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Sanctus~聖なるかな~  作者: かきみ
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第三章   永瀬響


 通勤ラッシュどころか、始発にすらまだ早いロータリーは閑散としていた。バス乗り場に面したコンビニエンスストアにも客の姿はほとんど見えない。

 空を薄く覆う雲間から零れる陽射しは、夏であることを忘れさせるほどに頼りなくぼやけている。

 ロータリー側を向いてガードレールに腰かけ、響は腕を組んだ。Tシャツ一枚では肌寒くて、普段ならこの季節には必要ないはずの薄手のブルゾンを羽織ってきた。響は足元に下ろしたボストンバッグを靴先でつついた。

 待ち合わせの時間まであと二十分。少しばかり早かったかもしれない。

 物心ついた頃から、母に「時間を守らない人間は何事にもルーズになる」と口すっぱく言われて来た所為で、時間には余裕を持って行動する癖がついている。待たせるより待つ方が気が楽だ。

 もっとも、正登も時間にルーズな方ではない。遅くとも五分前には現われるだろう。

 不意に、ごく近くでクラクションを叩かれた。ちょうど右頬を弾かれるような感覚だった。響は顔を上げた。

 ダークシルバーのポルシェ。正登の車ではない。正登が大学の入学祝いに買ってもらって乗り回している愛車は、黒のスカイラインクロスオーバーだ。

 ポルシェなど、最近ではすっかり珍しくなくなった車種だが、知り合いに乗っている人間はいない。響が視線を外そうとしたら、またクラクションが響いた。

 ポルシェは流れるようにゆっくりとロータリーに入って来て、響の眼前で停まった。響はガードレールから降りた。

 運転席の窓が開く。顔を出したのは、このところ隔日くらいのペースでBLUE・HEAVENに来るエリートサラリーマン風の客だった。最初こそひとりだったが、二回目以降は毎回違う女性を連れている。一昨日、響がバイトに入ったときには、受付に座っていそうな綺麗な女性が一緒だった。

