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BLOOD STAIN CHILD Ⅵ  作者: maria
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祈念

 「そろそろです。」いつの間にか電話は終わっていた。「あそこに見える、総合病院です。」リュウはその大きな堅牢そうな病院を見て、再びリョウを助けて下さいと祈った。

 「着いたらすぐに、手術室に向かいましょう。」

 「え、手術?」

 恒田は聞いていなかったのかと訝った。

 「リョウさんは脱水症状と低体温症に加え、脚に外傷があるので、早急な手術が必要なんです。」

 「脚。……良かった。」

 「え。」恒田は目を丸くしてルームミラー越しにリュウを見た。

 「腕じゃなくて、良かった。」

 「ええ。ええ。」恒田は何度も肯いた。

 病院の駐車場に車を停めると、二人は足早に救急外来の入口を通り、用件を手早く告げるとそのままエレベーターで五階へと上がった。ナースステーションでは既に話がついていたのか、恒田が名を告げるなりすぐに手術室前までの扉を開けてくれた。

 するとそこにはミリアがいて、看護師の前で何やら書類を記入している最中だった。

 「ミリア。」リュウがそう呼びかけると、ミリアはボールペンを握ったまま強張った顔を上げた。

 「リュウちゃん。……リョウが手術なの。手術。黴菌が入ってしまったら大変だから、手術するの。」明らかに焦燥していた。その様子を見て、リュウははたと自分が支えなければならないと気持ちを新たにする。

 「うん、聞いたよ。でも大丈夫、脚だろ? 腕じゃない。それってリョウが元気になってまたギター弾くってことだよ。」

 ミリアは唇を震わせて、肯いた。そして再び書類に目を落として、考え、考え、何やら書き始めた。

 不意にリュウがそこを覗き込むと、そこには「手術同意書」とあり、「患者氏名 黒崎亮司 代諾者署名 黒崎ミリア」と、若干震えた字で記載されていた。その隣にリュウは瞠目した。「続柄 妻」と一度記した後、それを消すように傍線が引かれ「妹」と記載がされていたのである。リュウは思わずミリアを見詰めた。ミリアは少々決まり悪そうにも見える素振りでそこに立ち竦んだ。

 するとそこに再び扉が開いた。

 一見面倒臭そうにも見える素振りで早足に入って来たのは、アキであった。

 「アキ、さん。」

 普段はいつもきちんとした身なりをしているのに、見たことのないぐらいにシャツとジーンズはくたびれて、そして所々泥に汚れていた。彼が何をしていたのだかは、一目瞭然であった。

 「アキ、さん。」リュウは泣き出しそうになるのを必死にとどめた。

 「手術始まったのか。」

 アキはミリアの元に歩み寄ると、書きさしの手術同意書を覗き込み、「ミリア、ここ、今日の日付書いて。平成×年×月×日。」と指摘する。

 ミリアは、ああ、と慌てて書き始める。

 「それから、ここもな。『同意します』に丸。」

 ミリアはいそいそとボールペンを動かす。

 「じゃあ、これで。」アキが完成した同意書をさっと看護師に差し出した。

 「お預かりします。それではこちらでお待ち下さい。」手術室の前のソファに案内された。

 四人は無言裡に手術中のランプが点いたのをじっと眺めていた。

 

 手術室の前は酷く静かだった。時折遠く、ナースステーションで看護師が医療器具を準備する音と、手短な会話を交わす以外には、ほとんど音というものは存在していなかった。それはあたかも異世界に迷い込んでしまったような錯覚さえ覚えさせた。ただでさえ、リュウの脳裏にはリョウの意識のないままに救急車の寝台に寝かされていたあの姿と、今しがたミリアが書いた「妹」という字がめまぐるしく交錯していたのである。

