団欒
ノックをする。返事はない。もう一度、ノックをする。
「……どうぞ。」頗る不機嫌な声がした。ふとそれが自分の声に似ているような気がして、リョウは思わず噴き出しそうになった。
リョウは一つゆっくりと呼吸をすると、ドアを開けた。リュウは机に座って勉強の最中であった。
「おお、勉強してたんか。偉いな。」
リュウはリョウを睨み上げた。「何でいっつもミリアにお土産買ってこないんだよ。」
リョウは頭を掻いて「済まん。」と素直に言った。「……忘れてて。」
「忘れててじゃないよ! 空港にだってお店はいっぱいあるし、どこだって、……ちょっと綺麗なものとか、可愛いものとか、それかミリアは猫が好きなんだから、そういうものとか、何だって買えるじゃないか! リョウは、リョウは、知らないだろうけど、ミリアはまいんちリョウが帰って来る日を楽しみにしてるんだぞ! この前追加公演なんて入って一週間も帰りが延期された時なんか、めっちゃくっちゃ、落ち込んでたんだから!」
「ありゃ、……マジで済まんかった。どうしても断れなくてなあ。」
「……浮気、してないな?」リュウは声を低くして訊ねる。
「う、浮気だあ?」
「今回のバンド、変な人いるんだろ?」
「変な人?」リョウは一か月寝食を共にしたメンバーたちの姿を思い浮かべる。たしかに変と言えば変なメンバーばかりであった。徹頭徹尾肉食主義で、健康のために野菜を食った方がいいと進言すると、唯一食うに値する野菜はポテトで、それは十分に食っているから大丈夫だと自慢してきたボーカリストを始めとし、体中に刺青を入れ、終いに入れるところがなくなったと顔にも入れ始め恋人に去られたベーシスト、更に蛇を何よりも愛していて彼等を一日たりとも手放せぬと、蛇専用スーツケースを持ち歩いていたドラマー。
「……まあ、ちっと個性的かもしれねえが、俺はスタッフ以外の女とは喋ってもねえから、安心してくれ。」
「本当か?」リュウはそう叫ぶように言って立ち上がる。
その大袈裟な反応にリョウは目を丸くする。「……本当だよ。」
「良かったー!」そう言ってリュウは大きく伸びをした。
「何だお前は、俺が女作ったって不機嫌だったんか。」リョウは心底呆れた。
「だって、だって、お土産がないんだから、他に女がいるのかもしれないって思うじゃないか。でもそんなことしたらミリア絶対泣くだろ? 夫婦なんだから、泣かせるのはダメだろ。」あえて夫婦、という所を強調して言ったが、リョウの顔には何も変化は見られなかったのをリュウは確かめる。
「お前な、ロン毛の五十男に浮気の心配してるってな、相当な贔屓目だぞ。世の女にだって選ぶ権利っつうモンはあんだかんな。」リョウは半ば呆れながら言った。「……それよか、お前、セカンドはどうなってんの。レコーディングは順調なんか?」
「もう、曲は出来てて、やれる曲からどんどん入れてってる。きっとあと半分ぐらいで終わるよ。でも、なかなか納得のいく音にはならなくってさ。何度弾いても違うって思うんだ。何パターンも作り過ぎて、最後どれ入れるか悩んだり。そもそも元を返せばさ、作曲の段階で、ファーストアルバムの時にメロディがひらめくたびによくあったゾクゾク感っていうのも、あんま、なくって。」
「ああ、ああ。」リョウは苦笑を浮かべながら言った。「わかるな、なんとなく。」
「え。」
「俺もさ、ファーストん時はさ、勢いでだけで突っ走って、曲もそれまで書き溜めてたやつの中からこれぞっつうのをレコーディングするだけだったから、何つうか、あんま神経使って作ったって気はしなかったんだよな。でも一つの生きた証みてえに思われて、凄い満足感もあった。でもセカンドからは、もう貯めといた曲も勢いもねえし、リアルタイムで丹精込めて生み出していくっつうのか? そんな風に作り方が変わってって、曲作っても作ってもこれでいいのかなっつうか、あんま満足感もなくってなあ。偉い神経ばっか使ったっつう記憶がある。」
