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石じじいの話  作者: Lefeld
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石じじいの話・邪視

戦争中、石じじが朝鮮に住んでいたときに、幾人かのロシア人と知り合いになりました。

その中の、あるロシア人は、ロシア帝国時代に、領土内をあちこち渡り歩いて、いろいろな経験をしました。

そのときの話を、じじいにしてくれたそうです。

また、そのロシア人(商人だったそうですが)が雇っていた他のロシア人やタタール人も、じじいに、いくつか話をしてくれました。

以前、そのような話のいくつかを書いたことがあります。

「邪視」というものについて、じじいは、以下のように説明してくれたことがあります。

「邪視」というのには、「眼による邪視」や「言葉による邪視」がある。邪視で言葉?

たとえば、良い予想を口にすると邪悪なものがよってくる。

良い名前を子供につけると邪悪なものがやってくる。

というようなことです。

「邪視」とそれを持つ人物の「人間性」は関係ない。つまり、善人でも邪視を持つ人がいる。

ある人について良い評価を下すことの裏では、その幸運な人をうらやむ心があり、その嫉妬心が、その人に悪いことをする:というのだそうです。

むやみに他人を「空疎に褒める」ことは、その対象となる人に不幸をもたらすことがある:ということです。


これは、朝鮮で知り合ったロシア人からじじいが聞いた話です。

「邪視」を持った男の子がイルクーツクにいたそうです。

彼は、金髪で灰色の瞳をしていました。

彼が、「邪視」を持っていたとは、最初はわからなかったのですが、彼の友だちや近所の人、司祭や教師が不幸になるのです。

これは「邪視」ではないか?と言う人がいて、自宅の離れに隔離されました。

「邪視」じたいは本人のせいではないので、彼を責めることはできないのです。

村の人々は、彼を修道院に入れようと考えました。

受け入れてくれる修道院を探していた、ある日、その男の子は出奔してしまったということです。

村の周辺を探しましたが、どこにもいませんでした。

しかし、彼の目撃者が、何人かいたそうで、彼らが言うには、その男の子は一人ではなく、大人の女性と一緒だったということでした。

彼らを目撃した人は、声をかけようかとも思ったのですが、男の子の邪視が怖くてできなかったそうです。

人々は、子供は鉄道で東の方へ逃げたのだろうと考えました。駅での目撃者もいたからです。

この話をしてくれたロシア人が、じじいに言うには、

「もしかしたら、その邪視を持つ子供は、満州や朝鮮に来ているかもしれない。そのようなロシア人の若者には注意しろよ。」

じじいによると、自分の子供に良い名前をつけたり、やっていることが成功するような予想をしたり、他人を褒めそやしたりすると、その対象に悪魔が関心を持ってしまって、そこで不幸なことが起きる:という考えは、満州の蒙古族にもあったそうです。

そのため、子供に、あえて汚い名前をつけることもよくあったとか。

「ノホイ」(イヌ);「ネルグイ」(名無し);「エネビシ」(これじゃない)などと。

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