 ――リョウさえ助かれば。どんな根拠のない奇跡でもいい。リョウさえいてくれれば他には何もいらない。ギターも、家も、学校に通えなくなったって構わない。だからリョウを助けて下さい。だって、リョウがいなくなったら、ミリアはどうなってしまうだろう。隣で震え、絶望に耐えているミリアは……。想像さえできない。だってミリアはリョウのことを世界一愛しているのだ。リョウが両手を広げて帰ってくる日をカレンダーに一日一日バツを付けて、それはそれは楽しみにしているのだ。たとえミリアがリョウの妹だとしても……、とすればリョウは兄ということになる。どうして? どうして夫婦ではないの? 何かの間違えか? でも今回は区役所の人ではない。ミリアは自分自身で一旦自ら書いた「妻」の字を消しているのだ。それは誤りだから、訂正したのだ。だとすれば区役所の書類は、正しかったのか? たしかに兄妹であれば結婚はできない。そんなことは、禁忌だ。自分は、禁忌の子なのだろうか。生まれてくるべき子どもではなかった、ということなのだろうか。

 その時、恒田の携帯が震えた。恒田は慌てて周囲を見回し、小声で通話に応じた。

 「……もしもし。」

 静まり返ったここでは、はっきりとその通話相手の声も聞こえた。榊田だった。

 「今、広島駅に着いた。これから病院へ向かう。手術はどうだ。もう始まったのか。」

 「ええ。つい……、十五分ほど前に。」壁の時計を見上げ、答える。

 「そうか。ミリアとリュウは、そこにいるのか。」

 「ええ。」

 「リョウの状態は。」

 「脚の怪我は命に係わるものではないとのことです。ただ感染症に罹患しないよう、手術を早急にする必要があったと。」

 「じゃあ、……低体温症と脱水症状か。危険なのは。」

 「……おそらく。」

 ミリアはその会話を聞きながら、次第に背を丸めていった。

 「わかった。とにかくリョウを信じよう。……ミリアに代わってくれるか。」

 恒田は遠慮がちに「ミリアさん」と小声で言って、電話をミリアに差し出した。

 ミリアはうつろな目でそれを受け取った。「……もしもし。」

 「ミリアか。榊田だ。……あと三十分程でそちらに着く。大丈夫だ。リョウは癌だって乗り越えたんだ。強い男だ。リョウの力を信じよう。」

 「……顔が、白くて……。唇も……。」ミリアは消え入るような声でそう呟き、ひい、と切り裂くような泣き声を上げた。慌ててリュウはミリアを抱き締め、背を撫でる。

 「ミリア。泣くな。妻であるお前がリョウを信じられなくてどうする。あのな、リョウたちが行方不明になったあの川沿いで、今何が起きているか知っているか。リョウのファンたちが昨夜一晩中リョウの捜索に加わってくれ、そして今日、リョウが見つかってからは近隣のボランティアを買って出ているんだそうだ。一人二人じゃあない。バンドのTシャツを着た男たちが、二、三十人も必死になって泥の掻き出しやら、家具の搬送やら、力仕事をしながら、自分たちは何もできないけれど、こうして人の役に立つことをやればリョウが意識を取り戻すはずだってな、リョウの無事を祈って必死になって働いてくれているんだぞ。」

 ミリアの悲鳴にも似た泣き声が大きくなる。

 「だから、大丈夫だ。リョウは一人で戦ってるんじゃあない。愛する妻も、息子も、それからファンもそれから会社のみんなだって、必死になってリョウの回復を祈っている。そういう人の思いを蔑ろにできる奴じゃないぞ、リョウという人間は。それはお前が一番よく知っているはずじゃあないか。」

 ミリアは返事をする代わりに泣き続けた。

 「大丈夫だ、ミリア。リョウを信じよう。」

 「うん。……うん。」ミリアはどうにかそう答えると電話を恒田に渡し、再び俯いてしゃくり上げ続けた。

 「あ、」とアキが携帯を取り出して言った。「シュンが来るみてえだ。ちっと下まで迎え行ってくる。」ちら、とリュウを見、「リュウも来てくれねえか。」と言った。

 「え。」リュウはこのままミリアの傍についていたかった。泣き止まぬミリアを一人にしてはおけなかった。

 「否、ほら、だって、飯も食ってねえだろ。」

 「え。」

 「売店もついでに行くからさ、昼飯買い出し付き合えよ。と言っても握り飯ぐれえしかねえだろうけど。とりあえず飯はちゃんと食わねえと。」

 しかし誰も空腹感など覚えてはいぬのである。

 「リュウ、付き合ってくれ。」困惑するリュウに今度ははっきりとアキは告げた。

 「え、でも。」

 アキはリュウの腕を摑むと無理矢理立たせ、さっさと歩き出した。

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