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石じじいの話  作者: Lefeld
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石じじいの話・沖の島大戦争

石じじいの話です。


土佐の西端に沖の島という孤島があります。

小さな島ですが、現在でも有人です。

この島は、江戸時代には、土佐藩と宇和島藩の領土紛争の場でした。

じじいは、石探し*と観光的な興味で、この島を訪れたことがありました。

そこで、聞いた話だそうです。


この島の東半分は、山内藩(土佐藩)の領地、西半分が宇和島藩の領地でした。

当時は地図がないので、境界線が曖昧で土地をめぐっての争いが頻発していました。

竹や木を伐採するときや狩猟するときに必ず争いが起きたそうです。

さらに、海上では、領海の境界などわからないので、漁師の間の衝突が頻繁に起きました。

ついには、漁船が武装しはじめます。

竹槍**や石つぶて、熊手のようなものを船に積み込んで出撃して海戦はエスカレートします。

海上での争いが陸にも飛び火して、さらに陸上戦もエスカレートします。

山火事が起きると、その原因は単なる失火でも両陣営の争いになりました。

竹槍をもって押しかけるのです。

畑を荒らされることがありました。

一方が他方を非難すると、相手方は「山に火をつけるから天狗様がお怒りになったのだ!」とやり返します。

報復だったのかもしれません。


宇和島藩と土佐藩は、この件について幕府に訴えましたが、結果的には土佐側が訴訟に勝利しました。

土佐側は島の詳細な立体地形図を作成して、これを幕府に提出して紛争について説明したのです。

おそらく、これが勝利の要因だったのでしょう。

江戸時代において、すでにプレゼンテーション能力とデータ収集・分析能力が物を言うことが明らかになっていたのです。

その立体地形図は、地形の上に植生も樹木の縮小模型が植えられ、人家のミニチュアも配置され、海は青く塗られており、現在のジオラマのようなものだったようです。

植生のない岩場は、小石を貼りつけていました。

どうやって作成したのか?

土佐側は、夜間に地形測量を行ったのだそうです。

多くの人々に提灯を持たせて山の稜線に立たせました。

その提灯の光を遠くからみて、山のおおよその高低を測ったのです。

この土佐藩による測量事業は、有名な伊能忠敬による日本地図の作成よりもはるか以前のことです。

土佐藩にとっては、沖の島は、宿毛湾周辺の領土の海域の防衛拠点としても重要だったのでしょう。

明治の廃藩置県で、沖の島は高知県の管轄となってからも紛争は続きました。

周辺海域での漁業権についての紛争です。

両県の間の紛争は、戦後も続きました。


ここまで、じじいから話を聞いて、

「ほんで、どこが怖いはなしなん?」と私

「ここからや、こわいんわ」とじじい

島民がじじいに話すには、

島の周辺で漁をしていると、突然、大勢の人の叫び声や、武器で叩き合う音が聞こえてくるのだそうです。

もちろん、まわりには誰もいない。

海面に竹槍が漂っているのを見ることもありました。

さすがに、死体は浮いていなかったようですが。

また、島内でも、夜間に山火事のような光が見えたり山で叫び声が聞こえるのだそうです。

もちろん、山火事など発生していません。

また、山の稜線に灯りの列が見られることもあったそうです。


いまだに、人々は闘い続けているのでしょうか。

*島は、花崗岩からできているようです。

**昔の争いには、竹槍は必須だったようです。

まあ、太平洋戦争時にもそれ以前にも、竹槍訓練は国民の義務だったのですが。

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