思春
「どうしたの、おじいさんみたいな顔をして。」
リュウは驚いて隣を歩いている少女を見た。「おじいさん?」
「だって……。」少女は口籠る。眉根に深い皴を刻み、まるで社会の教科書で見る気難しそうなおじいさんそのものである。
「ちょっと考え事、してただけ。」そう答えてはみたものの、少女の指摘はいつだって正しい。何せ生まれた時からの付き合いなのだから。同い年、家は近所、なんなら母親同士さえ幼馴染。この上なく近しい、他人なのだ。
リュウは目下唯一とも言える苦悩を抱え、それからはほとんど口を利かなかった。幾ら長い付き合いだとはいえ、両親が結婚していないかもしれないなど、とても告白できやしない。
しかし少女はそんなことを全く意に介する素振りは見せなかった。リュウは普段から無口な方であったし、こういう風に誰かと一緒にいても何か考えに耽ってしまう、どころか作曲のメロディが思い浮かんできた、と言って譜面に起こし始めるなどということも珍しくはなかったのである。だから少女がリュウに対して一方的に喋るということは、それこそ幼稚園に通っていた頃からの日常茶飯事だった。
「また昔みたいにリョウさんにギター教えて貰いたいな。よく小っちゃい頃、リュウと一緒にさ、リュウんちのリビングで教えて貰ったよね。あれ楽しかったな。リョウさん、何でも弾いてっていったものその場ですーぐ、弾いてくれてさ。テレビCMのあの曲、アニメの主題歌、とかも。私がリョウさんのギター聴いてきゃあきゃあ言っている内に、リュウはすっかり一曲マスターしちゃってさ。そんなことしてるうちにリュウはあっという間に上達しちゃって。もう全然一緒に教えて貰えなくなっちゃって。あははは、楽しかったな。リュウは今レコーディング、忙しいの?」
「うん、……多分。」リュウは曖昧に答える。
「何、自分のことなのに、わかんないわけ?」少女は笑った。
わかってはいるけれど――。リュウは再び口籠る。念願であったギタリストとしてのデビューアルバムを出して早三年。今や音楽業界に残れるか否かを決すると言われている、二枚目のアルバムを作るために、日々自宅のスタジオを中心にレコーディングに勤しんでいるのである。音楽を作る、という作業は果てしない。終わりなどというものは存在しない。何度繰り返し演奏した所で心から満足のできた例はないのだ。せいぜい、まあ、今の自分の技量ではこの程度だな、と限界を知らされるだけである。レコード会社から指示された締め切りギリギリまで、粘りに粘って、そこでできた最上を提示したのがデビューアルバムであった。それは辛うじて小学生であったからこそ、評価を受けたのだとリュウは思っている。でなければあそこまで注目され、そして販売実績を出すことはできなかったであろう。
「リュウは子どもの頃から、全然違ってたしね。どんな曲だって耳に入ったものはすぐ弾けるようになっちゃって。あの時はリュウはロボットなんだって思ってたけど、ああいうのが天才なんだよね。ピアノ教室通い始めてからも上手に弾ける子はいっぱい見てきたけど、リュウみたいに楽器と一体化してるみたいな人は見たことないもん。リュウは一緒に遊んでても、突然立ち上がってギター持って作曲始めたりして。曲がひらめいたんだ、とか言っちゃって。」どこか誇らしげに少女は言う。
「……親が、ギタリストだからさ。」照れ隠しのために言った。しかしそれはリョウを肯定することになるのだと思い、何だか悔しくなった。
「リョウさんのお蔭ね。ああ、私もリョウさんに会いたくなっちゃった。」そう言い残して少女は甲高く笑うと、人込みの中を身を滑らせるようにして校門の中へと走り去っていく。
――リョウさんのお陰。
その、リョウは一体何者なのだろう。再びリュウは苦悶の沼に沈んでいった。リョウは果たしてミリアの夫なのか、それとも兄なのか。リュウは実際に日常的に目にしているリョウとミリアの愛情と戸籍謄本のいずれを信じるべきなのか引き裂かれるように思った。
その時、突然後ろから肩を叩かれた。振り返るとクラスメイトの加藤が「いよお。」と歯茎を見せて笑った。「今日の英単語テスト、勉強してきたか?」
「まあ、……ちょっとは。」
「何がちょっとは、だよ。どうせお前はまた満点なんだろ、どうせ!」
リュウは苦笑を浮かべた。
ここに一歩足を踏み入れれば自分はただの中学生になる。リョウとミリアの関係についての苦悩もうっすらとベールを被ったようになり、セカンドアルバムのレコーディングのプレッシャーもどこか遠くへ行ってしまう。天才小学生ギタリストなどと騒がれ、鮮烈なデビューを飾ったことなど、みんな忘れている。か、忘れたふりをしている。しかしそれはどうだっていいことだ。ギタリストとしての自分を忘れられることが、そういう時間を持てることが、重要なのだ。リョウとミリアの本当の関係についても。当たり前にお前のお父さん、お前のお母さん、と言ってリョウとミリアを呼んでくれる。誰も本当に夫婦なのか、などと疑いやしない。だから学校はほっと息の吐ける場でもある。つまらないことは何も考えなくていい。ただ、みんなと同じように課せられた英単語テストだの、社会の単元テストだのを行っていればいいのだ。答えの出る努力は簡単だとリュウは思う。わかりやすい。でも音楽は違う。音楽には答えがない。だからゴールはいつだって見えないし、ゴールに向かって全力疾走しているその最中突然暗闇に一人残されてしまうような感覚を覚えることもあるし、ふと思い浮かんだフレーズ一つで、今までやってきた全力での努力が全て水泡に帰してしまうような無力感を覚えることもある。でも、だからといって立ち止まることは許されない。人生が終わるまで。音楽を追求し続けるしかないのだ。それがギタリストの運命なのだ。リョウはどうやってその孤独感に打ち克っているのだろう、今日帰ったら聞いてみようか。しかし、こんな風にリョウを頼りにしているのだから、そしてミリアもリョウを心から愛しているのだから、どうか夫として父として、ずっとずっと自分たちのことを世界で一番大切にしてくれるように。他に家族なんて、絶対にないように。自分たちへの愛情だけでいつも満ち満ちているように。リュウは校門に吸い込まれながら痛切に祈った。