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※兄に恋人(第三者)がいる描写

 あ、今日弟の誕生日だ。

 帰り際、いつものように別れの挨拶で恋人とハグをしている時に、ふと思い出した。

「どうしたの?」

 抱き返す力が弱くなっていることに気づいた恋人が、抱きしめる手をゆるめて俺の顔を覗き込んだ。

「何でもないよ」

 俺は笑顔を浮かべたが、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになった。付き合って二年になる恋人のすっかり馴染んだ匂いが、不思議と急によそよそしく感じられ、目をまっすぐ見ることができないまま別れた。


 弟とは長らく連絡をとっていない。連絡先は残っているが、最後のやり取りは五年前の、俺が家を出る日の前日にまで遡る。弟は俺が家を出た数日後に何も言わずに家を出て、それきり音沙汰が無くなったことを一年ぶりの帰省で知った。それ以来、弟は俺たち家族の前に一度も姿を見せていないし、連絡も一切よこさなかった。

≪話があるから、今夜十時に部屋に来てほしい。≫

 弟が最後に送ってきたメッセージはそれで、俺は≪分かった。≫と返信した。帰りの電車に一人で揺られながら、そのままの姿で残されている弟とのトーク画面を眺めていると、何回思い出したか分からないあの日のことが蘇ってきて、俺は耐えられずに画面を閉じ、車窓に目をやった。


 その夜、部屋に入ると弟はいつになく深刻な表情で、両親にも打ち明けられないような難事を抱えていることを俺はすぐに察した。ベッドに腰掛けている弟の横に座ると、弟は俯いたまま、「好きな人がいるんだ」と言った。二歳離れている俺と弟は激しい喧嘩のない、何でも打ち明けられる親友のような存在だったが、恋愛の話をするのは初めてだった。当時の俺はすでに自分が同性愛者であることを自覚していたから、弟も同じであるか、もしくは既婚者や、歳の離れた相手を好きになってしまったのだろうかとか、色々なことを想像した。長い沈黙の後、弟がこちらを向いたので、俺もその顔を見つめ返した。似ている、とよく言われることのある見慣れたその顔は、照明の関係か、いつもより陰が多く見えた。弟がすう、と息を吸うのを感じ取って、俺は胸をぎゅっと締めた。

「僕の好きな人が誰か、分かる?」

「俺の知ってる人?」

 考えても分からない気がして首を傾げると、弟の表情が苦しげに歪んで、俺はドキリとした。そして弟は目を逸らして、呟くように言った。

「兄さん」

「え?」

「僕は兄さんのことが好きなんだ」

「それは…」

 再びこちらを向いた弟の目が充血し、膝の上で握った拳がぶるぶる震えているのを認めて、俺は怖くなった。弟が怖いのではなくて、この状況はとても自分の手には負えない気がしたのだ。毎日のように訪れている弟の部屋が全く知らない別の空間になったかのように居心地が悪く、少し動けば体が触れ合う位置にいる弟に手を伸ばすのが、途轍もなく困難なことのように感じられた。

「俺だって、お前のことは好きだよ」

 自分の混乱に対応する言葉が、すぐに引っ張り出せる場所に無かった。この答えが今の弟の告白に対してふさわしくないのは分かっていたが、何か言わなければ、という焦りが答えを急かせた。

「そういうことじゃないって分かってんだろ」

 強い口調だが、声が弱々しく、弟はどうしようもない怒りと悲しみに飲み込まれつつあるようだった。俺は弟の、想像もつかないような苦悩を前にして、頭が真っ白になり、「ごめん」と振り絞るように言った。何に対する謝罪だったのかそのとき自分でも分かっていなかったが、弟を拒絶したと捉えられても仕方のない言い方だったと、今になって思う。弟の顔が絶望に染まっていくのを、俺は何もできずに見ていた、生まれて初めて見る弟のその表情は俺の心をも黒く染めていき、息が苦しくなって、逃げるように部屋を出た。俺は大学を卒業し、就職を機に一人暮らしを始めるため、明日には家を出ることが決まっていた。弟は高校を卒業してずっとフリーターをしていたので、しばらくは実家に残っているのだろうと俺はそれまでぼんやり思っていたのだった。

 弟の部屋のドアを閉めてすぐには動けず、泣いている声が聞こえてこないかと不安になったが、一切物音はしなかった。俺は家を出てもここに戻ってこればいつでも弟に会えるだろうと思っていたが、もしかしたら今後一生弟には会えないかもしれないという不吉な予感に襲われた。のろのろと斜め向かいにある自分の部屋に戻って、結局一睡もできないまま次の日を迎えた。家を出る時、両親と一緒に俺を見送る弟は抜け殻のようになっていて、俺の存在から全身で逃れようとしているみたいだった。


 視界に広がる、窓の外の暗い風景が滲んでいる。俺は目に涙が浮かんでいることに気づいて、慌てて拭った。五年の時を経て、やっと頭にまとまったことを言葉にして送ろうと、弟の連絡先が残ったままのトーク画面を開く。指が震えて、あの日の弟の声が鮮明に耳元に聞こえる。弟はもう、俺の答えなんて求めていないかもしれない。もう言葉は、届かないかもしれない。それでも消えずに残っている、弟に伝わる可能性のある手段に今、どうしても縋りたかった。

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