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雨が止まないのは誰のせい、

再掲

 何も無い田舎に帰省する唯一の楽しみは、実家で暮らしている兄に会うことだけだった。五歳年長の兄は地元の工業高校を出て、近くの工場に勤めている。俺は家から少し離れた高校を卒業し、都会の大学に進学して、一人暮らしをしていた。大学の長期休暇で実家に帰ってくる度に会う兄は、いつも変わらない様子で、健康を保って真面目に働いているようだった。

 実家の周辺の道路は立派に舗装されており、スーパーマーケットやコンビニエンスストアは車で十分ほどのところにあって生活には困らない場所だった。しかし、本屋ですら隣町まで行かないと無いような娯楽を欠いた町で、若者である俺と兄が連れ立って外に出ても、行くところなど無かった。毎日家に引きこもっていては不健康だと思い兄を誘って散歩に出たものの、目に映る民家と田畑は静穏なだけで何の面白味もなく、蝉の声がやけにうるさく聞こえた。残暑の厳しい季節のはずだが空はすっかり曇っていて、嵐の前の静けさのようにどんよりとした空気は、全く熱を持っていなかった。ところどころでトンボが低く飛んでいて、最初目にした時に蜂だと思ってびっくりして避けようとした俺を見て、兄が少し笑った。都会に出て垢抜けた、と前に兄に言われた、あっちの空気に馴染んできた俺は、最近は実家に帰るたびに少しだけ自分が異物であるような気持ちに襲われる。進学しようと思っている大学院を出たらそのまま都会で就職するつもりでいたが、ずっと前から俺は、大好きな兄と一緒に暮らしたいと思っていた。もちろん口に出すことはできない、口数の少ない兄はきっとそう伝えても、困ったように笑うだけだろうから。家から道なりに続いていた用水路が他のと合流するところで、流れる水同士がぶつかって音を立てていた、人間の営みが静かなのでそういった音が何にも遮られずに耳に入ってくる。触れられる距離にいるのに触れることの叶わない兄が、いつか誰かに連れ去られたらどうしよう、と俺は俄に不安になった。

 少し小高い場所にある公民館まで歩いたところで、一休みをしようと兄が提案した。昔から設置されている自販機の前に立つと、右下のボタンのところに小さな白いカエルが張り付いていて、俺は思わず悲鳴を上げそうになったが、兄は平然と自分と俺の希望する飲み物を買って、スポーツドリンクの方を俺に手渡した。古いベンチに二人で腰掛けた途端、パラパラと雨が降ってきて、ペットボトルに口をつけたばかりだった俺と兄は慌てて立ち上がった。薄い茶色のベンチがみるみるうちに、雨粒によって濃く染め上げられていく、仕方なく、本降りになる前に帰路に着くことにした。しかし、予想に反して雨脚は強くならなかった。ずっと微かに雨が降り続いている中を歩いているうちに安心して、俺と兄は自然と歩みを緩めた。濃い灰色のコンクリートの道上にたまに現れる、白くて小さなカタツムリを踏み潰さないように気を配りながら、俺は兄の横顔をそっと盗み見た。相変わらず美しく静謐で、飲み物以外を手に持っていないために僅かに濡れているシャツの下は、俺の欲望を刺激してやまなかった。

「少し暑くなってきたな」

 頬を赤く染めているであろう俺の顔を見て、兄がいつもの柔らかな声色で言った。気がついたら日の光が雲の隙間から覗いていたが、雨はまだ止んでいないので、蒸してきたようだった。

「うん」

 恥ずかしさに俯くと、手に持ったほとんど中身の減っていないペットボトルが、やけに重たく感じられた。平穏な兄の生活は、弟である俺を欠いても何の支障もなく続いているようで、刺激の多いはずの俺の生活は、活力に満ちていても兄の不在による空虚が危険にちらついていた。家に近い畑を、来た時と逆の方向に横切ると、帽子を被った老人が行きに見たのとあまり変わらないところで身を屈めていた。ずっと同じところにいたのだろうか、と俺は不思議に思った、都会での生活は毎日が充実しているように感じられたが、情報が飽和し、前進と向上に追い立てられた俺の内部は、今までに経験の無い精神の疲弊がわだかまっていた。背を向けた老人は道を隔てて遠くにいる、車が走る音も聞こえず、鳥と蝉の忙しない鳴き声の中で、人々の生活は自然の緑に押しつぶされそうになっていた。兄を抱きしめたい、そう願うが早く抱きしめた兄は、温かくてほんの少し湿っていて、弟である自分より小さかった。

「どうしたんだ」

 兄は抵抗する素振りを見せないどころか、ペットボトルを持っていない方の手で俺の背中に優しく触れた。

「兄貴はこの町から出ないの」

「……そんなこと、考えもしなかった。父さんと母さんもいて、仕事にも生活にも何の不便も無いものだから」

 穏やかな兄の生活を変えるのに俺が理由にならないことは分かっていた、ここらへんにいい働き口はあるだろうか、と俺はぼうっと思案した。

「大人になっても、甘えん坊なのは変わらないんだな」

 慈しむような兄の口調に、俺は泣きたくなって体を離した、兄を抱きしめるのに邪魔だったペットボトルを地面に投げつけたかったが、これは兄が買ってくれたものだった。雨は止みそうで止まない、水を多く含んだ空気が肌に触れるのが不快なのに、家には帰りたくなかった。

「今日の夕飯の当番は俺だから、お前の好きな野菜の天ぷらを揚げるよ」

 宥めるように言った兄が気づいていたのは俺が負的な感情を抱いているということだけで、理由までは知らないはずだった。成人してもなお、愛する兄に小さい子どものように甘えている自分が情けなくて仕方なかった。兄に触れた時の体温を名残惜しく思い返しながら俺は、普段履いている靴で右足が靴擦れをしていることに気づいた。

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