落涙
ずらりと並んだ看護師たちに見送られ、いよいよ退院の日となった。災害の報道によってにわか国民的有名人と化したリョウは、花束なんぞを手に、看護師、患者に延々頭を下げ礼を述べながら、病院に横付けされたタクシーに車いすのまま乗り込んだ。新幹線で帰ると言っているのに、ミリアが車いすでも利用できる介護用タクシーを勝手に頼み、このまま東京まで戻るのだというのでリョウは瞠目すると同時に、うっかり一体幾らかかるのだと問うて、ミリアの逆鱗に触れることとなった。
「そんなのったらねえ! そんなのったら、ないのよう! ミリアは、リュウちゃんとここまで、リョウがどうなってんのかもわかんないで、もし、もし、万が一のことがあったらって心細くって、泣きべそ止めるのに必死な気持ちで来たんだから! そんで無事にリョウが見つかって、そんで脚いっぽん折れただけで済んで、……だのにお金がいくらだなんて、そんなのどうでもいいのよう!」
「車いすでこんな長い真っ赤な髪していたら、新幹線で取り囲まれちゃうよ。だってリョウは今や超、有名人なんだからね。」
そうリュウにまで進言されては、リョウはもう口を挟む余裕などない。しぶしぶ車いすごとタクシーの後部座席に乗り、思いのほか乗り心地の良いのに鼻を鳴らした。
「ね、なかなかいいでしょ。途中美味しいものでも食べて帰ろう。」リュウに案じられ、リョウは照れ笑いを浮かべる。
「お世話になりました。東京戻ったらちゃーんと、リハビリ通わせます。はい、ちゃーんと歩けるようになるまで。はい、大丈夫です。妻ですから。」ミリアは看護師たちに向かいはきはきと答える。リョウも窓越しに頭を下げた。
--妻。リュウはその言葉に思わず破顔する。そうだ、ミリアはリョウの妻なのだ。
ミリアは嬉し気に助手席に乗り込み、「じゃあ、出発して下さい。」と運転士に告げた。
空は晴れていて、全く台風の被害なぞ感じさせない、平穏な日常と言える街の風景が広がっていた。
「……信じらんねえな。ほんの一週間前に、ここいらをど偉ぇ台風が過ぎてったなんて。」リョウはぼそりと呟く。
「ちょっと行った所だってよ。土砂崩れが起きて、何軒も潰されちゃったのは。」
リョウは目を細めて遠くの一点を見詰めていた。
「……あいつらが、頑張って手伝ってくれたんだよな。」
リュウは微笑んで、「リョウのファンは熱いよね。リョウが意識不明だって言ったら、必死んなって地元の人たちの所行って、力仕事買って出てさ、そうすればリョウの意識がきっと戻るって、そう、信じて……。」
リュウはそこまで言って、声を詰まらせた。家族でもない、恋人でもない。でもそれ以上の絆がファンとの間に構築されているのが、信じがたい奇跡のように思われて。しかもそれを自分の父親であるリョウが持っていることに、羨望とも尊崇とも言えぬ思いを抱いた。
「音楽っつうのは、自己満足じゃねえんだよなあ。否、最初は正直そうだったけど、こっちが曲作って、ライブやって、真剣に音楽と自分とあいつらに向き合ってりゃあ、あいつらがそれを何倍にもして返してくれる。ありがてえ話だ。」
「音楽って、いい仕事だね。」
「……だな。」リョウは素直に頷く。「とっとと脚治して早くライブやりてえなあ。そしたらミリアと同じステージに立つんだ。Last Rebellionの復活を願ってくれてる奴らを目の前にしてな。エキサイティングだろ。」
「リョウは、幸せ者だね。」
「ああ。」リョウはリュウの肩を抱き、「お前もミリアもいてくれるしな。」と言って車いすの揺れる程に揺さ振った。
「うわあ!」
「何やってんのよう! じっとしていなきゃ、危ないでしょうよう!」ミリアが振り向きつつ怒鳴る。しかしそこにリョウがリュウを無理やりに抱き締めているのを見ると、「んもう!」と苦笑を漏らすのであった。
東京に戻ってからは、リョウはリハビリに、リュウは塾通いに精を出し、ミリアはそのサポートに忙しくしていた。
リョウの努力の甲斐もあり、リハビリは順調に進んだ。数日で車いすから松葉杖になり、それからミリアに叱られながらもすぐに片足で家中を飛び回るようになり、その間もちろんギターは欠かさず弾いていた。早速Last Rebellionにミリアが復帰する数か月後のライブの予定を入れ、その選曲を行ったり、その際に新曲が欲しいなと作曲を行ったり、もはや被災者として重体に陥った頃の面影は一切、ない。
リュウも二学期からは毎日のように塾通いを再開し、数か月も経つと志望校への太鼓判を貰い、いよいよ受験に突入する頃合いとなった。
ある夕飯の席で、リョウは問うた。
「リュウ、体調はいいんか。」リョウはまだ生々しい傷跡こそ残れど、既に脚をほぼ完治させ、復活ライブで披露する作曲に勤しんでいた。
「いいよ。」リュウは平然と答える。「十二時には寝るようにして。朝五時から勉強してるんだ。」
「……大したもんだな。」信じられないとばかりに目を丸くする。
「リョウだって曲作るとなると徹夜することだって、あるじゃん。」
「……まあ、なあ。」リョウは作曲と勉強は果たして同レベルなのかと訝りながら、ミリアの拵えたコンソメスープを啜る。
「風邪なんて引いちゃったら大変だから、無理はしないようにね。」ミリアが笑顔でリュウの頭を撫でる。
「無理はしないよ。だから徹夜なんかはしないし、それにこうやっていつもミリアが栄養たっぷりのご飯を作ってくれるしね。」
ふふ、とミリアは微笑む。
「だよな。ミリアの飯はマジで最高だよなあ。海外ツアーなんざ出ると、ミリアの飯が食いたさすぎて、夢に出てくることあるもんな。夢ん中で旨い旨いって食ってんの。朝起きて夢だったんかと思うと、無駄に喪失感が半端ねえ。」リョウは悔し気に唇を歪めた。
「変なの。」くすくすと笑いながらミリアはリョウの肩を打つ。
リュウはちら、と台所のカレンダーを眺める。丸もバツも付いていないカレンダーが、黒崎家に平穏な日常が齎されていることを物語っている。
「でも今度は、ミリアが一緒に行くんだから、ホテルで作って貰えるね。」
「でも、ギタリストとして行くんだからな。俺の世話を焼くためじゃねえし。」
「ちょこっとぐらいなら作ってあげるわよう。」
三人は笑みを交わし合う。リュウは不意に涙が出そうになる。こういう日常をずっと思い描いていたということに気付いて。溢れそうになる涙に危惧し、慌ててリュウは、「食べ終わったから、勉強しないと。」と弁明のように言って、食器をキッチンに運んだ。「来週はまた模擬試験があるから、頑張らないと。」そうひとりごちると、慌てて二階へと上がった。きっとこれからは夫婦の温かな団欒が行われるのだ。その安堵感がリュウの目から遂に一筋の涙を落とさせた。