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Sanctus~聖なるかな~  作者: かきみ
6/7

Benedictus   ~ある夏の終わり~


「不思議なホクロ、ありますね」

 武雄がそう言ったのは、出逢ってから二ヶ月ほど経ってからだった。本当はもっと早く話題にしたかったに違いない。誰だってまず気になる。結構目立つ特徴だ。

 武雄だからこそ、今日まで切り出せずにいたのだろう。武雄が万事に控えめな性格なのはさほど長くないつき合いでも良くわかっている。

「珍しいだろ」

 朔也はにっと笑って、左手をぐるりと廻した。腕の内側、手首から十センチ程度のところに、いびつな星型を描くように九つのホクロが並んでいる。

「人間ってさ、全身に四十個くらいホクロがあるんだって。だから、腕にこれくらいの数があるのは普通なんだろうけど」

 言いながら、朔也は腕の内側を眺めた。指先でゆっくりと星型を辿る。

「全身に四十ですか」

 武雄は、朔也の言葉を反芻するように繰り返した。急に涼しくなった朝晩の気温変化についていけなくて風邪を引いたと言っていたから、今日はいつもより声が罅割れていた。

 武雄は、朔也としては当たり前の、ささやかな知識でもいちいち感心する。気持ちを隠さない。その反応はちょっと面映くなるくらい直截的だった。

「あとは、ここね。目立つだろ」

 朔也は顎を突き出した。

「……え?」

 怯んで、武雄は身体を後ろに逸らした。膝先がテーブルの裏を弾いて、薄っぺらいレモンの浮いたアイスティーともう温くなってしまったカフェ・オ・レの水面に漣が立った。

「なんで引くの。ここ。ホクロあるだろ。でかいの」

 朔也は唇の左下を弾くように指し示した。まるで油性ペンで書いたようにくっきりと、直径三ミリ程度の大きなホクロがあるのだ。

「あ、ああ、はいはい! あります」

 武雄は小刻みに頷いた。三白眼気味の瞳に深い陰影が差した。

 駅前から一本脇道に逸れた小さな喫茶店。窓が小さい上に半透明の磨りガラスが填め込まれていて、穴倉のように薄暗い。古き良き時代のランプを模した照明がぶら下がり、小振りなテーブル席が五つ不規則に据えられている。店内に流れるのはゆるやかなジャズ。

 朔也と武雄以外の客は、買い物帰りらしい老夫婦と大判のファッション雑誌を捲るスーツ姿の女性のみ。カウンターの奥では、半白の頭髪を綺麗に撫で付けた初老のマスターが新聞を読んでいる。時間が静止したような、のどかな昼下がり。

 いつものごとく窓際のテーブルに座っていた。窓際と言っても、この店の窓のサイズでは外の景色を眺めるには向かない。もちろん、外から店内を覗き見ることも難しい。

 あの偶然の再会でいっしょに北鎌倉まで帰って以降、妙に気が合って、武雄とは二週から三週に一度ほど、お茶を飲む関係になっていた。探偵小説が好きという共通点が近づけたのだ。

