婚約破棄された軍服令嬢は敵国で剣を掲げる
差し出された漆黒の軍服を、少女は震える手で受け取った。
恐怖ではない。ようやく望みが叶った喜びと、今日この日から双肩に負うことになる重責を思っての震えだ。
「アディ、これからは一緒に人々を守っていこう」
「……はい、フレド兄さま」
アデレイドは、ぎゅっと胸に軍服を抱く。その細い肩を、フレドリックが大きな手で包み込むように引き寄せた。
深い碧の瞳に間近で見つめられる。頬にのぼる熱が、同じ地位につけた喜びによるものか、それとももっと別のものなのか、幼いアデレイドにはわからなかった。
アデレイドは、ディバージェン伯爵家の一人娘だ。
彼女がフレド兄と呼ぶ男は、兄と呼んでいても血が繋がっている訳ではない。
父がよく自宅に呼ぶグラドレッド子爵フレドリック。
父の腹心であり、頼れる存在であり、最も身近な家族以外の異性だった。
父を、そしてフレドを敬愛し、彼らの後を追うように軍人を目指すようになったのは、アデレイドにとっては当然のことだ。
周囲の多勢からは、女性が軍務に就くことは危険であり、無意味なことだと止められたものだが。
当初は難色を示したものの、フレドは結局、アデレイドを最後まで応援してくれた。
フレドだけだった。アデレイドの想いを理解してくれたのは。
「君は、国防の最前線で人々を守りたいと言う。女性である君は、亡くなった母君のように、父君を支えることで国に貢献することもできるが――」
「力のない人々のために身を捧げることこそが高貴なる者の責務であると、父上はいつも言います。ならば、私もそれにならいます。母の方法に効果がないと否定することはしませんが。私にはできません」
「君にできるのは、俺たちと同じ方法――戦って守ること、か」
「はい」
「では、君にできる最善をなそう。俺たちと一緒に」
こくりと頷いたアデレイドの髪を、武骨な手がぐしゃぐしゃとなでる。
あなたの背中を追っているのだ、とは、気恥ずかしくて口にできなかった。
まるで、告白のようで。
……言っておけばよかった。アデレイドは今も後悔している。
三週間後に、フレドリック戦死の報を受け取るのだと、このとき知っていたなら。
■◇■◇■◇■
あれから七年。
少女の時期は過ぎ、まがりなりにも社交界の一員となったアデレイドは、相変わらずの軍服姿である。
一般的な帝国貴族の令嬢からすると、多少行き遅れの感のある二十三歳。
軍人としてはひとかどの成功をなしたが、帝国令嬢としては完全に――失敗した。
その決定打となったのが、この日の夜会だった。
夜会は、帝国のはなばなしい勝利を称える声と、様々な戦利品の輝きに満ちていた。
帝国に抗おうとする国を数年がかりで下し、属州に落とした。
その祝いを兼ねた席だ。
周囲では、色とりどりのドレスがさんざめいている。
アデレイドも伯爵家に生まれただけあって、同じような夜会には慣れている。
気後れすることはないが、黒一色の軍服で参加する自分は、ひどく悪目立ちしていることだろう。胸から下げた勲章と腰の軍刀に施された意匠の他には、伸ばした黒髪のつややかさだけが唯一の飾りだ。
空気を壊して申し訳ないと感じる程度の心遣いは、アデレイドにもあった。
だから、普段はこういった華やかな席は辞退している。自分の本分は戦場にある。
軍功の数々に彩られた胸を張るように、アデレイドは意識して背筋を伸ばした。首筋で、高く結いあげた黒髪がふぁさりと揺れる。
夜会を飾る勝利には、自分も貢献しているのだ。恐れることなどなにもない。第二皇子が主催するこの夜会において、主役とまでは言わないが、喜びを甘受するだけの権利はあるだろう。
そもそも、場違いと知りながら来たのは、呼び出されたからだ。
バートランド第五皇子――皇位継承争いからはやや遠いが、まぎれもない皇帝の実子である。
彼こそが、アデレイドの婚約者。そして、この夜会にアデレイドを呼んだ本人だ。
「レディ・アデレイド、到着したか!」
「殿下。お待たせいたしました」
背後からの声に、アデレイドは振り向いた。