今日は休日仕様なのだろう。ラフなポロシャツを着ている。

「おはよう。永瀬くんですよね。すっかり名前を覚えてしまった」

「……おはようございます」

 響はぺこりと頭を下げた。男はやわらかく微笑んだ。

「ご近所、ですか?」

「いや。友人がいましてね」

 響は「ああ」と曖昧に頷いてみせた。

 頭上の雲間が広がり、磨き抜かれたポルシェの車体で白い陽射しが鋭角に弾けた。響は思わず眼差しを顰めた。

「永瀬くんこそこのあたりですか?」

「え、ええ。まぁ」

「それじゃ、あの店で閉店まで働いたら終電間に合いませんね」

「いつも歩いて帰ってます」

 響は少しだけおどけるように首を傾げた。

 微笑んだままの男の眼の底に、どことなく慈しみめいた閃きが過ぎった、ような気がした。

「それは大変ですね。どれくらいかかりますか?」

「一時間くらい、ですね」

「一時間も歩きますか。さすがお若いですね」

 男がそう言ったとき、ポルシェの向こう側をすり抜けて、タクシーが停まった。視界の隅にジーパンに包まれた脚が見えた。響は顔を振り向けた。

「英司さん……」

 薄く呟いて、響はポルシェから一歩離れた。

 いつものごとくの無表情で、さほど荷物が入っているとは思えないディバックを肩から下げている姿を追いかけた。

 今日もハイネックを着て、薄手の半袖シャツを羽織っていた。顔を合わせるのは夜ばかりだから、曇っているとはいえ、明るい陽射しの下だと、なんとなく違和感がある。

 ちらりと英司がこちらを見た。一瞬引き攣れるような驚きが過ぎらせたが、すぐに無表情に切り替えてガードレールを跨いで駅舎に近づいていく。壁に寄りかかって空を仰いだ。

「あの……すみません」

「お友達のようですね」

 男はあえて確認する様子もなく、断言に近い口調で言った。視線を巡らせれば、響の「お友達」がBLUE・HEAVENの店長代理だと気づくはずだ。

 でも、男は響から視線を外さなかった。

「夏休みのご旅行というところかな。学生さんは時間があって羨ましい」

 男は、ずれてもいない眼鏡の中央を中指で押し上げた。急に強靭になった光がレンズを滑り抜けた。

「楽しんでらしてください。またお店の方に覗います」

 柔和な微笑を口許に湛えて、男は窓を閉めた。ポルシェはロータリーを大きく迂回して走り去った。響は無言で見送って、英司に駆け寄った。

「おはようございます」

英司は「よお」と、億劫そうに右手を挙げた。瞼が重たげだった。まだ眠いのかもしれない。英司は昨夜もシフトに入っていた。

「眠いですよね。すみません」

「ええよ」

 英司はジーパンのポケットから皺の寄ったセブンスターと携帯灰皿を引っ張り出した。残り少なくなったパッケージには百円ライターも一緒に入っていた。目の動きで「吸っていいか」と伺いをたて、響が頷くのを待って一本咥えた。慣れた仕草で火を点ける。ゆっくりと紫煙が上がった。

「英司さん、ヘビースモーカーですよね」

 響は英司に並んで、壁に寄りかかった。

「いや、俺はチェーンよ。一本最後まで吸ったことないしな」

 言っているそばから、英司は咥えたばかりの煙草を携帯灰皿に押しつけた。

「もう潰しちゃうんですか」

「だからチェーンやって言うたやん。いつもこんなもんしか吸わんのよ。もったいないやろ。わかっとるんやけどね」

 英司はまだ長い吸い差しをくるくる躙り潰した。

「煙草代、倍かかりますね」

「困ったことにな」

 英司は自嘲気味に笑った。熱を帯びた光の中で乾いた声の余韻が歪んだ。

「さっきのポルシェ、誰なん?」

「お店のお客さんですよ」

「店の客?」

 英司は訝しそうに眉間に皺を作った。また新しい煙草を咥える。

「ほら、最近良く来るじゃないですか。スーツの良く似合う眼鏡の」

「そういう客ばっかやん」

「ああ、えっと、毎回違う女性を連れてます。OLさん風だったりキャバ嬢みたいな人だったり」

 響は客の説明をした。英司はどんな客に対しても注文内容以外の興味を示さない。顔などはほぼ覚えていないだろう。

「そういえばおったなぁ。そんな客も。この辺に住んどるって?」

 ほんとうにわかっているのかいないのか、英司はのんびりした口調だった。

「違うみたいですけど」

 響は英司の隣を離れ、ガードレールのところに置き去りになっていたバッグを掴んだ。三泊分の荷物がずしりと重たい。英司の荷物の少なさを思うと、一体自分は何を押し込んで来たのだろうと恥ずかしくなった。