リュウは目を丸くしてリョウを見詰めていた。
「リョウも、そう、だったんだ。」
「まあ、そういうもんだろ。」リョウははっきりと言った。「でも、だからこそセカンドからは本当の実力勝負っつうのか? そんな風に変わってったな。無から有を生み出してくのが俺の仕事なんだって、そう、確信を持てたもんだ。」
リュウは滲み出す涙をごまかすべく、目を瞬かせた。「……リョウも、そうだったんだ。」
「そうそう。」リョウは気軽に返し、リュウの肩を軽く叩く。「これからが本領発揮だ。ようやくリュウもここまで来たんだよ。これから誰にも指摘されることのねえばかりか、気付かれもしねえようなことに無茶苦茶神経注いでさ。……でも曲がりなりにも完成した時っつうのは、世の中すべてに感謝したくなるもんだ。そんぐれえ幸せで、満ち足りて、何ていうかああ、良かったなあって感じだ。」
「リョウに、もっと早くそう言って欲しかった。」
リョウはぎくりとして心配そうにリュウの顔を覗き見た。
「……悪かったな。その、……家空けっ放しで。」
リュウの眼から耐え切れなくなった涙が溢れ落ちる。リョウは息を呑んだ。
「ミリアも、ミリアも、……カレンダーバツ付けて、リョウのこと待ってるけど、僕も、僕も……。」しかしその後は言葉にはならなかった。
リョウはリュウの横に腰を下ろすと強く抱き締めた。
「悪かった、悪かった。そうだよな。レコーディングは孤独な闘いだもんな。まあ、バンドでやってりゃあ多少気が紛れっこともあっけど、ソロじゃあ、きつかったよな。なんか、でも、お前ならちゃんとやれんだろうなっていう確信みてえのがあって、ほったらかしにしちまった。……悪かったな。」
リュウは返事をする代わりにリョウの背に自分の腕を伸ばした。
「もうしばらくは家にいっからさ、明日からは一緒にレコーディングしよう。な。」慰めるつもりで言ったのに、リュウは目元を拳で拭うと「明日はテストがあるんだ。」と涙声で呟いた。
「何、テスト?」リョウはちらと机上を見た。小難しそうな問題集が広げられている。「テストって学校のか?」
「そう。期末テスト。リョウは何にも知らないんだから。」
「す、すまん。」
「いいよ。リョウはずっと海外にいたんだからさ。でも俺は受験生なんだ。夏休みが勝負だっていうだろ。だからそれまでにセカンドアルバムを完成させる。だからリョウ、これからレコーディングとテストとで忙しくなるんだ。だからこれからは暫く、家にいてね。」リュウは赤い目で笑った。
「わかった。」リョウは即答する。「俺に勉強は教えらんねえが、ギターならな。幾らだって教えてやるし、一緒にレコーディングもしてやる。」
「ありがとう。それであのね、リョウ、俺J高校に行きたいんだ。」
「J高校。」と言ってはみたものの、無論リョウは何も知らないのである。
「J高校はさ、毎年T大に何人も合格してるんだ。だからそこに行ってさ、僕もT大を目指したいんだ。」
「はあ。」
リョウはそのあまりに高尚な志に言葉を喪った。ミリアが中学生だった時には0点を連発し過ぎて担任教師から呼び出しを食らい、このままでは高校には行けないと言われたのであった。あまりの違いに眩しささえ感じる。
「その、T大なんつうモンは……、その……、ミリアに、言われたんか?」
「まさか。」
リョウはそうだよなとばかりに肯く。
「ミリアは勉強しろも、ギター弾けも何も言わないよ。毎日美味しいご飯を作ってくれて、リョウの話をするばかりだ。」
「そっか。」それは自分のよく知るミリアの姿でもあった。「……お前は、勉強が好きなのか。」
