志学
「おいおい、この前の模擬試験の結果、もう廊下に貼り出されてるって!」昇降口で会ったクラスメイトがリュウを見つけ、そう叫ぶように言うと、あっという間に廊下を駆けていく。昇降口にいた何人かの生徒も、「え、もう?」などと言いながら驚いた顔をして駆け出していった。
「おい、見に行こうぜ。」加藤が上履きに履き替えているリュウの掛けかばんを引っ張るようにして、急がせた。
廊下の向こうでは人だかりができていて、テスト明けの朝に相応しく騒がしい。
「リュウ、お前また一番だぞ!」いち早く人込みを抜け出してきたクラスメイトの大佛が、そう言って片目を閉じてリュウの目の前に人差し指を突き出した。
「またか。」加藤は目を丸くする。「ねえ、俺は?」
「ええ? 覚えてねえよ。覚えてねえぐらいの、順番だろどうせ。」身も蓋も無い事を言う。
加藤は悔し気に唇を歪め、リュウを見た。「お前いつ勉強やってんの? だってまいんちギターばっか弾いてんだろ? 塾も行ってねえし。あ、まさか三枝に教えて貰ってんの? お前ら毎朝一緒に登校してんもんな、怪しいよな!」
「三枝よりリュウの方が頭いいだろ。」大佛が呆れたように言った。
加藤は肩を窄め、「あーあ。お前はいいよな。勉強もギターも、女受けも完璧で。俺にはその一つもねえよ。あーあ。」と言ってとぼとぼと教室へと向かって行った。
「おい、リュウ気にすんなよ。あいつ最近バスケ部のレギュラー外されて落ち込んでんだ。」大佛はそう小声で囁くと、リュウを引っ張って教室へと戻っていく。「でもさ、お前勉強はできるかもしんないけど、将来はギタリストになるんじゃねえの? 音大とか、そういうの目指してるんじゃねえの?」
リュウは目を瞬かせる。「……音大なんて、考えてないよ。」
「マジで?」大佛は目を丸くする。「だって、小学生の頃お前テレビとか出て、大人気だったじゃん。天才ギタリストって騒がれてさ。……たしか、あの時何だか有名なバンドとも一緒にライブやっただろ?」
「あれは、祖父のコネだよ。ミリ……、母方の祖父のね。祖父もギタリストだったんだ。」リュウには幼い頃から憧れていたバンドがあった。それは自分の祖父と共に活動していたジャズバンドであって、一度ライブを観に行ってみたいと思っていたのである。それをミリアがバンドサイドに伝えると、リュウの実力を知っていたバンドメンバーはそういうことならばライブに来るだけではなく一緒に共演しようと言ってくれ、リュウは思いがけなく憧れのバンドと共演を果たすこととなったのであった。大佛はそのことを言っているのだ。
「マジか。……でも、お父さん、ギタリストになれとか言わないの?」
「全然言わない。」
「へえ、意外だな……。赤澤んちは、親父が工務店だから今から手伝いやって、高校出たら継げって言われてるって話だけどな。んなのだせえからやってらんねえって、赤澤の奴、それ以来親父と口利いてねえらしいが。……ま、家によって色々あるんだな。」
「ギタリストは家業じゃないし。継ぐようなモンじゃあないから。俺だってただ、ギターが身近にあったから弾き始めただけだし。」たしかに、きっかけはそれであったのかもしれない。物心つく前から、自分の身近にはいつもギターがあった。しかし、そんな環境と惰性だけで現在までギターを続けているのかというと、それは違うとはっきりと思う。きっと親がギタリストでなくとも、自分はギターに巡り合っていたのではないか、リュウはそんな気がした。ただ、音楽に対する情熱めいたものを学校で口にするのは、正直なんだか照れ臭かった。
「じゃあ、あれか。」大佛は晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。「ギターの才能があっても、俺らと一緒で勉強するしかねえのか。」
「そうだよ。だから今日は英語の小テスト。明日は、地理の小テスト。そうやって毎日こなしていくんだよ。そして二月になれば晴れて高校受験。」
うわあああ、と大佛は顔を歪めて「……厭なの、思い出しちったじゃねえか!」と叫んだ。
