石じじいの話・骨谷
石じじいの話です。
あるとき、じじいは、山に入る前に、谷の入り口の村で食料を仕入れました。
米を売ってもらったのです。
まだ、米が貴重な時代の話です。
現地のほうが、物資を入手しやすかったし、わざわざ家から重い荷物を運んでいくのはたいへんだったからでもあります。
じじいが、ある古老に、その谷をのぼるのだと話したところ、その古老が話してくれたことは。
この谷の奥には、人骨が重なりあって山になっている場所がある。
いや、あったというべきだろう。
言い伝えによると、この骨の山は、そこへ死体を運んできたというよりも、死を予知した人がやってきて、そこで死んだ結果できたのだのろう。
なぜなら、その場所は、とても、死体を運んでこれるような場所ではないからだ。
その古老自身は、そのような骨の山を見たことはなく、骨の破片が沢の岸に散らばっていたのを目撃しただけでした。
骨山があったという話は、その古老が子供の頃にいた、村の古老から聞いた昔話だということでした。
これは古い話です。
江戸時代の話?
昔話によると、谷の奥のある場所に骨が累々と重なっていて、山ができていたということでした。
一部は、谷川の岸で厚い砂に覆われていて、それがまた沢の流れに削られて、骨が谷の崖に露出していたそうです。
その崖(谷の岸)から骨がこぼれ落ちて、谷川の岸辺に散乱していたということです。
数百人分の人体の骨が山となっていたのです。
当時、つまり、じじいに話をしてくれた古老が子供の頃に、さらに古老から聞いた話の舞台となった時代に、「この骨山は、数百人が一度に死んだことによってできたのか?」という疑問を村人たちは持っていたのです。
いや、それはないだろう、という意見もありました。
そんな、何百人もが、そんな場所で死ぬことなどあるのか?
では、死体を運んだのか?
それもないだろう。そんなに多くの死体を、あのような谷の奥まで運びあげられない。
行くのにも大変な場所なのに。
では、長年かかって、ひとりひとりの死体が積み重なってできたのか?
おそらく、そうだろう。昔は、死期をさとった人が、ひとりで、その谷に入っていって死んだという話もあったし、姥捨のような風習もあったという言い伝えもあったようだ。
江戸時代、一揆を起こした人々が処刑された跡なのでは、という意見もあったようです。
しかし、そのような記録はないし、伝承もない。
じじいは、法医学の知識を少し持っていたので、骨に刀傷があれば、そのような他殺行為の存在を判断できるのだが*、と古老に指摘したのですが、とうぜん、古老は、「そんなことはわからん」と。
この話を古老から聞いた時、
「これから、その谷をのぼろうとしている人間に、いやなことを言うもんよのう。」
「やんわりと、行くなと言うんとるんやろか?」
と思ったそうですが、じじいは、勇気をだして、というより気にしないで谷をのぼりました。
じじいは、谷の奥までのぼりきりましたが、もう骨はどこにもなかったそうです。
刀や農具、陶器などの人工物も残されていませんでした。
ただ、谷の奥に、崩れた石づみらしきものがあったのですが、自然にできたものだったのかもしれないということでした。
*死体の骨に「刀傷」のような痕跡があっても、その傷が人為的につけられたとは限らず、肉食動物が噛むことによってつけられる;あるいは、ネズミのようなげっ歯類が噛むことによってつけられることもあるのだそうです。
骨が砕かれていても、人為的な破壊ではなく、大型の動物に踏み砕かれた痕跡である場合あるのだとか。
日本ではありませんが、野生のゾウが生息するような場所では、ゾウによって死体の骨が踏み砕かれて、あたかも、人が骨髄を食べるために割ったり、骨を道具として使うために割って加工したようにみえる状態になることもあるのだそうです。
これは、「ヒトによる人肉食風習」の誤解のもととなります。
また、「ゾウの墓場」という話がありますが、これは、象牙の密猟者たちが、ゾウの群れ全体を殲滅させた痕跡だったり、自分たちが殺して盗ってきた象牙を「ゾウの墓場」から拾ってきた、とごまかすための「偽情報」だった可能性が高いのだそうです。




