こんにちは、地獄?
気が付くと、眼下に赤黒い大地が広がっていた。
俺は崖の上に立っていて、ここから地平線まで見渡すことができる。
視界一杯に荒廃した土地。
草木が一本も生えていない。
所々黒い筋が見えるのは、亀裂が走っているからだ。
起伏が極端な地形で、真っすぐ進むことがままならそうだ。
空には暗雲が立ち込めている。分厚い雲は一筋の光すら侵入を許さない。
時折聞こえる遠雷の音は怪物の唸り声にも聞こえる。
「ここが地獄?」
先ほどまでいた真っ白い空間は、あれはあれで無機質だったけど、今の場所は、生命の息吹を感じ取れない。
想像していた地獄とは少し異なっていた。他人はどう思うのは知らないけど、幼い頃どこかの博物館で見た地獄絵図が頭にこびりついているので、もっと苛烈な場所を考えていた。
辺りを見回し、続けて、身の回りにも目を向ける。
ジーパンと白シャツ。俺の服装だ。
体の感覚を確かめるように少し動かしみるけど、五体も特に支障はない。
鏡なんてないので顔を確認する術はないけど、感覚的に変化した様子はない。
仮に鏡があったら、二十代後半の平凡な男の顔が映るのだろう。
「大丈夫ですよ。異常なんてありませんから」
「そうなんだ……ってなんでいるの?」
後ろから声が聞こえて振り返ったら、天使がいた。
白い空間で最後に見たのは、わめき散らした姿だった。突然光が満ちて、ホワイトアウトしたと思ったら、直後に俺はここきた。
その時間の感覚が天使に当てはめるとどれくらい経過したかわからないけど、まだ感情がおさまり切れていないようで、ふくれっ面だった。
「あなたをここに転移するのは心底抵抗がありましたけど、それはそれ。きちんと欠けることなく、運びましたよ」
「失敗したら腕が吹っ飛んだりするのか。めちゃくちゃ危ないのかよ、それ」
「だから大丈夫ですよ。私はそんな失敗しませんから。というか段々ため口になっているのですが、もしかして私って敬られていない?」
「そんなことは置いといて」
「置かないでくださいよ!」
どうやら沸点が低いようで、また騒ぎ始めた。無視無視。
改まって、俺は天使に尋ねた。
「ここは本当に地獄なのか?」
「そ、そうですよ。地獄、と言われているところです」
「じゃあ、そのうち、悪魔か鬼がやってきて、捕まえようとするのかな」
「かもしれないですね」
「?」
なんか言い方が遠回しというか、引っかかるな。
「まあ、いいや。それより、具体的に地獄ってどんな所なのか教えてほしい。よくよく考えれば俺の思っている地獄が実際そうだとは限らないだろうし」
「いいですけど……普通、そういうことはちゃんと事前確認するのでは?」
「確かに」
あの時は乗せられている気がしたらから、嫌悪感を優先してしまっていた。
「確かにって……」
ため息をつきながらも、天使は言葉を続けてくれた。
「見ての通り居住には不向き。しかも、魔物が跋扈していて、着いた途端に捕食されてもおかしくない所ですよ、ここは」
「魔物ってどんなのがいるの?」
「様々ですね。今、草摩さんが思い描いている魔物の数々、名称など多少の差異はあったとてもどれもここにいるといって差し支えありません。だから、いつまでもここにいたら大変危険です。それに、水や食料を早急に見つけないと、運良く魔物と鉢合わせしなかったとしても、餓死してしまいます」
「え、死んだのに餓死ってあるの?」
「あるんです!」
力強くうなずく天使。その迫力は疑問を挟む余地を与えようとしてくれない。
「とにかく移動するのが先決です。向こうに背の高い山が見えますよね? あの麓、ここからだと手前の山々で見えませんが、比較的安全な場所があります。まずはそこを目指したほうがいいです」
天使が指刺す方向に目を向けると、確かに言ったような高い山がある。
距離は遠そうだけど、無理な距離ではないみたいだ。
「……なんか思ったのと違うんだな。地獄なんて着いた途端に、捕まって拷問されるもんかと思っていた。逃げられるんだな」
「そうです! 逃げていいんです。逃げないとダメです!」
「そっか。多少覚悟していたけど、やっぱり痛いことは嫌だし、避けられるなら避けてみるかな」
天使の清々しいくらいの言い切りに促されて、生存本能が働いていく。
「……決めた。あそこに向かうよ」
そう口にすると、天使が安堵した。
「そうですよ。まずは生き残る所からです」
「だな」
と頷き、言葉を続けようとして、ふと気づく。
「そういえば天使に名前ってあるの?」
「ああ、うっかりしていました。私、自分のことを天使としか言ってませんでしたね」
ごまかすような笑みを浮かべた後、天使は丁寧なお辞儀をした。
「私の名はメールと申します。位は中級。人々を守護する役目を負っています。例えそれが死した者であったとしても」
「ありがとう、メール。色々教えてくれて」
「天使としては当然のことです」
優しく、しかし、きっぱりとメールは言った。何者にも寄せ付けまいという神聖な佇まいは、彼女が天使であるという片鱗を見た気がする。
「さてと、そろそろ行かないと」
「はい」
メールは殊勝な様子で頷く。
別れの時だ。
ここから俺は一人で魑魅魍魎が跋扈するこの場所を突っ切って、目的地に目指さないといけない。
寂しくないといえば嘘になる。
特異な状況下、天使なのにやたらと感情表現が豊かなメールのおかげで、空気が和やかになっていたことに自覚する。
しかし、あくまでもアフターケアとして、見送りにきたのだろう。これ以上留まってもらっても悪い気がする。
俺とメールは目を合わせる。
さよならを言うべく、口を開くのとほぼ同時に、彼女もまた言葉を発しようとしていた。
「じゃあな」
「出発しましょう」
空気が止まった。
「………………」
「………………」
「「…………………………え」」
俺とメールの直前の言葉は全く異なっていたのに、今のは異口同音だった。
俺の地獄行きに天使がお供に加わった。