視線の先に立っていたのは、予想通りの婚約者の姿だ。皇帝一族の血統を示すかのような豊かな金髪と碧眼。たれ目がちで物柔らかな顔立ちに見え、実のところ婚前から既に数々の淑女と浮名を流している――と、それを耳打ちしてくる上司には事欠かない。放っておいてほしい。
正直なところ、バートランド皇子の人となりに、アデレイドはあまり興味がない。貴族の結婚などそんなものだ。
相応しい相手と血脈を繋げることが第一で、極端に言えば、アデレイドとの間に子どもさえ作ってくれればそれでいい。
もっと言えば、アデレイドが軍人として戦場に赴くことを許してくれるのだから、優しい方だと言ってもいいだろう。
皮肉めいたことを言われたことはたびたびあったが、正面からやめろと言われたことはなかった。
その一点だけでも、皇子はたぐいまれな相手だ。
今夜、少し遅れて来たのは、軍議があったからだった。事前に伝えたはずなのに、バートランド皇子はひどく苛立っているように見えた。
理由があるとは言え、遅れたことは事実だ。アデレイドは恭しく頭を下げた。
「申し訳ありません、殿下」
「許す。いや、そんなことより、貴女に紹介したい女性がいるんだ」
顔を上げた途端、その女性と目が合った。
バートランド皇子の腕に手を乗せた彼女は、嫣然と微笑んでいる。
大きく襟ぐりの開いたドレスは少しばかり肌色面積が多すぎる気はするが、濃い赤毛には華があり、うっとりと夢見るような視線は愛らしいと言える。
全体に、アデレイドにはないものだ。
「こちらがレディ・ブリジット。私の婚約者――になる女性だ」
「……は」
一瞬、反応が遅れたが、なんとか返答した。
まさかこの場で、という思いが先だって、理解が追い付かなかった。
が、わかってしまえば、みなまで聞かなくてもいい――のに、バートランド皇子はどうしても決定打を口にしたかったらしい。
「レディ・アデレイド。今夜をもって貴女との婚約を破棄する。異論はあるか?」
「……ございません、殿下」
「ない訳がないだろう!」
訳がないと言われても。
閉口しているうちに、バートランド皇子は自分から切り出し始めた。
「まず、女性であるのに男と同じく軍務につくような女を、栄誉ある帝国の頂点たる皇家の一員とする訳にはいかない」
私が皇家に入るのではなく、あなたが婿に来る予定だったのだが、とは言いかねた。
当然のこと過ぎて、茶々を入れているとしか思われない。
皇子が声を張っているせいで周囲に人が増えてきたことも、アデレイドが口を閉ざした理由だ。
自分については今更でも、これ以上バートランド皇子に恥をかかせる訳にはいかない。
――女などが、軍に入ってなにができるつもりだ。
そんな言葉は嫌と言うほど聞いた。
それが理由で婚約破棄されるなら、仕方ない。こういう風にしか生きられなかったのだから。
「レディ・ブリジットには、汚点はない。彼女は生まれこそ貴女より下の子爵の令嬢だが、申し分のない淑女で、私の呼び出しにいつでも応じ、常に私を立て傍にいてくれる。彼女が私を支えてくれることで、私は更に帝国のために力を尽くせる――女性の価値とはそういうものだろう」
「おっしゃる通りです」
それこそがアデレイドができなかったことだ。
亡き母と同じ道。母のような生き方。
望まれていると知って、どうしてもできなかった。善悪ではなく、可否の問題だ。
自分の手で道を切り拓くことにしか、興味を持てなかったから。
「最後の理由だ。貴女に、隣国から婚姻の申し入れが来た」
「……は?」
「新興のリディア王国だ。相次ぐ帝国の拡大に脅威をおぼえているのだろう。ついに和平を結ぶことに同意した。その印として、王が貴女を娶りたいと」
「私、を、ですか……?」
くす、と笑う声が、耳に響く。
皇子の横に立つブリジット嬢だ。
「望まれて嫁ぐのですから、レディ・アデレイドは幸いですね。女として最高の幸福ですわ」
「なんだ、お前もそっちの方ががいいか? ビディ」
「まさか。新興国なんて野蛮で恐ろしい。私の幸せはあなたの傍にしかありませんわ、殿下」