「嫌いじゃあないよ。それにJ高校は先生に進められたんだ。黒崎君にとても合ってると思うからって。成績もこのままいけば十分に合格できる力があるし、あそこは進学校だけれど自由な校風だから、ギタリストとしての活動も勉強と両立していけるんじゃないかって。だって、制服もないんだよ。校則がおっかしいの。下駄で登校してはいけません、教室から出前を取ってはいけません、そんなのばっかり!」リュウはそう言って噴き出した。「それに、T大には、……さすがに行けないかもしれないけれど、そういう所を目指す子たちと一緒に勉強出来たら、自分の可能性も広がっていくんじゃないかって思うんだよ。だって勉強ってさ、全部ギタリストとしての活動に繋がっていくって思わない? 英語だって、リョウみたいに将来外国のメンバーとバンドやることになった時に絶対必要だし、地理だって、将来どういう所でライブやるかっていう風に考えられるし、国語だって歌詞に生かせるし。……だから勉強って絶対必要になると思うんだよ。」
リョウは暫く唖然としながら聞いていたが、ふと思い立ったようにそのまま後方に歩き退り、そっとドアを開け慌てて階下に降りた。
「え、リョウ?」
「ミリア、ミリア。」リョウは台所で洗い物をしているミリアに迫った。
「どしたの。」
「あいつ、……一体どうしたんだ。」
「どうかした?」
「頭、いいんか。」
ミリアはにっこり微笑み「そうなの。」と言った。「いーっつもテスト一番だもの。こないだ先生と面談した時も、いーっぱい褒められた。とーっても頭がいいんだわ。」
リョウはごくりと生唾を呑み込み、「……何で?」と問うた。
ミリアは眉間にしわを寄せる。「何で、って……。」
「俺とお前の子供でなんで頭が良いわけ、あんだよ。」
「え……。」と言ってミリアはふと考え込む。「……もしかして、リョウはミリアの浮気を疑ってんの?」
「まさか。」リョウは顔を顰める。
「だって、そうだ! バカなリョウとバカなミリアの間にはバカしか生まれないはずだのに、リュウちゃんが賢いからって、そうだ! 浮気したと思ってるんだ! 酷い!」
話が妙な所へ及んでしまった。「い、いや、そんなつもりじゃあ。」
「酷いー!」ミリアは泡だらけのスポンジを放り出して、わあわあ泣き喚く。
「あんなにリョウにそっくりなのに! 笑った顔なんて特に! 優しいし、ギターだって上手だし、作曲だってできるし! 違うのは髪型だけ! でも髪型だって校則があるから真っ赤にしちゃあダメなだけで、染めれば赤くなるんだもん!」
「い、いや、わかってるって。リュウは完全完璧俺の子だって。」
そこに異変を察知したリュウが不審げに顔を覗かせた。
「リョウ、ミリアに何言ったんだよ。」押し殺したような声は明らかに、リョウに対する憤怒を秘めている。
「いやあ、何でもないよ、ただの意見の食い違いで、まあ夫婦にはよくありがちな……。」
「リュウちゃん、リョウってば酷いの! リュウちゃんがリョウやミリアと違って頭いいから、浮気したんだろうって言うの! こんなにリョウにそっくりなのに!」
「いや、んなこと言ってねえ……。」
恐る恐る振り向いて目に入ったリュウの顔は、明らかに強張っていた。リョウは息を呑む。――浮気の疑惑再熱、である。
リュウはリョウがツアー中に浮気をしていないか常に懸念しており、ネットでよく浮気をする人の特徴とやらを調べていた。その一つに――「浮気をする人間は相手の浮気を疑う」という項目があった。
「ミリアは、ミリアは……、リョウの帰りを毎日毎日待ってるのに! 浮気なんかする筈ないだろう! 何言ってんだよ!」リュウはそう叫んで地団太を踏んだ。「それに、それに、シュンさんもアキさんも、それからその他リョウの知り合いはみんなみんな僕を見てリョウそっくりだって言うのに! 目も鼻も! 口も! プレイも!」
「否、だから浮気だなんて言ってねえって……。何で帰って来たそうそうこんなことに……。」
ミリアは泣く。リュウは怒る。リョウは途方に暮れる。
その時インターフォンの音が鳴った。リョウは僥倖とばかりに、そそくさと玄関へと逃げ去った。