声は
「対岸の天国 [兄弟BL短編小説集]」から移動。 ※描写…怪我
休日は、ずっとアパートに引きこもっていた。常に薄暗くじめじめした、日当たりの悪い部屋で、土曜日の朝、目が覚めてからベッドに長く横たわっていた。次第に温度が上がってきたので、水を飲み、顔を洗って、何も食べていないのに歯磨きをした。そして適当な本を手に取って開き、一ページも目を通さないうちに本棚に戻すことを繰り返した。音楽を少し流してみたが、耳障りにしか感じられなく、すぐに止めた。夕方になって、シャワーを浴び、また歯を磨いて、ぼんやりと詩のことなど考えた。昔から愛誦しているものの断片しか頭に浮かばなく、いつのまにか俺は眠っていた。そして夢を見た。
「お前は詩は好きだけど、メロディがつくと駄目なんだな」と、兄は言っていた。
十七歳の時に、二十一歳の兄が死んだ。取り立てて特徴の無い、どちらかというと穏やかな性格の人で、同じように平凡な人間の俺とはそこそこ仲が良かった。趣味でギターをやっていて、たまに、バイト代で買った自慢のギターを弾きながら歌ってくれた。ギターと歌は上手でも下手でも無かったし俺は音楽に全く興味はなかったのだが、兄と過ごすその時間が何よりも好きだった。兄がどう思っていたかは知らない、ただうれしそうな様子だったと思う。そして兄が大学に進学し、そう遠くもないのに一人暮らしを始めてから、会うのは盆と正月だけになって、少しずつ距離ができた。昔は二人でいることがあんなに居心地が良かったのに、だんだんと会うたびに緊張するようになった、兄が知らない人になっていくみたいで。子どもじみている考えだと思う、実際、俺は歳の割に幼くて、高校二年生の時に親と喧嘩して家出をして行くあてが無く、兄のいるアパートを突然訪ねたのだった。引っ越しの手伝いをしに一度きり行っただけなのに、住所だけを頼りによくたどり着いたものだな、となけなしの金と勘で電車を乗り継いだ自分に感心した。チャイムを鳴らすと、久々に見る兄はびっくりしながらも中に入れてくれた。よく片づいている、というか物がとにかく少ない。兄は真夏だというのに長袖を着ていて、そのせいか部屋のエアコンは効きすぎていた。元々細身だった兄は大学生になってから余計に痩せて、あんまり笑わなくなり、近づきがたい印象になった。部屋の冷蔵庫には飲み物しか入っていなかったので、コンビニで弁当を買ってもらった。兄は、何も買わなかった、外が暑く汗をかきながらのコンビニからの帰り道、どうして長袖長ズボンなのだろうと、兄の横顔を盗み見たがやっぱり何を考えているのか分からない。兄弟の間には無言が多く、部屋では小さなテレビをつけっぱなしにして、俺は一人でご飯を食べた。シャワーを浴び、借りた兄の服に腕を通すと俺には少し小さくて、何となく胸が詰まる思いがした。散々譲り合ったが結局、俺がベッドで、兄は床の上で寝ることに決まる。来客用の布団なんてないので、毛布を敷いただけの上に横たわる兄は、たまらなく寂しく見えた、死んでしまうのじゃないかと。俺は妙に不安で眠れなくなり、やっと静かな寝息を立てた兄のそばにこっそり近づいた。小さな明かりを点けて寝る習慣があったので暗くても様子は分かって、ちゃんと生きていることにどうしてか、涙が出るほど安心した。その時寝返りを打った兄のトレーナーがめくれて、薄い腹が僅かに露出した、今でも目に浮かぶ光景だ。そこにはくっきりとした痣があったのだ。え、と思って、震える手で服の裾をめくったら、痣や切り傷や腫れた痕がおびただしく腹にはあって、たぶんきっとその上にもその下にもあるような自然さで、激しく肌を埋め尽くしていた。頭が真っ白で、叫び出したい衝動を抑えながら、さっき、「家に連絡しといたから明日には帰るんだよ」と言った、兄の兄らしい様子を思い出した。俺は服をそっと戻して、全く眠れないまま朝を迎えた。「なんか元気がないな」、と不思議そうにしている兄をすぐさま抱きしめて怪我について問いただしたかったけど、俺は「そんなことないよ」と返して、そのまま家に戻った。ほどなくして兄は死んだ。一人でレンタカーを運転していて、崖から落ちたのだと聞いた。事故死だって、事故死。どうしても引っかかったのだけれど誰にも言えようがなく、見間違いだったら良かったと思うたびに記憶が鮮やかになっていった、じゃあやっぱり嘘かもしれない。
夢の中の兄は、俺が昼間に流してすぐに止めた曲を演奏していて、そういえばこのCDは兄が好きだということを兄の死後に思い出して買ったのだ、でも兄の歌じゃないと俺には意味がなかったみたいで、ずっと聴いていなかった。起きたらもう声が分からなかった、兄はどんな声をしていたっけ。
俺は二十一歳になっていた。死んだ兄に似てきたと親は数年前から言っているけど、このまま歳を重ねていったら離れていくのだろうか。日曜日は、鏡を見なかった。音楽も聴かなかった。