 バッグを肩にかけて戻ったら、英司はまたさほど吸っていない長い煙草を携帯用灰皿に押し付けていた。

「ほんとにハイペースですね」

「ん?」

「煙草の消化本数」

 響は英司の口許を指差した。英司は唇を尖らせて、息を抜くように笑った。

「そのうち肺ガンかもな」

「まさか」

 響もつられて笑った。

 灼熱の予感を内包した陽射しが頬に当たる。今日は暑くなりそうだ。暑いのは苦手だけれど、せっかくの旅行に雨が降るよりはいい。

 英司はまた咥えようとした煙草をパッケージに戻し、ライターを入れたまま握り潰した。まだ数本残っていた煙草がくしゃりとひしゃげた。

「まだ残ってるのに。いいんですか?」

「旅行中は吸わんことにした。持っとったら吸いたなるやん」

 英司はにっと揶揄交じりに口角を引き上げて、コンビニエンスストアのゴミ箱に握り潰したパッケージを放り込んだ。

 突然、耳慣れない着信音が鳴った。

 英司の背中が緊張する。ディバッグから携帯電話を引っ張り出した。英司はまだガラケーを使用している。

 折り畳み式のフラップをそうっと開き、全身を硬直させながら、着信番号の出ている液晶画面を見た。頬がぴくりと動いた。

 どうして出ないのだろう。話したくない誰かの番号なのだろうか。

 執拗に鳴り続ける着信音に大きく息を吐き、英司は通話ボタンを押した。口許を覆い、ぼそぼそと話す声は聞き取れない。響に聞き取られないようにしているに違いなかった。

 それなら、見ていられるのもいやだろう。響は顔を背けた。

 ホームに灯りが点りだしている。もうすぐ始発が動くのだ。

「……わかっとる。大丈夫やて。少しは信用しぃや。二度もやらんて」

 通話を切る寸前の、吐き棄てるようなその言葉だけははっきりと響の耳にも届いた。

 はっとして、響は振り返った。ちょうど、英司が通話を終えた携帯電話をディバッグに押し込むところだった。響の目線に気付いて、英司は困惑気に眉根を寄せた。

「……友達やった」

 問われてもいない答えを無愛想に告げ、英司は響の隣に戻った。

「だいじょうぶですか?」

「気にすんなや。なんでもない」

 言いながら、ジーパンのポケットをさぐる。棄ててしまったことを忘れて、煙草を探しているらしい。切れ長の瞳の端に冷めた苛立ちが過ぎる。あれだけのチェーンスモーカーでは喫煙しないで過ごすのはつらいだろう。

 響はブルゾンのポケットから黒飴を出し、英司に差し出した。驚いたように、英司は響を見た。

「煙草の代わりにはならないかも知れませんけど」

「あ、ああ。ありがとう」

 英司は戸惑いがちに飴を受け取った。

「いつもこんなん持っとるん?」

「いつもは持ってませんよ。昨夜母から貰ったんで、そのまま持って来たんです」

「おかんかぁ」

 感慨深げに呟いて、英司は飴を口に放り込む。それを見やってから、響も飴を口に含んだ。

「永瀬のおかんってどんな人なん?」

「普通だと思いますけど。小さな洋品店やってて、いっつも忙しそうにしてますよ」

「永瀬に似とる?」

 英司は横目で響を見た。唐突に視線が噛み合って、響は訳もなく逃げたくなった。今まで出会ったことのない鋭い眼差しだったのだ。射竦められるような痛みで、悪寒めいた鳥肌が全身を埋めた。

「……どうだろ。変な癖とか似てたりして、母が良く笑いますけど。顔は、どうかな。母はすごい美人ですから」

「永瀬も美人やん」

「え?」

 なんでもないことのように言い切られて、響は眼を見開いた。英司はさっと顔を背け、また空を仰いだ。つられて見上げたら、いつの間にか蒼空の占める割合がずっと広くなっていた。押し退けられた雲はゆるゆると入道雲を形成し始めている。

「美人って、女の人に言う言葉でしょう?」

「ちゃうって。男でも女でも綺麗なひとのことや。美男美女って言い方もちゃんとあるやん」

「あ、そうか」

 響は素直に納得した。

「鼻にかけたらあかんけどな。自信持ってええと思うで。永瀬は美人や」

 こちらには頷けなかったけれど、褒められのだから喜んだほうがいいのだろう。母に似ているのはやはり嬉しい。

 礼を言おうとしたら、スカイラインクロスオーバーが現われた。黒い車体で反射する陽射しの乱舞が眩しい。

「おっまったせ~~」

 窓が開き、助手席のシートを経由して、正登が顔を出した。満面の笑顔で屈託なく響を見つめている。響は軽く手を挙げて答えた。壁から身を起こし、バッグを持ち直す。

 車から降り立った正登は、すぐにむすっとした。

こんな表情をするということは――と視線の行き先を辿っていけば、英司だった。

 完全に睨みつけている。まさにガンをつけている感じだ。英司の方は、我関せずとばかりに空を見上げていた。正登の不躾な視線を感じ取れないほど無頓着でもないだろうに。

 正登はつかつかと響に歩み寄って来た。ガードレール越しに肩を抱き込むようにして顔を寄せる。真っ白いポロシャツの襟が響の頬を掠った。

「なんで、あいつがいんの?」

 幼い子どもみたいに尖らせた唇から、その形で容易に想像のつく不機嫌そのものの言葉が 発せられた。

「誘ったから」

「誰が?」

「俺が」

「はぁ~ぁ? なんとおっしゃいましたぁ?」

 素っ頓狂な声が響き渡った。正登は良くも悪くも感情をオブラートに包むような上等なことは出来ない男だ。

 友達との旅行に予定外の闖入者がいて、それが嫌っている人間だったら、当然気持ちを誤魔化して笑顔を作ったり、愛想を言ったりなどしないのはわかっていた。

 それでも、英司を誘ったのは、嫌がらせというわけではない。母子家庭と言う共通点を見せられて、ほんの少し、感情の天秤が英司に傾いただけなのだ。両親がいて、生活のためのバイトをする必要はなく、就職もコネで決まっていて、あっさり新車を買い与えてもらえる幸せなお坊ちゃんの正登に対して抱くことのない感覚だ。