「なんだよ、受験は高校生になるために、しょうがないだろ。」
「受験じゃねえよー! 今日英語の小テスト落ちたら、……来週一週間居残りって言われてんだよ。そんだけ部活にも顔出せなかったら加藤と同じ……、レギュラー落ちだよ!」大佛はバレーボール部の副部長をしているのである。
「頑張れよ。」リュウは苦笑を浮かべ、そう言い放つと廊下を教室に向って急いだ。
「後輩に、後輩にレギュラー取られるのだけはイヤなんだよ! 副部長としてさ!」などという悲痛な叫びをを背中に聞きながら。
リュウにとって授業は決して退屈なそれではなかった。音楽で表現すると決めている、自分の世界が拡大するように感じるから。地理を学べば将来ここでライブをすることになったらどんな人々と巡り合うのだろうと期待に胸が膨らむし、英語を学べば外国人とバンドを組んだ時にどんな風にコミュニケーションを取ろうかとやはり、心躍る。数学は楽譜の基礎であるし、国語で文学に触れれば人の胸を打つ歌詞を自分も書けるようにしたいと、そう思わされる。
全てはミュージシャンとして大成したいという夢があるからこそ、どんなことであってもそこに繋がっていくのだ。皆も夢を持てばいいのに、とリュウは密かに思う。そうすれば勉強だって何だってそれに結びついていくのだから、何をやったって、楽しい。眠たくなるような声で授業をする先生からだって、学べることは幾らだってある。だから決して退屈なそれにはならない。しかしやはり、それは恵まれているからこそ言えるのかもしれないともリュウは思う。自分は早々に、夢を持つことができた。それは親がギタリストであるばかりか、家にはスタジオがあり、始終プロのミュージシャンが出入りしているからこそ齎された僥倖なのである。
デビューアルバムを作った時に、インタビューで散々訊かれたが、自分が初めてギターを弾いた時ことのことなぞ、全く覚えてはいない。這うこともできないぐらい幼い頃から、リョウの膝の上に座ってギターを触っている写真が幾つも残っている。
ミリアは、いつだったかリュウの幼少時の写真帳を開きながら、こんなことを言っていた。
「見てみて。リュウちゃんこんな小さいのに、うちにあるあのレスポール握りしめてる。」
「おもちゃだとでも思ってたのかな。」全く記憶にない自分自身の姿。リュウは照れくさうて敵わない。
「おもちゃじゃないわよう。だって、あなたはリョウのギターを聴くと、どんなに泣きべそを掻いていてもすぐに笑顔になったのよ。だから本当に手のかからない、とってもよい子だったの。ただ、リョウは夜泣きのたんびにギターを弾かなきゃいけなかったから、とっても大変だったんだれど。」くすくすと笑った。
「……そう、なの?」リュウは顔をさっと赤らめる。自分に関する自分の知らないことを人から指摘されるのは恥ずかしい。
「そうよ。『ギターが好き』、なんてお話できるようになるずっとずっと前から、リュウちゃんは全身でギターが好きって言ってたのよう。さすがリョウの子。」
「……そう、なんだ。」母親の言葉に、否定なぞできる訳がない。
「だからもう、赤ちゃんの時からこの子はギタリストになるんだろうなって、思ってた。」
「へえ。」暫く考え、「リョウも……?」
「ううーん。」ミリアは少し考えながら、「きっとそうじゃない? リョウはリュウちゃんがやりたいことをやってほしいって言ってたけれど、でも、それがきっと自分とおんなじギタリストだったら、一等嬉しいんじゃないかな。」そう言ってミリアは遠い目をした。「だって、どうしたってリョウはギターが一等大好きなんだもの。ギターがあったから、社会と繋がれたんだもの……。」
「僕も、ギターが好きだよ。」遠くへ行ってしまいそうなミリアを見て、リュウは思わずそう強く言った。ミリアはくすくすと笑い出し、「そんなの、赤ちゃんの頃から知ってるわよう。」と言った。
リュウは自分の身体を巡っているこの血がもう既に、ギターを、それもリョウのギターを愛しているのかもしれないと思った。でも、それを言うのはさすがに気恥しかった。特に、リョウ本人に対しては。