中の上。結局中からは抜け出せないのだ。
「でも、想像よりはって感じかな。」
強がりなのかもしれない。自分が抜け出してるから。逃げてきたから。
「俺も北条さんのいた竜胆より強いなんて、思ってないですけど。」
でも、と泉は続ける。
「確実に良いチームだと思ってるんです。甘えかもしれないし、浮かれてるだけかもしれない。だけど今のチームなら箱根に行けるんじゃないかって思ってる自分がいて。」
遅れてきた光月のタイムを測り終わったストップウォッチを、泉はずっと見つめている。
「僕のことを知らない陸上部員はいないだろ?北条心彩が竜胆に戻ってきたと知ったら、きっと周りから色々言われる。」
監督から話を貰った時、それはそれは丁寧に断った。俺が引き受けていい仕事じゃなかったからだ。
見学だけでも。そう言われて記録会を見に行った。
みんないい走りをしていた。デカいハプニングがあった訳でもない。誰かが不調だった訳でもないのに結果は惜しくも敗退。これが普通。
竜胆も落ちたな、なんて他人事に思っていたのに。
グランドには煙草を吸おうとしている桜を清水凪が邪魔していて、それを笑いながら光月くんがみている。走り終わったばかりで動けなくなっている一年生に水を渡しているハル君。そして俺の隣にいる泉。グランドには十五人がいて、誰も逃げ出そうとしていない。
「辞める奴は誰もいないと思います。」
俺の思考を読んだかのように呟く。
「全員、やる気があるのかって言われたらそうじゃないかもしれないけど…やる気がある者が一人でもいれば知らない間に火は渡っていく。その状態を期待しているんです。」
「ほら、家では勉強出来ないけど塾に行けば勉強出来る、謎の集中力。あれと同じですよ。伝播してくんです。」
つまり、今辞めさせるべき部員はいないと。
泉はそう言いたいのか。
「…わかった。“俺”が竜胆をもう一度箱根に連れて行ってやる。」
泉はストップウォッチをリセットモードにしてから大きく息を吸った。
「しゅーごー!!!!」
―
自分でも驚くほどスラスラでてきた言葉に今でも信じられない。でも、この人がやる気になってくれてよかった。
「改めて、今日からよろしく。」
誰も辞める意思がないことを確認し、もう一度挨拶をすると北条さんは珍しく真面目な顔で言った。
「箱根を本気で目指すなら、今までの倍キツい思いをしなくちゃいけない。まぁでも君たちなら大丈夫だ。」
それだけ言って、息を吐くといきなり後ろを向いて深呼吸した。
「俺は箱根には行けない。」
前向きだった雰囲気がいきなり暗くなる。
「君たちに道案内をすることしかできない。もどかしいよ。一緒に走りたい。大丈夫だって声をかけ続けたい。でも、それは出来ない。実際に自分の足で箱根に行き帰ってくる。それが箱根駅伝。過酷だし辛いことも山ほどある。でもこれだけは約束して欲しい。」
「俺が絶対“お前ら”を箱根に連れて行ってやる。」
道案内しかできないからこその言葉。
竜胆を持ち上げたその男が帰ってきたのだ。
「道案内は俺に任せろ。」
夕日のオレンジがやけに眩しかったその日はあっという間に終わり、翌日には地獄のような練習が始まっていた。