皇子の肩に、ブリジット嬢はしなだれかかる。
ちらりと自分を見た視線を嘲りと感じたのは間違いではないだろう。
皇子からは見えない角度であることも計算の内なのだろう、とアデレイドはむしろ感心した。
「理解したか、レディ・アデレイド。貴女の居場所はもう私の横だけではなく、この国にはない。貴女との婚約はこれにて破棄だ」
「なるほど……」
そこまで決まっているならば、正式には、後日伯爵家に相応の知らせが来るはずだ。一応は「打診」という形の命令で。国家間の親交を目的とするなら、断ることは不可能だ。断れば、軍属である自分の地位はおろか、父の地位も揺らぎかねない。
当然、今夜の呼び出しは、はやったバートランド皇子の勇み足だろう。
多少礼を欠いた形ではあるが、いずれにせよ、アデレイドに拒否権はない。
そもそも、拒否するつもりもない。
「よくわかりました、殿下。これまでお世話になりました。お幸せに」
端的に答え、アデレイドは踵を返した。
背中に皇子の慌てた声を聞きながら。
「待て、貴女は納得しているのか……本当にそれでいいのか!? 私の婚約者の地位に未練はないのか。今なら私も再考……はしないが、貴女の扱いについて、多少は父上に取りなしてやっても……おい、聞いているのか!?」
そんな声も、アデレイドが会場を出る頃には静かになっていた。
耳に残ったのは、人々の楽しげに笑う声だけだった。
■◇■◇■◇■
噂になったからには、皇帝からの通達は早かった。
翌日には、アデレイドは父親と額を突き合わせ、最終的な決断を迫られることになっていた。
「リディア王国は成立してまだ五年。国家と呼ぶのも危ういぞ」
「承知しています」
「王だというイェルハルドについても、多くのことは伝わっていない。過去の戦闘で片目を失い、あまり表には出てこないのだとか。過去を隠し顔を隠し、イェルハルドという名すら偽名だという噂もあるぞ」
「そうらしいですね」
「蛮族だ。どんな扱いを受けるか知らんぞ」
「その時は、父上は葬儀に参加しないでくださいね。なんの罠かもわからないですから」
「その時は、じゃない……」
父であるディバージェン伯爵は、困ったようにため息をついた。
アデレイドの心は既に決まっている。
「いずれにせよ、嫁ぐ以外の選択肢があるとは思えません。勅命でしょう」
「お前さえもう少し嫌がれば、私にだって考えはある。皇帝に直接嘆願する伝手もあるのだ」
「特に嫌がっておりません」
「お前がその調子だから」
再び大きなため息と共に、ディバージェン伯爵は机上に突っ伏した。
「……ディバージェン領は跡継ぎを失うぞ」
「皇帝陛下の勅命と比べれば、さしたる問題でもありません。親族のどなたかから養子を迎えられませ。さもなくば」
「後妻はいらんぞ」
勧める前にきっぱりと断られ、アデレイドも微かに頬をほころばせた。
「私の直情は父上似だと、よく言われます」
「……仕方あるまい。私は今も妻を愛しているのだ」
「そういうところが」
アデレイドに指摘され、ディバージェン伯爵も苦笑する。
娘に似ていると、彼もまたよく言われているらしい。
「部下のリガートン男爵が嘆いていたぞ。お前がいなくなったら、誰があの荒くれ男たちをまとめるのかと」
「私の隊ですか――まあ、すぐに新しい隊長が来るでしょう」
「お前以上にあの隊をうまくおさめられる者がいるとは思えんがな。時に懐柔し時に叱咤し……よくぞここまで手懐けたものだ。脱退して、お前と一緒に隣国へ赴くと言う奴らを押さえるのに苦労しているとか」
「幾人かからは直接聞きました。結婚より、その申し出の方が嬉しかった」
「お前だけだ、変わり者め」
ディバージェン伯爵は、席をたつ。
机を回り、逆側に座るアデレイドの傍へと近づいた。
「心は揺らがんのだな」
「はい、父上。いくら性に合わないとは言え、いずれ結婚は避けられないと思っておりました。その理由が両国の和平のためなら、願ってもありません」
「我が身を投げうって、国を守るか」
