発見
車は道路脇から伸びた草葉を盛んに擦りながら、ぬかるみの道をどんどん進んで行った。
「あ。」運転手がふと上げた声に、後部座席の二人は頭を上げた。「通行止めだ。……ここからは歩いていくしかない……。」
「ミリア、行こう。」
リュウが促すと、ミリアは赤い目を擦り、それでも力強く肯いた。いよいよリョウに会えるという期待が、ミリアに力を振り絞らせたのである。
邪魔にならぬよう、草の茂った道路脇に停車した車から降りると、そこは先程よりも強い腐臭が漂っていた。泥も随分深く、注意深く見なければ道路だか側溝だかもわからない。
ミリアとリュウは手早く持ってきた長靴に履き替えると、ぬかるむ道を手を取り合って歩き出した。
「こちらです。」
リュウは時折つんのめるようになるミリアの手を取って、言葉少なに川沿いの道を進んだ。家の中の泥の掻きだしをする人、庭に流れ着いた粗大ごみを撤去する人、通りがかる家々では誰もが必死に働いていた。
「あの、土砂崩れがあった所は?」
恒田が、庭先で巨大な流木を片付けようとしていた婦人に尋ねると、
「向こう三軒先の山だよ。」汗みずくになった中年女が、腰のタオルで汗を拭きながら答える。屋根にはブルーシートが被せられ、庭に停められた車三台はいずれも泥に塗れていた。
「流された車が見つかったみたいだね。」
ミリアはその残忍な言葉から逃れるように、懸命に早足になって歩き出す。やがてパトカーと救急車とが数台、そして警察官と一般人の人だかりが見えてきた。その奥には車のドアだけがひしゃげた形で転がっていた。それに気づくや否や、ミリアは血相を変えて走り出した。「リョウ!」
恒田も、人込みを掻き分けて走るミリアに続いた。
しかし、立ち入り禁止のテープを張っていた警官に慌てて制される。
「車に乗っていた方の御家族です!」恒田が後方から叫んだ。
警察官は無表情で「それならば救急車に、」と、後方に控えた救急車を指さした。ミリアは今度は救急車に向かって、足を泥に取られ、取られしながら必死になって走った。
「待って! リョウ!」
救急車は四台停まっていた。ミリアは他には目もくれず、その中の一台に問答無用で乗り込んだ。真っ先に目に飛び込んだのは寝台に眠る赤い髪である。その顔には、マスクが付けられ、そして別人かと思われる程に蒼白かった。
「リョウ!」ミリアは泣き叫んだ。
怪訝そうに救急隊員はミリアを睨む。「ご家族の方ですか。」
「リョウ!」リョウに縋りつく。
「その人の妻です! 僕は息子!」ようやく追いついたリュウがそう叫ぶ。
「今から病院に向かいます。お一人のみ乗車して同行頂けますか。」
「リョウは? リョウは無事なの?」リュウは慌てて叫んだ。
「ええ。しかし、一刻を争う事態です。低体温と脱水症状が深刻です。」
「ミリアが行って! 僕は後から向かうから!」
ミリアはリョウの手を取り、そこに自らの頬を擦りつけた。リュウは肩を激しく上下させながらなって、救急車から落ちるように離れた。と同時に、救急車はけたたましいサイレンの音を鳴らしながら発車した。リュウはふらふらとその場に座り込んだ。
「リョウだ。リョウがいた。」その言葉はあまりに無意味であったけれども、そう言わずにはいられなかった。
「リュウさん、J総合病院だとのことですから、車に戻って、急いで追いかけましょう。」恒田に言われ、リュウはどうにか震える脚で立ち上がると、再び車へと走り出した。
「リョウだ。リョウがいた。」リュウは助手席に放り込まれるようにして乗り込むと、頭を抱えて蹲った。
リュウの脳裏には、救急車の中に横たわる赤い髪が鮮烈に焼き付いていた。その姿は想像だにしていないものであった。否、想像しておかなければならないものであったのだ。川に流され、車ごと行方不明になったのであるから。そのぐらいのことは。でもそんなことはとてもできなかった。リョウはいつも元気で、笑っていて、それでいて世界一のギターヒーローであった。誰よりも強く、完璧で、凄い人間なのだ。だのに、あんな……。顔は見えなかったけれど、見なくて良かったような気さえする。救急隊員が血に染まったガーゼを手にしていた。おそらくは怪我もしているのだ。そして意識もない――。リョウの意識は戻ることがあるのだろうか。万が一にも戻らなかったら……?
リュウは呻くように泣いた。
--でも生きていた。生きていて、くれた。一晩中リョウは破壊された車の中で一体何を思っていたのだろうか。否、何も思わなくていい。ただ幸せな夢を見ていてくれさえすれば。ミリアの笑顔に満ちた――。
恒田は運転をしながら、ハンズフリーにした携帯電話で(それはリュウにも聞こえるようにするためであろうか)警察と連絡を取っていた。
「……流された後、すぐに山にぶつかったようです。」
「先程の場所にですね。」
「ええ、流されたと通報があった箇所から、直進距離にしては実はわずか三百メートル足らずですからね。もしこれで下流域、……一キロ先は海ですから、そちらの方まで流れてしまえば、おそらくは発見は難しかったでしょう。」
リュウはぎくりとして頭を上げた。
「でもどうしてあんな所に追突したんでしょう。」
「川はこの辺りで大きく蛇行していますから。水嵩も当時かなり高くなっていたので、そのまま川の形状には添わず、いわば、こう、川の上を直進する形で車だけが山に突っ込む形になったのでしょう。」
「ぶつかった時の衝撃は、かなり大きかったのでしょうか。」
「正直、我々が想定していたほどではありません。川沿いにはかなり草木が生い茂っていますから、それらが突っかかり、突っかかりして、車のスピードを緩めてくれたんだと思います。もし、それがなければトラックと正面衝突するよりも衝撃は大きくなります。川の流れといっても、馬鹿にはできませんからね。日常の姿とは全く違います。しかも、こう、山肌にはどういうわけか車が途中で回転したか何かで、後部座席から突っ込んだ形になっていたんです。それで、後部座席には緩衝材のようなものをたくさん積んでいましたか?」
「緩衝材! ……その、バンドのツアーで使っている車ですから、その、楽器をたくさん積んでおりまして、それらが万が一の事故で傷付かないよう、そう、しておりました。」
「そのお蔭ですね。まあ、それも前方から突っ込んでしまえば無駄だった訳ですけれど、後部座席から、でしたから。それで大分外傷は皆さん少なく済んだようです。」
「リョウの怪我は?」リュウは携帯に向かって怒鳴った。
「救急隊員の話によりますと、脚が骨折しているのと、それから額に傷があると。でも、まあそれはそんなに深刻なものではありません。」
「深刻、じゃない……。」
リュウはそう茫然と繰り返し、警察官の言葉に特別の配慮がないことを祈った。ただ全てが事実であるように。そしてどうかリョウが助かるように。ミリアが悲しまないように。
これは現実なのだろうか。否、悪い夢ではないのだろうか。だとすれば早く目覚めて、普段のミリアとリョウに会いたい。「なんだ、悪い夢でも見たんか。」そうリビングのソファにふんぞり返って笑っているリョウと、「リュウちゃん、朝ごはんよ。」と美味しい食事を笑顔で出してくれるミリアに。リュウは再び頭を抱えて蹲った。