 そして、英司の口笛の『ラクリモーサ』。

 バイト中にはあの曲について話す機会がなかったから、この旅行で話題にできたらいいと思っていた。

「な・ん・と・おっ・しゃ・い・ま・し・た・か? きょ・う・さ・んッ」

 正登はまるで発声練習をする劇団員さながらに一言一言をくっきりと言い放った。長身の影が覆い被さるみたいだ。

「うるさいよ。お前は」

 響は小蝿でも追い払うように手を動かした。指先が正登の頬に当たった。

「だって、誘う? 普通誘うかよ。俺が嫌ってんのわかってんだから」

「俺の都合に合わせるって言ってた」

「そういう都合じゃないよ」

「一人増えることになんの問題があるんだよ。ガソリン代とか食事代とか割り勘の頭数増えて助かるし、いいだろ。だいたい二人で旅行なんて行ってどうすんだよ。恋人じゃないんだぞ。俺たち」

「増えていい人間といやな人間がいるよ。あいつの場合は後者なの!」

 正登はガードレールを蹴り上げた。響はちらっと正登を見やった。

「なんで、そう嫌うんだよ。なんかされたわけでもないのに。この前だってタクシー呼んでくれてさ。タクシー代だって借りて、むしろ、お世話になった感じだろ」

「それも、なんかむかつくんだよな」

「なんでだよ」

「大人の余裕ぶっちゃってさ」

 正登は大袈裟に舌打ちした。

「お前、悪く取り過ぎだよ。そういうの偏見だろ。偏見」

「偏見じゃないね」

 正登の露悪的な口調に、響は低く溜め息を漏らした。

 


 鎌倉まで約二時間弱。車内は険悪と言ってもいい状態だった、

 正登に無理矢理助手席に座らされた響は、ことあるごとに後部シートの英司を振り返って話題を振った。そのたびに、英司は気にするなとばかりに目配せしてくれた。

 会話が少なくても、旅行と言う大義名分だけは全うしようとしているらしく、正登は鎌倉駅から長谷へ抜けるとき、わざと大回りして材木座海岸へ出た。

 夏らしい煌めきを躍らせる水平線が家々の隙間に見える。微かに窓を開けたら、風景を常に彩っているのであろう潮の匂いが鼻腔に満ちた。波音と喧騒までもがエンジン音の向こうから押し寄せて来る。

