至上
ドアを開けると、「いよう。」と片手を挙げ、そこに佇んでいたのはシュンである。
「おお、どうしたよ!」リョウはシュンの肩を叩いた。
「だって今日帰国だっつってたじゃねえか。だから例の新曲聴かして貰おうと思ってよお。ツアー中作ってんだろ? バンドの新曲。」
「おお、おお、そうだ。入れよ。」リョウはそう言ってスタジオのある奥へと歩み出した。リビングからミリアの喚き声がする。
「おい、……どうしたんだ?」シュンが顔を顰めて言った。「夫婦喧嘩でもしてたんか? 珍しいな。」
「い、いやあ、何でもねえんだ。何でも。」
ガタン、とリビングの扉が開いた。リュウが真っ赤に染めた顔を出す。「ミリアに謝れよ!」そしてシュンに気付いて、慌てて「……あ、シュンさん。こんばんは。」と俯いた。
「おお、久しぶり。どうした、ミリアとなんかあったんか。」
「酷いんですよ。」リュウは新たな仲間を獲得せんとばかりに、リョウを睨んだ。「リョウがね、ミリアに浮気したんじゃないかなんて、とんでもないこと言って!」
「否、言ってねえし。」リョウは渋々リビングに戻って行くと、テーブルに突っ伏しているミリアの肩にそっと腕を伸ばし、「悪かった、悪かった。でも俺、お前が他の男に興味ねえって知ってっから。本当に。」
ミリアは涙に濡れた顔を上げる。「リュウちゃんはリョウの子なの。リュウちゃんが一人だけ賢いのは、今思い出したんだけど、きっとジュンヤパパのパパに似てんの。ジュンヤパパのパパは政治家で、とっても頭良かったっておばあちゃん、言ってたから。」少々冷静さを取り戻しつつ、しかしぐす、ぐす、と鼻をすすりながら言った。
「何お前、リュウが賢過ぎて自分の種じゃねえって思い始めたの。」シュンが身も蓋もないことを言って哄笑した。
「思ってねえよ!」慌てて否定した。
「でもたしかにリュウは凄いよなあ。ギター弾いて、ライブやって、そんでまいんち飽きもせず学校通って、優等生もやってんだもんなあ。通信簿オール5だぞ、オール5。そんなのあり得んのかっつう次元だよ。人非人だったリョウの子としちゃあ、たしかに上出来中の上出来だ。」
「そうそう。俺も褒め言葉としてな、リュウが頭いいっつっただけなんだよ。ほら、トンビが鷹、みてえなノリでさ。だって学校で一番なんだとよ? 一番。凄いだろ。俺らだって、ほら、初めて国内メタルCD売上数で月間一位とか取った時はよお、飛び上がるぐれえ嬉しかったもんだろ。一番っつうモンは何だって凄ぇんだよ。」リョウは助けを得たとばかりに、シュンの肩を摑んだ。
「そんなんじゃ……。」リュウはさすがに下を向いて言った。
「でもミリアが他の男に色目使ったり、リョウが他の女にちょっかいかけたりなんざ、この世が終わってもあり得ねえから、安心しろ。」シュンが優しくリュウに語り掛ける。
「違うんです。」きっぱりとリュウは言った。「僕、……何かで読んだんです。浮気を疑う人は自分が浮気をしているから、人も自分と同じで怪しく見えるんだって。リョウは、……」じろりと睨む。「グルーピーなんていうものを引き連れてるバンドと一緒にツアーをやってきたから、そんな下品な女の人とイチャイチャしてるんじゃないかって、不安で。だってミリアは毎日毎日リョウの帰りを待ってるっていうのに、そんなのって酷いじゃあないですか。」
「何お前、そんなこと考えてたんか。」リョウは呆気に取られた。
「ああ、たしかにたしかに。」シュンが腕組みをしながら勝手に肯く。「あのバンドは若い頃は相当酷かったっつう話だったよなあ。グルーピー専用バスを率いてツアーやってただの、マリファナの売人ステージ下で待機させてライブやってただの、ろくでもねえ話ばっか。」
リュウの顔が引き攣る。
「あのな! 五十過ぎたらんなことしてらんねえからな! その、……体力的にも。」
「本当か?」リュウが渋面作ってリョウに迫った。
「あ、ああ、ああ。誓ってもいいが、グルーピーもマリファナも一切無縁だ。絶対だ。」
リュウの顔がみるみる弛緩していく。「……良かったぁ。」
「ああ、ああ。」
リュウが拳で瞼を拭おうとしたので、リョウはそのままリュウを抱き締めた。「お前、一体何考えてんだよ。」
「だって、だって、……」リュウはやはり赤くなった目をひたとリョウに向けて言った。「リョウの入ったバンドの噂、ネットで探せば探す程、酷いんだもん。ミリアは毎日楽しみに帰りを待ってるし。ミリアが泣いたら、可哀想じゃあないか。」
「まあ、そりゃそうだけどリョウは何だかんだ言って、基本、昔っからミリアの言いなりだからな。結婚したのも、そうだ。」
リュウは目を見開いた。「ミリアの言いなりになったから、結婚したのか?」
「い、いい、いいや、そう言うとちっと語弊があるが……。」シュンは慌て出す。
しかしそこに落ち着き払ってミリアが言った。「そうなの。私が結婚式を内緒で準備して、リョウを呼びつけたんだわ。リョウはでも、もう私ドレス着てたし、お客さんも大勢いたから断れなかったの。だから、リョウってばバイクで式場来たまんま、革ジャンに迷彩パンツで結婚式を挙げたんだから。」
「ええ!」リュウは両頬を押さえて目を瞬かせた。「だから結婚式の写真、リョウだけ普段着だったの?」
「まあ、着るモンなんてどうだっていいだろ。人間中身が大事だ。」リョウはなぜだか威張って言った。
「リュウ、こんな冗談みてえな話だけど、一切嘘はねえぞ。何せ俺も結婚式に呼ばれたかんな。証人だ、証人。」シュンは胸を張って答えた。
リュウはふと、区役所で見た戸籍謄本が脳裏に浮かんで項垂れた。――結婚式を挙げながら、そして多数の友人も呼びながら、そして実際に長年連れ添いながら、結婚届を出せない理由なんてあるのだろうか。リュウはますます混迷に呑み込まれていくこととなった。
「だからよ、そんな一人で思い悩むなって。リョウはこう見えてミリア至上主義なんだよ、ミリアが臨むことは何でもしてやる、慈愛に溢れた夫なの。だからリュウは安心してギターでも勉強でも頑張んな。セカンドも期待してっから。またベース必要なら幾らだって入れるぜ。」シュンはリュウの肩をぽんと叩いて、「じゃ、リョウ、曲聴かしてくれよ。ツアー中作った曲をよお。」
「あ、そうだそうだ。じゃあ、こっち来てくれ。」
二人は大きな背中を見せながらレコーディングルームへと向かっていった。リュウはほっと安堵の溜め息を吐いて、ミリアを見詰め微笑んだ。