石じじいの話・山中で出会った女性
この話は、現在では、医学的に理解できるものであると思いますが、当時、じじいが話してくれたままの内容で書きます。
石じじいの話です。
これは、じじいが日本で経験した話です。
じじいは、山中で女性が倒れているのに行き当たりました。
その女性は、山道から少しわきにそれた森の中に横になっていたのです。
最初見たとき、死体か!と思ったそうです。
じじいが近づいて声をかけると、彼女は、頭を少し起こして「だいじょうぶです。ありがとうございます。」と、確かな声で答えました。
気を失っているわけではなく、それほど、重篤な状態でもないようでした。
自宅に向かって山を歩いていると、急に気分が悪くなったので、すこし休んでいたということでした。
彼女には、少し熱あったので、じじいは、解熱鎮痛薬と水を与えました。
女性は、感謝して、与えた薬をのんだそうです。
彼女は、そこからさらにのぼった山中に住んでいると言いましたが、その山道を進んでも人家があるようには思えなかったそうです。
まさか、「山女」のような魔性のものでもあるまい。*1
あるいは、「サンカ」のような流浪民だろうか?
彼女の衣服はこざっぱりして不潔でもなく、髪の手入れもしてあり栄養も良いようでした。
背負子や脚絆も持っている。
じじいは、親切心から、家まで送っていこうと申し出ましたが、彼女は丁重に断りました。
体調がもどってきたからもう大丈夫だからと。
自宅に家人はいないのか?家まで行って、あなたの窮状を知らせるが、とも言いましたが、それも断られました。
早く一人にしてほしい、という態度でした。
じじいは、「これは、わしは警戒されとるわい。この人の調子もええようやけん、このままそうっとしとるほうがええかもしれん。」と思い、持っていた氷砂糖を与えて彼女と別れました。
女性は、じじいに礼を言って笑いかけました。
美人だったそうです。
ちょっと行って、心配になって振り返ると、彼女はこちらに手を振っていました。
笑いながら。
じじいは、山から降りて最初の家に立ち寄りました。
麓の集落のもっとも山に近い家でした。
もう日暮れ時になってしまい、早く町まで行こうと、じじいは焦っていたので、近道を尋ねようと思ったのです。
じじいの呼びかけにこたえて家から出てきた女性を見て、じじいは驚きました。
その女性は、あの山で出会った女性とそっくりだったのです。
同一人物か?と思うほど似ていました。
じじいは、動揺を隠して、彼女に道を尋ねました。
彼女が言うには:
これから、町に行くには時間がかかる。
近道はあるが、灯りもなく危険だ。
たとえそこを行ったとしても、町に着くのは夜中になるだろうし、町に泊まれるところもない。
じじいは、困惑しましたが、まあ野営もできるので、どこか安全な場所はないか?とも尋ねました。
彼女が言うには:
このあたりは、どこでも野宿できるが、「大きく凶暴な野生動物」がいるので、おすすめしない。
どうだ?私の家に泊まらないか?
それで、明朝、町におりればよいだろう。
じじいは、少し怪しみました。
眠ているあいだに身ぐるみ剥がされるんじゃないか?