 それ以外の雑談も交わすようになったけれど、朔也はいまだ本当の職業を明かしていない。フリーランスの仕事をしているとさらりと触れただけだ。

「取っちゃおうかと思ったんだけど。顔を弄るの家族が嫌がるんだよ」

「やめた方がいいと俺も思います」

 武雄はまた小刻みに頷いた。薬局の店頭に置かれている首振り人形めいた動きだ。

「奥脇さんはそのままで充分綺麗です。ずっと前に見た聖母の絵みたいだと」

「聖母、って」

 朔也はきょとんとして武雄を見返した。武雄の真摯過ぎる瞳が朔也を見つめている。

「普通男には言わないよ。そんなこと」

 朔也は軽くふき出した。くくっと笑いながら、カフェ・オ・レのカップに手を伸ばす。

「言わないかなぁ」

武雄は不思議そうに、そう、いっそ悲しいほど不思議そうに眉根を寄せた。捨てられた仔犬だって、こんな顔はしない。

「うん。言わない」

 大きく頷いて、朔也はカフェ・オ・レを飲んだ。

「すみません」

 武雄は悲し気な仔犬の顔のまま、ぺこりと頭を下げた。

「俺、誉めるのとか、下手だな」

 困り果てたみたいに呟く。

謝らなくていいのに謝らせてしまった。なんとも気まずいけれど、ここで朔也が謝れば馬鹿馬鹿しい謝罪の応酬になる。話題を変えたほうがいい。

「別にいいよ」

 朔也はカップをソーサーに置き、ゆっくりと息を吐いた。溜め息と勘違いしたのか、武雄の肩がびくんと爆ぜた。盗み見るみたいに朔也をうかがってくる。

「誉めてほしいわけじゃないから」

「え……?」

訝しむように武雄は眉根を顰めた。

「どちらかがとちらかを誉めなきゃって考えてる関係なんて、不健全だろ。そういう肩肘の張り方はいらないよ」

 朔也はゆるやかに微笑んだ。途端に、武雄の双眸から力が抜けて、安堵の表情が掠めた。

 その瞬間だった。空気が微かに動いた。狂奔する夏の匂いが空調の効いた店内に広がった。

 なんとなく振り返ったら、女子高校生が五人入って来たところだった。賑やか過ぎない談笑を交わしつつ、店で一番冷気の溜まる奥のテーブル席に着く。茶髪だったり、鏝でしっかり巻いたような巻き髪だったり、分厚いつけ睫毛だったり。皆が皆、汗でも浮かないくらいのメイクをして、ワイシャツのボタンは大きく開けている。チェックのスカートは太腿を剥きだしにするような短さだった。

 その中に一人、際立って派手な髪の少女がいた。金髪になる寸前でブリーチを止めたような色で、つけ睫毛もアイラインもグロスも一番華やかだ。

 見るともなしに見ていると、唐突に金茶の髪の彼女と眼が合った。睨まれているのではないかと思うほどの強い視線は、すぐに朔也をすり抜け、向き合いに座っている武雄のあたりで止まった。今度は動かない。じいっと凝視しているのがわかる。その視線を辿って身体の向きを直すと、武雄も驚いたように茶髪の女子高校生を見つめていた。

「なに? 知ってる人?」

「夏月なつきさん、です」

「夏月って……誰?」

 朔也は指先で武雄の親指の付け根を突いた。武雄の手のひらがぴくっと震えた。視線が朔也に戻った。

「あ、えっと。いま住んでるアパートの大家さんの娘さんです」

「娘さん?」

 朔也はそう言うと、もう一度振り返った。淡白い顔はまだこちらを向いていた。黒々と長い睫毛に縁取られた眼は、朔也を越えて武雄だけを見ている。真っ直ぐ過ぎる意志の形だ。武雄と向き合う朔也に、理不尽な言いがかりをつけているみたいに。

「金髪みたいな頭の子?」

 淡白い頬から視線を引き剥がし、武雄に向き直ると、朔也はわかりきったことをわざと訊いた。口調には険が出てしまった。

「イマドキなんだろうけど派手だね」

「バンドやってるんです。ボーカルでライブとかしてるみたいで、俺は観たことないから詳しくはないんですけどね」

「ロック?」

「そうです。でも、そんなにハードなのじゃないですよ」

 語るに落ちてるな、と朔也は思った。観たことがないから茶髪娘のバンドについては詳しくないと言ったそばから、演奏しているのがハードロックではないと続ける。言葉の流れの矛盾に、たぶん、武雄は気づいていない。朔也が茶髪娘に好印象を抱いていないと察して、彼女に近しくはないと言いたかったのだろう。

 本当は幾度となく彼女のライブに行っているのだろう。彼女に誘われてなのか、武雄の意志でなのかはわからないが。個人商店レベルの会社なら、たいして歳の変わらない社長の娘と従業員が、普通の友達のようなつき合いをしていたとしてもなんら不思議はない。兄の会社くらいまで規模が大きくなれば、社長と社員はおろか、社員同士さえ一度も顔を見ない、名前も知らないで終わることも多いのだろうが。