「いいえ、私が守るのは、国家などという目に見えぬものではありません。我が剣で守れる者が、いつだって私の守りたい者です」
「あくまで、傍にいる者のために戦うと言うか――ならば、既にお前は隣国の回し者というわけだな」
「はい、イェルハルド王が許してくだされば、ですが」
「そう、だな」
そうはならない可能性の方が高い。
敵国から嫁いできた娘に武装など許されないだろう。ましてや、帝国にいた頃同様に、軍を率いることなど。
お互いにそう理解していたから、二人は最後の抱擁を交わした。
軋むほどに強く背中を抱く父の手が、かつてよりもずいぶん小さく感じた。
■◇■◇■◇■
二週間をかけ、国境まで。
そこから更に数日で、アデレイドはリディア王国の王都パラティアへ到着した。
最初は、最小限の使用人だけを従えていた馬車団だったが、国境を越えてからは出迎えたリディア側の騎士たちも参加しており、街道沿いの農夫たちからも目を引く一団となっていた。
途中、双方の間で諍いじみた問題が発生したりもしたが、先を急ぐリディアの騎士たちと、とにもかくにも王の元へたどり着きたいアデレイドは、存外馬が合った。
内心にはなにを抱えているか判然とはしないながらも、ひとまずは王都に馬車が到着する。
侮っていたつもりはなかったが、その威容が目に入ると、アデレイドは息をのんだ。
国が成って五年。
そう聞いていたはずなのに、城壁は隙なく王都を囲み、開け放たれた門を通って多くの行商人が行き来している。
アデレイドの馬車は、なんの滞りもなく門を通過した。
速やかさに、門兵の練度の高さがうかがえる。
王都の中央を貫く道は、まっすぐに城へと向かっていた。
城壁に比べ、中心である城は質素に見える。
その質素な城の正面、馬車の行く手に、儀仗兵が乱れなく整列していた。
最奥に立つのが、国王イェルハルドだろう。
遠目にも大柄な体つきがわかる。ハニーブロンドの柔らかそうな髪を風にさらしているが、顔の半分を大きな眼帯で隠しているために、顔立ちははっきりとは見えなかった。
馬車を降りようとするアデレイドに、彼は手を差し出した。
訓練された無駄のない動き。その手の形に、ふと懐かしさをおぼえた。
「――あなた、は」
しっ、とイェルハルドは口元に指を当てる。
記憶よりもしゃがれた声。だが、あの頃のまま変わらないのは、深い碧の瞳だ。
「ようこそ、レディ・アデレイド。お待ちしておりました。あなたを恋い慕うてこんな遠方までお越しを願った哀れな男に、淑女の御手に触れる許しをください」
露わになっている片目をぱちりとつむって見せる姿で我に返り、アデレイドは慌てて手を乗せたのだった。
■◇■◇■◇■
「――どういうことですか、フレド兄さま!」
ようやく二人だけになった途端、アデレイドは掴みかかるように詰め寄った。
イェルハルド――そう名乗った相手は、見れば見るほど七年前に死んだとされるフレドリックに似ている。
声は違う。面影があるとは言え、顔立ちも変わっている。
体格も逞しくなっているし、髪は伸びた。
だが、立ち居振る舞いや瞳の色をよく見れば、明らかだ。
「あなたは死んだと聞かされて、私が……どれほど」
「心配をかけてすまない。俺だって連絡を取りたかったよ、アディ。……だが、帝国に戻る訳にはいかなかった」
諦念と決意の込もった瞳は、アデレイドの脳裏に一つの想像を浮かび上がらせた。
「それは、つまり――フレド兄さまは帝国に嵌められた……?」
「そうだ。どうやら帝国軍部の暗部に足を突っ込んだのがまずかったらしい。だが、買収やら他国への不法輸出やら、国家予算を使ってやりたい放題する上層部に我慢がならなかった――だから、帝国に戻らずにこの国を作った。できたばかりで、まだ少し頼りない国ではあるが……あまり待つ訳にもいかない」
「待てない?」
「だって、君が結婚してしまうだろう。俺以外のひとと」
アデレイドは目を見開いた。
その足元に、フレドは膝を突く。
「申し出は心底からの本気だ。会えなくなってから、ずっと君を思っていた。アデレイド、どうか俺と結婚してほしい」
