表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
BLOOD STAIN CHILD Ⅵ  作者: maria
1/39

朝曇

 朝、目覚める時はいつだって幸福だ。リュウは心密かにそう思う。心温まるスープの匂い、一日の元気を培う香ばしいトーストの匂い、それらが鼻を掠めて夢の世界からそろりそろりと、でも否応なしに強固な力でもって現実へと戻してくれる。料理好きな母が毎朝早くから料理に勤しみ、どこでも食べられないような格別な朝食を作ってくれるのだ。

 リュウはだから、ベッドの上に置いてはいるものの、とんと鳴らしたことのない目覚まし時計をちらと見上げ、起床時間が到来したことを確認するとベッドから降りた。階下に降りて行くと、美味しそうな朝食の匂いと共に、母親の歌声が聴こえて来る。決して上手とは言えない歌声。

――リョウが、リョウが、帰って来る。海の向こうから、帰って来る。お空を飛んで帰って来る。ただいま、おかえり、ただいま、おかえり。――

 しかも、歌詞のセンスも頗る悪い。

 「おはよう。」リビングに入り、台所に立つ母親の背に向けて言った。

 「あら、おはよう。」振り返った笑顔は輝かんばかりである。「ねえねえ、今日は――」

 言い出そうとしたのを遮って、「わかってるよ、リョウが帰って来る日だ。」とリュウは台所の壁に掛けられたカレンダーを見ながら言った。毎日毎日丁寧に大きなバツが付けられ、遂に真っ赤な丸が付けられた今日の日を迎えたのである。「だから、今日は学校終わったらすぐに帰って来るし、楽器屋も本屋も寄らない。」言われる前からはっきりと断言した。「約束する。」

 母はさすがに目を丸くしてから、柔らかく微笑んだ。

 「そう、言いたかったんでしょ?」

 「うん、そうなの。」母は照れたように肯いた。そんな母親はもう三十も半ばだというのに、少女のようだと思う。

 「ねえねえ、」母はそう言って手招きをする。リュウは台所へ行った。朝食は既にテーブルに並んでいるというのに四つもあるコンロは全て鍋で埋め尽くされ、それぞれコトコトと音を立てている。「見て。今日はね、パーティーなの!」

 「パーティー? 誰か呼ぶの?」

 「呼ばないわよう。三人だけ。」

 リュウはそりゃそうだとばかりにこっくりと頷く。

 「だってリョウが帰って来るんだもの。」母は恥ずかしげもなくうっとりと呟く。ミリアはリョウを愛している。そしてリョウもそれに応えている。それは子どものリュウにとって長らく当たり前のことだと思っていた。すなわち、夫婦がお互い愛し合うというのは。リュウは知らなかったのである。他所の夫婦の多くが子供の前で露骨に愛情を示し合うことはあまりないということを。しかし我が家は違う。ギタリストである父はしばしばツアーで長く家を空けたが、ミリアは「リョウが」、「リョウが」、いてもいなくてもそう騒ぎ立てる。それはきっといいことなのだとも思うが、置いてきぼりの母が可哀想な気もする。昔は母もギターを弾いて父と一緒に国内外を問わずツアーを回ったと聞いているが、自分を産むためにバンドから身を引くこととし、それ以来復帰しなかったのである。その理由はわからない。リョウを愛しているのであれば、ずっとリョウと一緒に弾き続ければいいのに、とリュウは単純に思う。たまに自宅で弾くミリアのギターはとても感情豊かで、テクニカルでもありプロとしても十分に通用するのにとさえ思う。

 幾度となくそう進言したこともあるが、ミリアはただ笑って「だって、もういいんだもの。」と答えにならない答えを呟くのみ。そして今はただ、中学生の頃から続けているという雑誌モデルの仕事と、大学で専門的に学んだという料理の仕事を続けている。あとは、こうして毎日あれこれと一人っ子である自分の世話を焼いてくれる。

