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石じじいの話  作者: Lefeld
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石じじいの話・侏儒の村(ロシア)

石じじいの話です。


この話は、現在ではちょっと微妙な内容です。

じじいの話ということで、ご容赦ください。


知り合いのロシア人が、じじいに語りました。


侏儒の村があったそうです。

そのロシア人は、そこを訪れましたが、そのときは、すでに廃村になっていたそうです。

廃墟を訪れた時、その村人についての話を、近くに住む人々から聞いたのです。

それは、ロシアとカザフスタンの国境近くのアクモリンスク州(現在のカザフスタン)にありました。


その村は、他の村とは密接な関係をもちませんでしたが、とくに排外的でもなかったそうです。

その村の住民は背が低く、身長が1メートル以下でした。

もっとも背の高い人でも、1メートルていどだったと。

じじいの話のメモに、身長が「最大でも二尺六寸」とあります。

身長は女性のほうが高く、男女とも身体は、がっしりとしていました。

日本でも、コロポックルという伝説上の民族が北海道にいたとされていますね。

その廃村の近くに住んでいるロシア人の医師によると、これは地方病的な現象で種族的侏儒だろうということでしたが、その実態はよくわかりませんでした。

たまに、彼らを誘拐して見世物にしようとする香具師がやってくることがあり、そのような者たちを撃退するのが、侏儒たち村人の重大な問題だったそうです。

彼らは、銃火器を所有していませんでしたから、毒を使った吹き矢や弓矢、大型の弩で応戦していたようです。

かなり強力な毒だったとか。

彼らは長命で、年齢が80を超える人もめずらしくありませんでした。

彼らの村は、住民の体のサイズに合わせて小規模でしたが、よく整備されていたそうです。

道路も整備されていて、街路樹もあり、公園もあったとか。

教会らしき建物もありましたが、その宗教の詳細については知られていません。

公共施設としては、公会堂のようなものもあり、そこで踊りや軽演劇が開かれていたそうです。

家の庭にも気が配られていて、樹木や花が植えられていました。

鶏や犬を飼っていました。

犬たちは、よく飼いならされていて忠誠心が強かったといいます。

小さな子どもたちは、飼い犬に乗って遊んでいたそうです。

「犬が牽く荷車」もありました。

草花や飼育されている動物たちは普通のサイズだったので、その栽培や飼育は、身長1メートル以下の侏儒たちには、けっこうな重労働だったようです。


家は、ベトン(セメント)作られていて、耐雪構造となっていました。

小さな彼らには除雪作業が困難なので、冬の間は村全体が雪の中に埋もれてしまい、彼らは活動しないのです。

いわゆる、冬ごもりをしました。

秋に食べ物を家に蓄えました。

彼らは、体が小さいので食料をそれほど多く必要としませんでした。

また、冬の間に読む書籍を手に入れていたそうです。

冬の間に屋内で行う作業である手工芸の材料も仕入れて蓄えておきました。

もちろん燃料も蓄えます。

家が小さいので暖房のための燃料も少なくてすんだといいます。

ベトンでできている家にも断熱機能もあったのです。


彼らの生活手段は、基本的に農業でした。

夏は作物を育てるのですが、作物は普通の大きさだったので、それは重労働でした。

そのため、作業用の道具を工夫していたそうです。

さらに、野生動物への対策も行わなければなりませんでした。

柵を村や畑の周辺に設置して、また罠を仕掛けました。

村外からの訪問者が、その罠にかからないように、注意看板もたくさん設置していたそうです。


ベトンでできた家の内装は、質素でしたが美しいものでした。

家具は、彼らにあわせて小型でしたが、非常に精巧に作られていました。

その細工が素晴らしい。

彼らは、冬の間に、自分たちの家具や食器を自作していたのです。

また、敷物や壁掛け、衣服も自作していました。

侏儒たちは、よそ者をめったに家に招待しないのですが、たまに、仲の良い信頼できる村外の人が招待されることがありました。

ここで述べられている情報は、主に、そのような人々の証言によるのです。

侏儒たちは、基本的に肉を食べませんでしたが、鶏の卵は食べていました。

しかし、飼っている鶏が老衰で死んだときには、その肉を食していたということです。

魚は、よく食べていたようです。

小さな舟を作って近くの川で漁をしていたのですが、彼らにとっては危険な仕事でした。

さらに、カエルや昆虫も食べていたようだったと。

彼らは、森に詳しく、森から多くの食料を得ていました。

おそらく、きのこや木の実でしょう。


侏儒たちは、他の村には、めったにやって来ませんでした。

自分たちの村の近くに「交易所」を作り、そこで他の村人たちと取引をしていました。

彼らの交易品は、珍しい作物や保存食、工芸品でした。

これらの商品は、珍重され高額で取引されました。

さらに、ある特殊な人間とだけ秘密裏に交易をすることもあったそうです。

詳細は不明なのですが、どうも、侏儒たちは、貴金属や宝石の加工品も商っていたようです。

その意匠は、他では見られないユニークなものだったといいます。

どこからか原材料を手に入れて加工していたのか?

あるいは、それを採掘していたのか?

おそらく、前者でしょう。

これについて詳細が知られていない理由は、もし広く知られてしまうと、悪者が村を襲撃したり、村人を誘拐して、その秘密を白状させようとするからです。

秘密は固く守られていました


ある年、村は消滅しました。

厳密に言えば、村人たちが姿を消したのです。

全員。

家や家具、農機具などは残っていましたが、人はいない。

貴金属や宝石も、相当量残されていたようです。

どこに行ったのか?

なんの痕跡もなかったのです。


その後、「侏儒の村」について、いろいろな噂話がされました。

>彼らは、軍隊によって連れ去られたのだ。

<-- しかし、そのような軍隊の活動の目撃者はいない。


>彼らは、非常に巧妙に姿を隠しながら、南部のステップ地域に移住したのだ。

<-- しかし、開けた土地であるステップは、彼らの居住環境としては厳しいだろう。農業もできないし、たくさんのヒツジやウマなどの家畜も飼えない。彼らが飼っていたのはせいぜい鶏や小型のブタだった。


>彼らは、人間ではなく「妖精」だったのだ。

<-- しかし、彼らは実際に生活を営んでいたし、彼らから手に入れた工芸品などは、いまでもたくさん残っている。妖精など信じられるか。


彼らが作った工芸品は、非常に精巧で珍しいものだったので、貴族が買い取ることも多く、地方や国の博物館に収蔵されたものもあったそうです。

「貴族」がいたということは、この話のできごとはロシア帝国時代のものでしょう。

この長い話と合わせて、侏儒(「低身長症」あるいは「小人症」)についての説明が、私のノートに書き残されています。

これらは、当時のじじいが話したもので、現在では正しくない説明だと思います。

以下、紹介しますが、誤解のないように。

じじいによる解説:

「小人」には、いろいろな種類がある。

ナノソミー:全身の発育が乏しく、体が短小だが身体各部の釣り合いは良いし、知識の発育も障害もない。

ミクロメリー:骨の発育障害であり、全身各部の釣り合いは悪い。知識の発育に障害はない。

クレチニスムス:甲状腺の異常であり、地方病的なものだ。

ミキソエデーム:体は短小であって、身体の釣り合いは良いが、知識の発育は不全である。


これは、あくまでも、昔の知識です。当時の医学においても正しい解説とは言えなかったでしょう。

この点、ご注意ください。

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