「それは素直に嬉しいです――けど、兄さま! 私にだって、帝国での生活というものがあったのですよ!」
真実、アデレイドは心から喜んでいた。
頬が赤くなり、目じりが熱くなる――死んだと思っていた初恋の相手が生きていた。そればかりか、相手もまた自分のことを思っていてくれた。これ以上嬉しいことなどない。
彼の言葉を疑うつもりも、否定するつもりもない。
だが、それにしたってアデレイドの気持ちというものを、あまりに無視し過ぎではあるまいか。
これまで無事を知らせて貰えなかった悔しさも重なって、どこへもぶつけようのない怒りで、アデレイドは顔をゆがめた。
ぽこぽこと、普段の覇気には到底及びもしないような勢いで、フレドの胸板を叩く。
フレドはくすぐったそうに笑って、アデレイドの肩を抱いた。
「父上と引き離したのは申し訳ないことだった。けど、帝国よりよほどこちらの方が合うよ、君は」
「またそういう勝手なことを――!」
声を荒げたつもりだったが、既にアデレイドの苦情は言葉になっていなかった。
ほろほろとこぼれ落ちる涙ごと、フレドは強く抱きしめてくれたのだった。
■◇■◇■◇■
実際、フレドの言葉は正しかった。
まず、フレド――イェルハルド王と帝国の貴族令嬢であるアデレイドの結婚に反対する者はいなかった。更に言えば、王妃が将として軍を率いることにすら、最終的には誰も否やを唱えなかった。
いや、正確に言えば、当初、考え直した方が、と言う者はどちらについてもいた。
だが、フレドとの結婚についてはフレド自身が説得を請け負ってくれ、その後アデレイドの耳に反対意見を届ける者はいなくなった。
そしてアデレイドが軍を率いることについては、アデレイド自身がチャンスを与えられた。
現総司令官にとっては皮肉なのかもしれないが。
「帝国にいた頃は、戦場にも出ていたとか? あの国の貴族のご令嬢が、そんな無茶を許されるとは……」
「事実です。疑うなら、小隊で結構です。一週間のあいだ、私に預けてください。はみ出し者でも厄介者でも構いませんから」
話が早かったのは、フレドの口利きで王国の総司令官と直接交渉する時間を貰えたことだ。
帝国であれば、総司令官はつまり皇帝であるから――彼と直接話をするのは、非常に難しかったことだろう。
総司令官は小柄な男だったが、疑い深そうな眼差しは軍人としてむしろ適性があると、アデレイドには感じられた。
年かさも上だったが、背中が少しも曲がっておらず、軍服の下には鍛えられた筋肉がある様子も。
お世辞の微笑み一つさえ浮かべない淑女に対し、総司令官は一つため息をつくとすぐに決断した。
「貴女にそんな統率力があるとは思えませんが……試してみると言うなら、構いません。小隊をお貸ししましょう」
「ありがとうございます」
「礼には及びません。私はただ、貴女の能力を知ろうとしているだけだ。慢性的な人材不足で、この年になってもまだ駆り出される現状を克服したいのでね」
「それは、私が貴公の信頼に足ると判断されれば、今の地位さえ譲っていただけると?」
「早合点はいけませんな。それを測るのがこの機会だ。なに、荒くれ男たちはそう甘くはありません。他国から来たばかりの女一人、信用して命を預けるまでになるには時間がかかりますぞ」
「かしこまりました」
頭を下げたアデレイドには、当然、考えがあった。
■◇■◇■◇■
翌朝、一小隊四十名の兵士が室内に集まっている。
それぞれが自由に立ったり座ったりと、思い思いに過ごしているのは、アデレイドが強いて彼らを整列させなかったからだ。
ちらちらと向けられる視線を無視し、アデレイドは前に出て、男たちに向き直った。
「おはよう、諸君。しばらくの間、君たちの上官となるアデレイドだ。姓は捨てて来た。ただのアデレイドでいい。私は――」
「――未来の王妃殿下だって噂、本当ですかぁ? 怖ぇ顔してるが、俺らの国王陛下をコマすくれぇにはあっちの方がお上手なのかね」
遮るように、皮肉な声が上がった。
声の主の周辺では、勝手に盛り上がってげらげら笑っている。
