石じじいの話・夜の小さな手
石じじいの話です。
みなさんは、「猿の手」という怖い話をご存知でしょう。「白い手」という話もありますね。
手にまつわる不気味な話は多いようです。
じじいが朝鮮から引き揚げて、自宅で生活を始めてすこしたったころ、夜に小さな手がやって来るようになったそうです。
ある夜、眠っていると、体を触わられたような気がして目が覚めました。
小さな温かい手が右腕をさすっているような感覚がありました。
おどろいたじじいは右腕を触りましたが、なにもありません。
その感覚は消えてしまいました。
夢だったのか?
また別の夜。
じじいは、夜中に目を覚ましました。
台所から水音がします。その音で目が覚めたのでしょう。
なにか、洗いものをしているようです。
水道の蛇口をしめ忘れたのか?
それとも、台所の水瓶*に、ネズミかなにかが落ちてもがいているのか?
いや、あの水瓶には木の蓋をしてあるはずだが。
起き上がって台所に行ってみると何もいません。
ただ、コンクリート製の流しには、水をはったブリキ製の洗面器が置いてありました。
おかしい。寝る前に片付けたはずなのに。
また別の夜。
じじいは、台所からの洗いものの音で目をさましました。
そして、右腕に触る小さな手の感覚にも。
右手を動かすと、その感覚は消えました。
『そうか。あの洗いものの音と小さな手の感触は同時に起きるのだ。最初の日は、水音に気がつかつかなかっただけだ。』
また別の夜。
水の音で目が覚めました。
でも、手の感触はない。
じじいは、静かに起き上がって、そろそろと台所に向かいました。
流しの上の窓からさす月の光に照らされて、小さな両腕が手を洗っていたそうです。
肘から先しかない。白い、細い女性の手でした。
じじいは、しずかに、しずかに、ゆっくりと寝間にもどりました。
さわらぬ神に祟りなし。
布団に入って落ち着くと、右腕に小さな感触が来ました。
じじいは、もう、じっとしていました。
小さな手は、じじいの右腕を優しく撫でていましたが、そのうち、胸の上にやって来ました。
温かく軟らかい手の感触が胸に伝わってきます。
じじいの恐怖は消え、穏やかな気持で眠りに落ちました。
また別の夜。
右腕を撫でられる感触で目を覚ましました。
小さな温かい手は、じじいの胸に移動してそこでとまりました。
まるで、じじいの鼓動を手のひらに感じているように。
その優しさに、じじいは、ひさしく感じていない幸福な気持ちに満たされたそうです。
そして、ゆっくりと、ゆっくりと、朝鮮での生活を思い出しました。
別れてきた人のことを。
朝鮮に残してきた女性のことを。
その女の手だ。
そうだった。こんな感じだった。
彼女は元気だろうか?
幸せに暮らしているだろうか?
そういえば、彼女は、よく手を洗っていたな。
もともと、きれい好きだったようだが、自分は病気だから他人にうつさないようにしないと、と言いながら小さな白い手を洗っていたな。
胸の病気だったな。
「すまんかったのう。つらい思いをさせたのう。こらえてくれや。いや、こがいなこと言うのはわしの身勝手かのう。좋아해.누나.」
寒い冬の夜でした。
*田舎では、水道水であれ井戸水であれ、山水であれ、それを大きな水瓶にためておいて、そこから水をとって料理や食器洗いをしていました。
そのほうが便利だからです。
井戸水や山水だけしかない家なら、水を蓄えておくのは必須でした。