 この風景を知っている――。

 何故か、強くはっきりとそう思った。

 小さな眩暈が滑り抜けた。

 鎌倉に来るのは初めてだ。中学校の遠足のときには当日になって、計ったように熱が出て行かれなくなった。

 遠足でもなければ、寺や史跡で構築された古都に来るチャンスはない。響には史跡廻りをするような趣味はなかった。雑誌やテレビ番組で眺めたこともない。

 せめて海が好きだったりすれば、江ノ島、稲村ガ崎、材木座と海岸の続く場所だし、東京から日帰り圏内だし、足を向けることもあっただろうが、そちらにも興味はない。

 なにしろ、子供の頃から水が怖い。顔をつけるのがやっとだ。風呂もシャワーも苦手だった。

 こうやって家々の隙間から材木座海岸を見たことはないはずなのに、脳裡をざらついた感覚が支配する。漣が立つ。

 なんだろう。これは。

 どうしてこんなことを思うのだろう。この光景を知っているだなんて。

 痛みのように、緋色の翳が意識を塞ぐ。有り得ないデジャヴュ。

 そうだ。有り得ない。はじめて来た場所を知っている人間などいるはずがない。だが、気持ちの奥底がどうしようもなくざわめく。落ち着かない。

 ――俺は、この風景を知っている。

 それ以外の答えは見出せなかった。

 響は記憶のざわめきから逃げ切れずにダッシュボードに顔を埋めた。手のひらが震えて、耳を塞ぐことも出来ない。押さえられない低い呻き声が漏れた。

「響?」

 慌てて、正登は車を路肩に停めた。

「どうしたの? 酔った?」

 身体を傾けて、覗き込んで来る。響は僅かに頭を振り、大丈夫だと答えた。

「車酔いしたんか?」

 運転席と助手席の間から身を乗り出しているらしき英司の声がすぐ近くで聞こえた。響はまた頭を振った。

「少し降りて、外の空気吸うたらどうや」

 英司の手が肩を掴んできた。ほっとするほど温かだった。脳裡を支配していたざわめきが引いてゆく。

「……大丈夫。なんともないから」

「ほんまか」

 響は小刻みに頷いた。

 無言のまま、正登が車から降りた。訝しさで響は顔を振り上げた。運転席の窓越しに車道を横切り、前方へ歩いて行く正登が見えた。白いポロシャツの背中で陽射しが弾ける。 

 正登は自動販売機に硬貨を入れると、少し迷ってからお茶のボタンを押した。長身を折り曲げて、取出口から三本のペットボトルを引っ張り出した。大きな手に掴まれたペットボトルの中で琥珀色の光が弾ける。

「はい。口直し」

 運転席のドアを開け、正登はウーロン茶を響の眼前に差し出した。

「飲んだら、少し楽になるよ。暑いのにあんまり水分取らずにここまで来たから。具合も悪くなるよね。ごめん」

「ありがと……」

 微かに応えて、響はペットボトルを受け取った。ひんやりと冷たい感触が手のひらに満ちる。

正登は一本をドリンクホルダーに突っ込み、もう一本を英司に手渡した。

「ついでだから」

 無愛想に正登は顔を背けた。そのまま運転席に座り直す。

 響は、どんなに嫌っている相手でも最後まで邪険にし切れない正登本来の優しさを見た気がして、思わず口許が緩んだ。

 無理に英司を引き込んで、正登の気持ちを棘だらけにしてしまったが、どうやら気鬱なことにはならなそうだ。三泊くらいなら、かろうじて乗り越えられるだろう。

 都合のいい身勝手な願望だけれど。

「悪いな」

 英司は独り言のように呟いて、後部シートに身を沈めた。それをバックミラーで確かめてから、正登はアクセルを踏んだ。

「もう寄り道しないで別荘に直行するよ。観光するなら電車で動こう。その方がいい」

 正登はフロントガラス越しの街並を見据えながら、静かに言った。骨ばった大きな手のひらがハンドルを不必要に強く握り締めている。

「別に酔ったわけじゃない」

「用心だよ。具合悪くなったら楽しくないだろ。せっかくの旅行なのに」

「だからって、ヘンに気を使われるのは好きじゃないんだって」

 響はキャップを開けないままのペットボトルを口許に寄せて、正登の過保護ぶりに沸きあがりそうになる不快感を押し隠した。

 ただの友人にここまで人は過保護になるものだろうか。店の閉店時間に迎えに来ると言い出したこともそうだ。

 正登は、出逢って間もない頃から響を壊れ物のように甘やかに扱うところがある。男同士なのだ。もう少しいい加減に乱暴な友情がいい。対等な友人関係において、庇われる必要などどこにもない。

 響は、自分が同年代の他の人間たちより頼りなく見えるとは思っていないし、実際、そう見られた覚えもない。確かに誰が押しても倒れないほどの頑丈さを誇っているわけではないけれど、ごく普通だ。標準的二十一歳だと思う。