「怒られんぞ」などと制止する声も聞こえはするが、それさえも冗談に拍車をかける役目しかない。
男たちは、完全にアデレイドを舐めていた。
たかが女一人だ。小隊全員の数の有利を、あるいは群衆に埋没した感覚を、絶対だと信じている。
アデレイドは口元だけで笑うと、発言した男に対してよく響く声で返答した。
「君の言う通りだ、ファルク・ベック。君は王都のパン屋『こんがりベック』の三男だね。あのパン屋、なかなか美味しかった。妹さんは今度結婚するそうだね。私たちとどちらが先か……もし私の方が後なら、ぜひ花嫁のブーケを受け取りに行きたいものだね」
「なっ……」
ファルクは声を震わせ、沈黙する。
ここまで素性を知られていれば、普通は発言するのが怖くなるものだ。
一対多だと思っていたものが、強制的に一対一の関係に引き落とされるのだから。
もちろん、軍隊であるからには、普通ではない人物も存在するが。
「あんたのそれ、脅迫か? ファルクがなんかしたら、実家のパン屋はただじゃおかねえぞって?」
「いいや。脅迫で人は動かない。買収でもだ。君もよく知っているだろう、クランツ軍曹」
「俺のことも調査済みかよ」
「そうだ。顔も名前も生まれも育ちも今の住まいから家族から君の弱みまで知っている。調査したのは私じゃない。軍に入るときに、怪しい人間が国防に関わらないように調査される、当然だろう」
「……で、なんで俺がクランツだってわかった?」
冷ややかな視線を受けて、アデレイドは失笑した。
「ただおぼえているだけだ、それ以上でも以下でもないさ」
「おぼえているって――四十人をか?」
「たった四十人の、私の部下だ。忘れるはずがあるまい」
兵士たちの間に、唖然とした空気が漂う。
アデレイドは表情を消し、話を続けた。
「――さて、話を戻すぞ。私がこの軍を率いるのは、他でもない。目的があるからだ」
一拍おいて「その目的とは?」と誰かが合いの手を入れてくれるのを待ったが、さすがにもう許可なしに口を開こうとする者はいなかった。
恥ずかしさを咳払いで紛らわせる。
「こほん、その目的とは、帝国軍の撃破だ」
一瞬、完全な沈黙が落ちた後に、一斉にざわめきが広がる。
今度こそわかりやすく唇を歪めたアデレイドを、兵士たちは注視せざるを得なかった。
■◇■◇■◇■
帝国軍は、混乱していた。
国境付近に配備され、守護をするだけ――のはずが、正体不明の敵に攻撃され、みるみる基地の命令系統は崩壊していく。
「何者だ! 戦況はどうなっている!?」
大声でがなる基地司令官の声に、答えられる者はいない。
今夜偶然、国境基地を視察に訪れていたバートランド第五皇子が、おろおろと司令官の脇に寄った。
「おい、大丈夫なのか!? 俺は無事に帝都に戻らねばならんのだぞ……!」
「昼間のうち、近隣の軍が近づいていたという報告もありません。大丈夫ですよ、ただの野盗の類で――」
司令官の言葉は、爆音で遮られた。
崩壊する壁の破片をすり抜け、人影が次々に入り込んでくる。
「――突入!」
その軽やかな声に聞き覚えがある気がして、バートランド皇子は顔を上げた。
かつて見知った女の顔を、そこに見つけるとは思わぬままに。
「……お前、アデレイド――!」
呼ばれた女は、長い黒髪を羽のように広げ、振り返る。
目が――合った。
瞬間、背後からの衝撃で、皇子の視界はそのまま暗くなった。
■◇■◇■◇■
婚姻の式は華やかで、歴史に残るものだったという。
純白のドレスを纏った王妃の美しさは、今も描かれた肖像画の中に残っている。
老若男女、貴賤を問わず多くの国民が祝いの宴に参加し、国王夫妻の永久の幸福を祈った。
その祝福を受け、初代国王とその妃のもとで、国は急速に発展した。
長く続いた帝国の歴史を食い破るように発展した、リディア王国。
その夜明けが、ここに訪れた。
常に最前線に立ち、剣を掲げたと言われる王妃のもとで。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。