石じじいの話・霊界との会話
一部、現在では使用するのがはばかられる単語がありますが、ご容赦ください。
石じじいの話です。
じじいの友人に、非凡な優秀な人がいました。
その男性は、子供のころから学業はつねにトップで、彼のテストの結果や図工の作品は、生徒たちの見本として、ずっと学校に展示されていたそうです。
彼は、歯科医になりました。
結婚もしました。
そして、結婚して一年ほどたったとき、発狂したのです。
彼は、ある日、急に激怒して、一言、「バカ!」と大音声で怒鳴って、その後、何日も無言となりました。
朦朧として一言もしゃべりませんでした。
家族とは、筆談で意思疎通をしたそうです。
彼は、眠ることを非常に恐れました。
筆談で、自分を寝かせないでくれと懇願しました。
そのような状態が数日つづいてから、彼は回復したのです。
「正気に戻る」ときには、かならず短時間うとうと眠ったそうです。
このような「発作」が何度も起きるようになりました。
そのうち、8回目の発作のときに、についに回復しなくなったのです。
無言でぼうとしている状態が何週間も続きました。
心配した家族は、彼を「脳病院」に入れたのです。
じじいが、見舞いに行ったとき、医師の同席のもと、彼と筆談をおこなったそうです。
以下、その筆談でのやりとりです:
問「お前は狂気なのか?白痴か?聖人か?私にはわからないのだが。」
答「わからないものをなぜ尋ねるのだ。」
問「わからないから尋ねるのだ。」
答「我は天地にのみ従うだけだ。」
問「それはどういう意味だ?」
答「わからないのか?」
問「お前はどうして口をきかないのだ?」
答「発言は人の所作だ。」
問「お前は聖人か?馬鹿か?」
答「聖人も馬鹿も同じだ。」
問「では、お前は狂人なのか?」
答「見てわからないのか。」
問「帰るから、みやげをくれ。」(じじい、いいかげんうんざりしたようです。)
答「私の心をみやげとしろ。帰るも居るも同じだ。」
問「おまえは、神や霊の声が聞こえるのか?」
答「我ら人類は皆霊である。」
問「わしは、霊界について知りたいのだが。」
答「知りたければ、まず自己を捨てよ。」
問「自己を捨てるにはどうすればいいのか?」
答「捨てるためには、XXXXXXXXする必要がある。世俗にまみれているようでは不可能だ。」
(XXXXXXXXのところは不明瞭で、彼が一度書いて、すぐに消したそうです。)
問「お前が霊界からこの世に帰ってくるのはいつだ?」(じじい、もう、彼が霊界に行っていることにしています。)
答「帰ってきて、何の用があるのだ。」
問「帰ってきて、わしらに霊界のことを語ることは、おまえの使命ではないのか?」
答「帰って、世俗に従うのは使命ではない。」
問「おまえは、霊界とこの世との間を取り持つ意思はないのか?」
答「大気は皆霊であり、霊の智は全能である。」
ここで、じじいと彼との筆談記録は終わっています。
じじい、これ以上の会話をあきらめたのでしょうか?
今、書き写していても、頭がクラクラします。
この他に、彼がドイツ語で書いた文章があります。
さすがインテリです。
病院の医師が翻訳してくれたそうです。
「世界は女が六人、男が四人。人類自然法則。」
「自己を捨てるのはしのびない。」
「何事も世の常と心得ろ。心を広くもてば、身の置きどころもおのずから広くなるのだ。」
「口は五官の命により働く。」(口も「五官」の一つのはずですが。)
「不老不死。不労不知。」(これ、ドイツ語で何と言うのでしょうか?)
その後、彼が、病院から帰ってくることができたかどうかは、不明です。
私のノートには書かれていません。




