到着
広島に到着すると、空はすっかり嘘のように晴れ渡っていた。折れた街路樹が数本目に付いたものの、街は、ニュースで見たような被害を受けたようにはとても見えなかった。ミリアとリュウが駅前に降り立つと、黒の乗用車から一人の精悍そうな顔つきをした若い男が、降りてきた。
「黒崎さんの奥様とご子息ですね。」
茫然自失のミリアの隣でリュウが小さく会釈をする。
「初めまして。私、今回のツアーのコーディネーターをしておりまして、榊田社長からお迎えを申し付けられ、参りました恒田と申します。今から現地へお連れ致します。」
--現地。その言葉がリュウの胸を突いた。リョウがいなくなった場所、川に流された場所、それが現地なのだ。
「よろしくお願いします。」ミリアは小さく呟くように言った。
恒田は小さく頭を下げると、後部座席のドアを開け、ミリアを丁寧に乗車させた。リュウもその隣に乗ると、小さく震えたミリアの手を握り締めた。
車は無言で出立した。車窓は雨上がり、といった様相の街中を走り出す。こんな穏やかな街であるのに、ニュースで報じられるように、何人もの命が奪われたとは到底信じ難かった。
「今日は朝五時前から既に捜索が進められています。警察の方、自衛隊の方、地元の方、それに加えてファンの方たちでしょうか。若い男性も揃いのロックTシャツで捜索に大勢加わってらっしゃいました。」
ミリアは固く目を閉じる。
「あの、……」リュウは意を決して言葉を発した。「リョウは、昨夜、どういう状況だったんですか。」
「ライブを終えた後、メンバー全員で一旦ホテルに戻りまして、私はその運転をしておりました。その後、リョウさんが運転される形でメンバーをお連れし、地元の料理屋に向かわれることになったんです……。そしてその時に……。」
恒田はそこで言葉を不意に止めた。リュウが不思議そうにルームミラーを見ると、恒田の唇はきつく結ばれたまま白く震えていた。
「……リョウさんが、『恒田さんはツアー中ずっと運転をしてきて疲れているだろうから、ホテルで休んでいてくれよ』と、そう仰って下さいました。そして、『美味しいもの買ってくるから。待っててくれよ』と。」
そこで再び明らかに言葉は詰まった。もうリュウは恒田の顔を見ることはできなかった。
「……済みません。リョウさんたちは、打ち上げというよりは、私を労うために……、私に美味しいものを食べさせようとして、それで、ホテルの方から聞いた、地元では有名な牡蠣を食べさせるお店へと行かれたんです。打ち上げでしたらお酒も飲むはずだし、そうしたら私を運転手にしたはずですから。」
「違う。」リュウは言下に発した。「恒田さんのせいじゃない。だってリョウはツアーに出ると、必ずうちに美味しいものを送ってくれたんだから。今回だって、……きっと恒田さんもそうかもしれないけど、うちにも、牡蠣を送ってくれようとしたんだ。」
恒田は右手で瞼を擦った。
「私が無理を言ってでも、運転しますと言えばよかったんだ。」
「……そんなこと、言わないで。」ミリアが涙声で言った。「リョウは、絶対大丈夫だから。すぐに、見つかるんだから。」
恒田はそれには答えられずに、再び無言で車をひたすら走らせた。そうしてどのぐらい走ったであろう。ニ十分、三十分程走った気がする。車窓の風景は次第に緑が多く、そして台風の被害の状況を如実に表すそれへと変わっていった。
「あ、あれ。」リュウが思わず指差したのは、崩れた山肌であった。山裾の家々が茶色く染まっているのは、決して元からのそれではない。
「ええ。この辺りは土砂崩れがあり、三軒が流されています。」
リュウとミリアはこぞって息を呑んだ。
「リュウが、……流されたのもこの辺りですか……。」リュウは残酷な、残酷なあまりに胸を裂かれるような言葉を継いだ。
「ここから、……もう少し行った所になります。街はずれのS川の川添いで……、そこをリョウさんたちの車が走っていたと。川沿いの家の方が、川の氾濫を心配して家の中から外をを眺めていた所、突如鉄砲水が走り、あっという間にバンを呑み込んだということなんです。それで、慌てて警察に連絡をしたと……。」