「なるほどね」と呟いて、朔也は立ち上がった。

「奥脇さん?」

 怪訝そうに武雄がこちらを見上げる。捨てられまいと媚びる雑種犬のような、どことなく湿っぽい眼差しだった。

 二ヶ月に少し欠ける程度のつき合いしかないし、どうしてそうなってしまったのかわからないが、武雄はまるで神を崇拝するかのごとく朔也を慕っている。なにをしても――例えば、嫌がらせや苛めにしか見えない悪意でぶつかったとしても、武雄は朔也を受け入れるに違いない。

そうわかっているからこそ、残酷な想像も脳内ゲームで終わらせるのだ。傷つけるのも、傷つけられるのもいやだから。

「そろそろ帰るよ」

 朔也は伝票を掴んだ。そのままレジへ向かう。

「送りますッ」

 勢い良く椅子を蹴り上げて、武雄が歩み寄って来た。会計を済ませる朔也の傍らに、影のように寄り添った。武雄は必ず朔也の後ろに立つ。

「アイスティー、いくらですか?」

 耳打ちでもするように、武雄は小声で呟いた。ジーパンのポケットに手を突っ込んでいるのであろう衣擦れの音が聞こえる。朔也は微かに肩を竦めた。

「いいよ。奢る」

「え、だって……いつもじゃないですか」

「五百円、六百円のことだけどね」

 二人分の金額を払いながら、朔也は静かに微笑んだ。

「ありがとうございます。本当に……」

「気にしなくていいよ。俺のほうが年上だし、いつも愚痴聞いてもらってるし」

 言いながら、朔也はドアを押し開けた。

店を出て、駅前通りではなく裏道を辿る。緩やかな傾斜を上がって行く。いつも通りに会話はなかった。武雄は訊かれたことしか話さないし、主導権のある朔也自身もあまり饒舌ではない。

 暦の上では秋になっていたが、また八月だし、叩きつけるような眩い陽射しはまぎれもなく盛夏だ。視界を白く発光させて、高い位置にいる太陽は哄笑を続けていた。

 磨き忘れた革靴のつま先で光が弾け飛んだ。まるでラグビーボールみたいに無邪気で不規則に光が動くから、朔也は試合に熱中するプレイヤーの気分で足を前に進めていた。不自由な足取りが珍しくリズミカルに動く。

 武雄は歩調を合わせてくっついて来る。振り返らなくても、どれくらいの距離が離れているかがわかる。その距離感さえいつものことだ。

 耳に馴染んだ武雄の靴音に、唐突に知らない靴音が絡みついた。耳障りだったから振り返った。武雄が「夏月」と呼んだ、例の茶髪娘がいた。武雄のシャツを掴んで引き止めている。武雄は困ったみたいに夏月を見返していた。

 朔也の足が止まった。光の乱舞が頬を掠めてアスファルトに落ちる。

「どこ、行くの?」

夏月の声は震えていた。

「あの人送って来るだけですよ」

 武雄はぼそりと答えた。落ち着きなく手のひらをジーンズの尻に擦りつけている。

「どこまで?」

「どこまで、って……」

 戸惑うように呟いて、武雄は朔也を見た。朔也は曖昧に視線を逸らした。

武雄は臓腑を吐き出すような溜め息とともに、また夏月の方に顔を戻した。朔也は、二人から二、三歩離れてガードレールに腰かけた。彼らを置き去りにして帰ってしまっても良かったのだが、それではあまりに冷淡に過ぎる。さすがに良心が痛む。

「すぐそこまでです」

 朔也が助け舟を出してはくれないまでも、帰らずに傍にいることに力を得たのか、武雄は強く言い切った。

朔也は踵でガードレールを軽く蹴り上げながら、武雄の肩幅の広い後姿を眺めていた。

「帰りも、ここ通って。待ってるから」

「え……ッ?」

 夏月の縋るような口調に、武雄の声が裏返った。朔也も思わず身を乗り出した。武雄の背中越しに、毛先が痛みきった夏月の茶髪を見やった。

「待たなくても……」

「待ってるからッ。ここにいるからッ」

 夏月はヒステリックに武雄の語尾に被せた。鮮烈にスパークする陽射しが淡白い肌を辛辣に攻め立てている。失敗した日光写真のように視界がぼやけて淀む。

 朔也は眼を細めた。

 何故だか、ひどく不安になった。



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