 リュウは出されたフレンチトーストに苺のジャムを塗りたくり、頬張る。このジャムだってミリアの手作りだ。普段は甘いものは不得手なリョウでさえ「旨いな」と賛嘆せざるを得ないもの。そしてどこぞの牧場からわざわざ取り寄せているというミルク、それからお腹を温めるのが大事なのよと言って出してくれたコンソメスープを飲み干し、母手作りの毎度この上なく美味な弁当を携えて、「いってくるね。」と玄関を出て学校へと向かう。

 「いってらっしゃい!」母は今日もいつものように玄関に立つと、笑顔で手を振った。それは今夜帰って来るリョウに向けられたそれかと訝るが如く、頗る上等の笑顔であった。


 リュウが玄関を出ると、そこにはいつものように一人の少女が立っていた。

 「おはよう!」少女はリュウの姿を認めるなり、大きく手を振った。

 「まーた待ってたのかよ。先に行けって、いつも言ってるのに。」そう言ってわざと怪訝な顔付きをするのは、そろそろポーズだと自分でも気付いている。いつだって彼女は側にいるのだから。もう当たり前の存在。空気のような存在。

 「だってそろそろ出て来るかなって思って見てたら、リュウが出て来たんだもの。」悪びれもせず少女は笑う。

 それを待っているというのではないか。リュウはしかしそう言葉にはせず、スニーカーのつま先をとんとんと叩きながら門を出て少女と一緒に歩み出す。

 「今日さ、リョウさん帰って来るんでしょ?」

 「何で知ってんだよ!」リュウは瞠目する。

 少女はあはは、と笑って、「だってこの前ミリアさんがうちに来た時、そう言ってたもの。」と言った。少女の母と自分の母とは幼馴染で、始終行ったり来たりを繰り返しているのである。

 リュウは呆れたように溜め息を吐いた。母はどこでだって父のことを話さずにはいられないのだ。そこに父がいても、いなくても。

 「久しぶりねえ。だってたしか、何とかっていう有名なバンドに入ってヨーロッパツアーして、それがようやく終わったんでしょう? 良かったわね。今日からはしばらくはおうちにいられるんでしょう?」

 そういうことには、なっている。でもわからない。父の仕事はいつだって気まぐれに始まり、そして気まぐれに終わるのだ。ギターを弾いてくれだの、歌を歌ってくれだの請われれば、国内は勿論、地球の裏側へだって、平気な顔してそこいらのスーパーにでも行くような気軽さでもって行ってしまうし、ツアーが終わる日にちだって一応決まってはいるものの、追加公演だ、追加公演の更に追加公演だ、と言っては帰宅がぐんぐん伸びてしまうのもざらである。

 それでどれだけミリアが泣かされてきたことであろう。カレンダーに付けられた帰宅の日を示す丸がバツになり、幾つも先にぐんぐん増えて、どれだけミリアがバツを付けてもゴールに辿り着かない。そんな徒労、骨折り損、無力感を何度目にしてきたことであろう。リュウは腹立たしく思い出す。リョウは人の気持ちを、まるでわかっていないのだ。台所の花柄のカレンダーに、毎日どんな思いでミリアがバツを付けているか、知らないのだ。それを平気で裏切っている内に、愛想を尽かされてしまうんじゃあないか。

 しかし、そう思うとリュウは複雑な気持ちになる。これでミリアの悲しみがわかったか、ざまあみろ、という思いと、もしミリアが遂に愛想尽かしをして離婚をしてしまったらどうしようという思い。それらが忙しなく交錯する。

 もちろん離婚なんてする訳ないと思う。ミリアの人生にリョウがいなくなってしまったら……、そんなことは考えられもしない。だのにそう思ってしまうのには理由があった。

 去年、初めてパスポートを自身で更新するために、区役所へ行った時のことである。ミリアがたまたまモデルの仕事と料理本の撮影で立て込んでしまい、「もし今度リョウの海外でのツアーに顔出したいのなら、自分でパスポート申請してきて頂戴。お金はあげるから。」と言われ、初めて自分で証明写真を撮り、種々の書類を揃えるところから申請の準備を行ったのである。