「川は……、よく氾濫するのですか。」
「そこまではわかりません。ただ、……ここはよく台風の通り道になっているようで、土砂崩れなんかは数年に一度大規模なものが起こっているという話です。」
リュウはさすがに言葉もなく、ミリアの手を握りながら涙の零れぬように努めて遠くを見つめていた。
リョウはどこにいるのだろう。自分の運転する車が水に呑まれた時、どれだけ驚き、そして恐ろしい思いをしたであろう。今もどこかで、ミリアと自分のことを思ってくれているのではないか。--涙を零さぬように努めても、思考は著しくそれらを阻害する。リュウは遂に風景の滲み出すのを、そして頬が濡れていくのを止められなくなった。
「そろそろ着きます。」
風景は相変わらず甚大な被害を物語るものであったが、川沿いに、次第にシャベルだのビニール袋だのを持ちながら歩く人々の姿が目立つようになった。ミリアはいつしか窓にじっと手を添えて外を眺め出した。
「こちらの家を拠点にお借りしていますので。」運転手はそう呟くように言うと、とある農家と思しき広大な一軒家の庭に車を停め、後部座席の扉を開けた。
ミリアは一歩外に踏み出し、それから息を呑んだ。明らかな腐臭が、むっとする湿気と共に漂っていた。
「一度この辺りは全て浸水しましたからね。その匂いです。」
コンクリートの道路はほとんどが泥に覆われ、ぬかるむそこを人々が忙しなく行き来している。
「左岸と右岸で手分けしていこう。」
「向こうで長靴が見つかったって。いなくなった人のじゃないと、いいけれど。」
「不明者は誰も長靴は履いていなかったらしいぞ。」
「それよりとにかく車だ。大き目のシルバーのバン。川底に沈んでいる可能性もあるぞ。」
「K町では土砂崩れが起きてる。あの中かもしれない。」
ミリアは聞こえくる言葉に耳を塞ぎ、俯いた。
「ミリアはここで待ってる?」
「その方がいいかもしれませんね。おうちの方に話してきましょう。」
その矢先であった。
「K町だ! K町で車が見つかったらしいぞ!」
びくり、とミリアは肩を震わせて顔を上げた。その時、恒田の携帯が鳴った。
「もしもし。……ああ、そうですか。今ちょうど奥様と息子さんをH宅にお連れした所です。ええ、もちろんです。今から向かいます。」
恒田はミリアとリュウの顔を厳しく見つめ、「リョウさんたちの乗った車が、すぐ近くで見つかったようです。おそらくここから十分もあれば着くと思います。行きましょう。さあ、もう一度車に乗って。」と叱咤するように言った。
「リョウは無事なの?」ミリアの叫びは悲痛な響きを帯びていた。
「……まだ、わかりません。車が土砂に埋もれているようです。とにかく向かいましょう。」
リュウはミリアを急いで乗車させると、車は勢いよく発進した。車はそのままいよいよ不気味に荒れ果てていく道を進んだ。とにかくアスファルトも砂利も、全てが泥塗れである。
「もう少し近道もあるにはあるんですが、そこはまだ浸水していて通行止めになっているんです。ですから一度大通りに出てから、向かいますね。」
ミリアは蹲っていたが隠しようもなく泣いていた。「リョウ、リョウ……。」
リュウもいざ間近に迫って来たリョウとの再会に、頭が混乱するばかりである。
――いよう、こっちまで来てくれたんか、遠かったろ。ミリア、リュウ、疲れてねえか。どっか旨いモン食いにいこう。東京じゃあ食えねえものだかんな。腹いっぱい食えよ。
笑顔でそう捲し立ててくれるはずだという思いと、土砂崩れの中に埋もれた車の中にいるという現実が激しく交錯する。
「大丈夫だ。だってリョウだもの。リョウはいつだって無敵なんだ。そう、リョウが言っていたもの。」リュウは堪らずそう呟く。ミリアはそれを聞いているのだか聞いていないのだか、堪え切れない悲痛な声を漏らし続けた。