安堵
リュウのライブは、まずシュンとアキがリズム隊を買って出、そうなればリョウもいなければ話にならぬと、ほとんどLast Rebellionの体をなして行われることとなった。しかしそれに対してリュウは喜ぶどころではなく、言うならば至極ナーバスであった。
まず、隣の部屋でリョウが音源をコピーするために自分のCDを聴いているのが、既に極度の緊張を覚えさせる。もちろん自分なりに達成感や満足感を得られる作品ではあった。しかしそれをプロのギタリストであり、三十年以上の音楽歴を誇るリョウはどう思うのだろうか、自分のCDを大したことのない曲だと、つまらない音楽だと、そう思うのではないかとリュウは気が気でなくなる。リュウは隣から漏れ聞こえる自分の音楽に、一応勉強をする体で部屋に引っ込んだものの、何も手に付かなくなった。時折音楽が止められると、ぎくりとする。十中八九それはリョウがコード進行をメモしながら聴いているからに過ぎないのであるが、つまらなくてコピーを放棄しようとしているのではないかと、厭な想像が否応なしに頭を駆け巡るのである。
リュウは遂に部屋にいられなくなった。
慌てて階下に降りリビングに来ると、愛猫の白の爪切りをしていたミリアが、笑顔で「リュウちゃん、お腹減ったの?」などとのんきなことを言う。
「の、喉渇いただけ。」
「あら、そう。」
そう言った手前、リュウは厭でも冷蔵庫に入った麦茶をがぶ飲みするしかない。
その様をミリアが微笑まし気に見ているのだから、つい、「この麦茶旨いね。」などと、どうでもいいことを口走ってしまう。
「何よう、いつもの麦茶だわよう。」
リュウは顔を赤くして、都合よく自分の足元にとてとてと歩いて来た白を抱き上げる。「白、元気か。」
「にゃー。」
「……白は人の言葉がわかるのかな。」
「そうねえ。」ミリアは白の頭を撫でてやる。「もう二十歳だから、わかってるかもしんないわねえ。お返事もちゃんとするし。元々賢い子だし。」
「にゃー。」そうだと言わんばかりに再び白が答える。
「何か作ろうか? お腹減ってない?」麦茶を飲み終えてもなかなか部屋に戻ろうとしないリュウに対し、ミリアはそう気を利かした。
それで部屋に戻らなくて済むのなら、それに越したことはないと、リュウは「お腹、減った。」とつい、答えてしまう。先ほどたらふく夕飯を食べたのに、そんな訳がないと思いつつ。
「じゃあ、……そうねえ。今からパンケーキ焼くわね。今日全粒粉の美味しいやつ買ってきたの。あ、でも、食べ終わったら、ちゃんと歯磨きしてね。」
リュウはやたら生真面目そうに肯く。
リュウはパンケーキを待つべく、そのままソファに座り耳を澄ませると、自分のCDの音が微かに聞こえるのにぎくりと肩を震わせた。リョウがまだ自分の曲のコピーを続けているのだ。この作業は一体いつまで続くのだろう。リョウのことだ。ものの一回も聴けばすぐ弾けるようになるのだから、大した時間はかかるまい。そしてそれが終わった後、どんな顔をして会えばいいのだろう。威張り腐って、どうだ傑作だろう、と顔を合わせられる図太い精神があれば……。しかしそれは自分の性格上ありえないことであったし、そもそもそんなことを言い出すには、あまりにもリョウは偉大に過ぎた。
自分の親が世界を舞台に活躍するギタリストで、ギター教本も出せば専門学校の教壇にも立つ、などということを誇らしく思えるのは、あくまでも自我が形成される前までの話だ。同じ道を歩み始めた自分がリョウにどう対峙すべきなのか、その答えはいつも瞬間瞬間で異なった。
リョウは凄い、とてもではないが一生かかったって追いつかないと思い、泣き付きたくなる時もある。一方でリョウは自分とはジャンルが違うのだ、あれこれ指図されたくない、と全てを拒否してしまいたくなる時もある。精神的には無論後者の方が楽である。リョウのことを考えていると、自分が絶対に追いつくことのない壁、のようなものがイメージされてしまう。だから昨今では、やたら反発するという術を覚えた。ミリアに土産を買ってこないことであるとか、ツアーに出ると小まめに連絡を寄越さなくなることとか。本当はそんなこと、どうでもいいとわかっている。ミリアが気にしていないのも、わかっている。何せリョウは世界レベルのギタリストなのだ。それは、わかっている。十二分にわかっているけれど、自分がリョウを目の前にするとどうにも素直になれない。自分が開け放しになっていて、リョウに全てを見られている、そんな気がしてならないのだ。
「はい、リュウちゃん。」
ミリアはそう言ってソファで呆然としていたリョウの目の前に、パンケーキの乗った皿を差し出した。ご丁寧にクリームと苺、バナナまで乗っている。
「うわあ。」
「バナナはね、消化にいいの。」
「おい、旨そうだな。」
頭上に突然リョウの声が響いたので、リュウは思わず仰け反った。
「うわあ!」
「リョウも食べる?」
「俺のもあるんか。」
「うん。そろそろ降りて来る頃かと思って、一緒に作っといた。」
「マジか、嬉しいな。」
自分の部屋で食べようかな、そう言って逃げようとした矢先、リョウはリュウの頭を撫で回した。「お前のアルバム、やっぱ凄ぇな。」
リュウは思わずその場に固まった。咄嗟に鼻の奥が痛んだ。泣きそうになった。
「いやあ、もちろんツアーの移動中とかずっと聴いてたんだけどよお、改めてちゃんと腰据えて、てめえで弾く気んなって聴くと凄ぇよ。小学生だから、中学生だからなんつうんじゃなくてよお。ちゃんと世界を作ってんな。弾くと余計にそれがわかった。」
リュウは声を発することができなかった。情けない程震えてしまうことがわかっていたから。
「ライブもリハも楽しみだな。シュンとアキも、俺の息子だからっつうんじゃなくって、一人の未来あるギタリストのために今回の話受けたんだろうな。なんか、そんな気がする。」
「……そんなこと、ないよ。」
「全然そんなことあるわよう。シュンもアキも、楽しんでリュウちゃんのレコーディング、やってたもの。お義理じゃないのよう。」
リュウは俯いた。やたらパンケーキに乗ったフルーツが輝いて見え始める。
「リハは、来週からだったな。それまでにもちっと聴き込んで、……最高のライブにしてやるから。」
「リョウが主役じゃないわよう?」
「あ、そうだな。」リョウはそう言って腹の底から哄笑した。
リュウはみるみる腹も胸も満ち足りて、一体どうやって目の前のパンケーキを食べようかと一人思案していた。