 リュウは窓口で初めて見る戸籍謄本に目を落とし、首を捻った。父、黒崎亮司。母、黒崎ミリア。長男、黒崎竜司。出生、××年×月×日。そこまではいい。ただし、次の項目がリュウにはよくわからなかった。いわく、--認知。

 夫婦の間に子供が生まれたのだ。当然夫婦の子供ではないか。それを父親は認知をするものなのだろうか。実際に産んでいないからだろうか。

 リュウは窓口にいた女性を呼び、その旨を尋ねた。

 「認知のことですか? 一般には非嫡出子に対して行われますね。」仕事を中断された女性は忙しそうに口早にそう述べた。

 「非嫡出子?」

 「ええ。ご結婚されていない方の間に生まれた子どものことですよ。」

 リュウは身を固くした。

 「……でも、父と母は結婚しているんです。仲いいし、もちろん! 一緒に住んでいるし!」

 女性ははっと顔色を変え、慌てて作り笑いを浮かべた。

 「そうですか。そ、そういうケースもあるかもしれませんね。何事もケースバイケースですので。そのために弁護士さんもいる訳ですし。でもこちらのミスではございません。そういうことは、あり得ません。……もしかしたらあなたの御両親があなたにはまだ伝えられないと思っていることが、あるのかもしれませんね。」

 リュウはしかし、日頃あれだけリョウを慕っているミリアを目の当たりにしていると、本当は結婚なんてしていないのではないかなど、とてもではないが聞けやしない。ミリアを傷つけることだけは、どうしたってできない。――でも、なぜ? やはり、戸籍が間違っているのではないか。間違いを教えてあげれば、リョウとミリアはそんなことがあったのかと驚いて、きちんと訂正の申請をしてくれるのではないか。でも、役所の人は間違いはあり得ないと言った。

 だとすると、リョウとミリアは夫婦ではないのだろうか。まさか。あれだけ仲がいいのに? それに結婚式の写真、ミリアのウェディングドレス姿の写真だって、はっきり見たことがある。ミリアの寝室に飾られているのだ。結婚は、している。それは疑いようがない。

 しかしもし、万が一、結婚をしていないのだとしたら――? もしかすると、リョウには結婚できない何かがあるのかもしれない。たとえば、日本で禁じられている結婚は、重婚――。別に本当の妻がいるのではないか……。それはこの上なく胸を痛ませる仮説であった。しかし強ち否定はできない。一番怪しいと思われるのが、仕事柄、ツアーと称して長らく家を空けることである。しかも海外遠征だって多い。しかしそれは本当にツアーなのか。ツアーなんかは実は大ウソで、本当の家族の元へと行っているのではないか。

 リュウは重苦しい吐息を吐きながら、家のパソコンで調べた。しかしバンドのサイトにはしっかりリョウが言った通りのツアー日程が書かれているし、ネット上にはファンと思しき人の実際にライブを観た、リョウのプレイを観た感想なんかもたくさん書き込みがされていた。映像だって上がっているのである。リョウは一応、ツアーに出ると言う時にはツアーに出ているのに相違ない。ならば、そこには本当の妻が同行しているのではないか。だとすれば、もしかしたら子どもだってあるのかもしれない。異母兄弟。そんなものはどうしたって厭だ。我慢できない。リョウとミリアの子供は古今東西自分一人だけであるべきだし、それに、万が一他所に妻だの子だのがあったとしたら、ミリアがあまりにも可哀想だ。地獄だ。絶望だ。でも、もしかすると、ミリアはそれが苦しくてバンドを辞めたんじゃあないか。だってミリアはこんなにもリョウの帰りを待ちわびている。本当は同行したいに相違ない。でも同行できない何かが、あるのかもしれない。

 リュウはますます鼻梁の皺を深くして、溜め息を吐いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