「気ぐらい使わせろよ。なんにもさせてくんなんだからさ」

「なんにもって、何がしたいんだよ」

「お迎えとか、さ」

 正登はちらりとバックミラーを見やった。そこに映り込む英司の姿を確認したのか、小さく溜め息を吐いた。

 響はペットボトルを握り締め、正登を眺めた。正登のまっすぐな鼻梁に、盛夏寸前の強烈な光のスパークが起きている。浅黒く日焼けした肌が白んで見えた。

「まだ、そんなこと言ってんのかよ。しつこいヤツだな」

「響ちゃんのことに関してはしつこいよ。俺は」

 正登の低く抑えた語尾に引きずられたみたいに、不意に陽射しが陰った――。



 車は九品寺の脇を抜け、湘南道路に出た。

 夏休みに入っていても、平日のことで、車通りはまだそれほど多くない。更に海が近づいたが、先刻のような緋色の翳が落ちてくることもなかった。

 響は窓を全開にした。湿った潮風が吹き込んで髪を乱した。片手で押さえて、車の向かう前方に視線を走らせた。

 夏の海水浴客を見越した簡易旅荘やホテルが軒を連ねている。由比ガ浜と称される海岸には結構な人々が繰り出していた。沖に出ている人影もある。ヨットのものか、ウィンドサーフィンか、帆も見える。滑川橋を渡り、車はなおも湘南道路を走っていた。

 正登の運転はまったく無駄がなかった。妙に空吹かしをしたり、やたらとアクセルを踏み込んだりもしない。クラッチの切り換えもスムーズで、接続が変わるときの不自然な軋みも上がらなかった。

 高校三年の三学期に免許を取ってからの約三年でここまで上手くなるものなのか。免許取得すら考えていない響にはよくわからない。

「運転上手いんだな」

「そうだよ。もっと早く知って欲しかったな」

「なんでだよ」

「だって、そしたら迎えに来てって言ってくれてただろ」

 正登は吹き込んで来る強い海風に、一瞬眉を顰めた。

「またその話に戻るのか」

「しつこいですからね。俺は」

 響がそう言うであろうと見越したように、自嘲気味の口調で正登は続けた。

 ウィンカーを右に出して、御獄大社の方へ入った。

「……切通しの方へ抜けるんか」

 黙り込んでいた英司が小声で呟いた。

 どことなく思いつめているように聞こえて、響はバックミラーを見上げた。縮小された姿で映し出される英司の眼差しに凍えた光が過ぎった。

 ただのミラーへの反射だったのかもしれないが、響には英司が泣き出しそうに見えた。

 慌てて振り返ろうとしたら、バックミラーの底で英司の視線とぶつかった。英司は頼りないくらいにゆっくりと瞬き、ほのかに笑んだ。

 鳩尾の奥が、唐辛子でも含んだようにぴりりと染みた。響はとっさに視線を外した。

「よく知ってるね。鎌倉、良く来るんだ?」

 正登は無感情に言った。誰に向かって、という様子ではなかったが、一応、正登なりに英司に反応したのだろう。

「二回か三回……それくらいやな。この先に月影地蔵言うのあるやろ。そこに行ったことがあるだけや」

「月影地蔵とは、また地味なとこに行ったもんだな。観光地ってわけじゃないだろうに」

「……そやな」

 正登の口調に、また僅かな棘が含まれだした。英司は気づかない素振りで静かに会話を続けている。響は唇を引き締めて、ペットボトルの蓋を開けた。

「デートかなんか?」

「いや……そんなんとはちゃう。そんな関係でもなかった。そうだったらええなって思うてたけど」

 ウーロン茶を飲もうとして、英司の言葉に響は動きを止めた。

 今にも消え入りそうだと感じたのは、窓から吹き込む海風のせいなのか。それとも、英司の唇から吐き出された時点から脆弱だったのか。

 響はゆっくりと振り返った。これだけ明るい真昼なのに、英司の周りだけが靄がかった闇に沈んでいるように見えた。

 響は眼を細め、英司に焦点を合わせてみた。英司に絡みつく靄は一向に解けなかった。

「なんか、訳ありな言い方だね。今の彼女と来たわけじゃないんだ?」

「結構前の話やからな」

「不倫とか?」

 正登の言葉に、英司の肩先がぴくんと揺らいだ。

 言い当ててしまったのだろうか。触れたら血が流れるなにかに。渇かずに化膿している過去に。

 英司に絡みついた靄の正体が口を開けて笑っているようで、響は腹の奥が痛いほどに引き攣れるのを感じた。

「……そんな、大層なもんやないわ。俺の片想いや。勘違いっつうかな」

「へぇ」

 曖昧な相槌を打って、正登は響に視線を寄越した。響はつられて顔を引き上げた。




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