昼間、親切心で接した山中の女性に疑われていると思ったじじいが、今度は、親切な態度の女性を疑っているのです。
それに気づいたじじいは、遠慮なく、その家に泊めてもらうことにしました。
その家の同居者は、その女性の母親である老女だけでした。
兄は戦死し、夫も勤労動員ででかけた町で空襲で死んだということでした。
じじいは、家の外にある別棟の風呂にもいれてもらって、お酒も飲ませてもらったそうです。
じじいの朝鮮の生活や石さがしについての話を、彼女たちは興味深く、楽しそうに聞いていました。
すこし酔っていい気持ちになったじじいは、ふと山中での経験を話しました。
あとで思うと、「口を滑らしてしまった」のです。
「今日、あの山のなかで、あんたとそっくりの女の人に会うたが。ちょっと体がつらそうやったが、まあだいじはなかったけん、そのまま別れたんやが、知っとりんさるか?山に住んどるゆうとんなはったが、家族かなんかかな?」
彼女と老女の顔色がみるみる真っ青になっていきます。
「しまった!これは、なにか触れてはいけないことだったのだ!」じじいは後悔しました。
今で言えば、「地雷を踏んだ」ということでしょう。
しかも、「対戦車地雷」を。
彼女たちは押し黙り、じっと考えているようでしたが、意を決したように、若い女性が話しはじめました。
その女性の話はこのようなものでした。
あなたが、今日、山中で出会った女性は私の双子の妹である。
今は私たちとは離れて、山中の庵に住んでいる。
他の人たちと接しないように。
私が、服や生活道具、食べ物を持っていってやる。
だから、生活に困ることはない。
彼女も、自分自身で山から食物を得ている。
そう話した彼女は、その後を言うべきか言わぬべきか迷っているようでしたが、決心したように話を続けました。
一人で山中に住んでいるのには、大きな理由があったのです。
妹は、時たま「凶暴」になるのだ。
そうなると手に負えない。
屈強な男性でも、彼女を押さえられない。
妹は、そうなると、まるで「犬」のようになるのだ。
凶暴な「狂犬」になるのだ。
「狂犬」とは、たとえではない。
じっさい、「半獣半人」のような姿になる。
信じられない現象だ。
これは、「犬神憑き」とも、違うものだろう。
妹は、まだ子供の頃に「発病」した。
すぐに、私たちの手に負えなくなった。
普段は、利発で気立ての良い娘だ。
妹は、狂ったときの記憶が少し残っているらしく、自分の「変身」を気に病むようになった。
この「病気」を知っている少数の村人たちと相談して、彼女を山に住まわせることにしたのだ。
村人全員が、このことを知っているわけではなく、協力してくれた数人以外の人たちには、妹は死んだと伝えてある。
村人や周囲の人々(学校の同級生や教員など)を騙すために、妹の葬式も出した。
墓もたてた。
そうしている間に、兄が戦死し父が空襲で死んだ。
だから、今では、母と私で彼女の世話をしている。
妹がそうなった原因は、わからない。
両親や祖父・祖母たちは普通だし、また、両方の家系にも、そのような「狂気」が存在した記録はない。
私(この話をしてくれた姉のほう)も、いずれ妹のように発病するのではないかと恐れたが、幸いなことに今までは無事だった。
しかし、将来はわからない。
悲観してしまい、妹を殺して私たちも死のうと考えたこともあったが、それもはたせなかった。
もし、私(姉)が妹のようになったら、妹ともども殺してくれと、上記の村人たちには頼んである。
さて、どうなることやら。
もしあなたが、他の人から妹についての不確かなうわさ話を聞いて誤解されるとつらいので、ここであえて恥をしのんで話したのだ。
ここまで、話して、女性(姉)は一息つきました。
そして、しばらくためらったあと、さらに話を続けました。
妹は、「狂犬」に変身するときには、必ず体調が悪くなる。
立っていられなくなって地に伏せてしまい、しばらくすると凶暴になって暴れ始めるのだ。
すると、みるみる容貌や体つきが変化して、「犬」になってしまうのだ。
今日、山中であなたが会った妹は、変身する直前の状態だったのかもしれない。
あなたは、危険にさらされていたのかもしれない。
しかし、あなた(じじい)の親切な態度に深く心を動かされて、必死に自分の変身をこらえたのかもしれない。
妹は、自分の変身を、自分の意思で、ある程度抑制できるようになっているのかもしれない。
そうであれば、将来の希望はある。
そう言って、彼女たちは涙を流したそうです。
じじいは、翌早朝、彼女たちの家を発ちました。
かなり豪華な弁当を作って持たせてくれたそうです。
彼女(妹)の住む山は、朝日をあびて神々しく輝いていました。
じじいは、山に合掌し、彼女たちの幸福を祈りました。
*1 柳田国男による山の話を、じじいは知っていたようです。




