第二章 永瀬響
チャイムが鳴り響く。
はっとして、顔を上げたら、周囲の学生たちが次々と椅子を蹴り上げて立ち上がるところだった。皆、解答用紙をひらひらさせて教壇へ向かっていく。
「……え」
後悔にもならないような無残な溜め息が唇からこぼれた。
「マジ、か……」
自分で自分が信じられない。まさか、試験中に寝てしまうなんて。試験前だからとバイトも数日休みにしてもらって必死に勉強したのに、ほんとうにどうかしている。
改めて解答欄を見てみれば、半分も埋まっていない。
巻き戻せない時間と愚かな自分を恨みながら、永瀬響は鞄を掴んで席を立った。溜め息が止まらない。
「響!」
教壇に向かって重たい一歩を踏み出した途端、長身の男が教室に入って来た。どの学生たちより頭ひとつ飛び出ている。青いTシャツにジーパン。こざっぱりした清潔そうな髪。性格の柔和さを示すみたいな奥二重の垂れ眼。ちょっと唇が厚い。
千藤正登だった。
学部は違うが、一、二年の必修科目が幾つか重なり、週に何度も顔を合わせているうちに言葉を交わすようになった。
響は特に親しい友人だとは思っていないけれど、正登のほうは毎日のように顔を見せに来る。纏わりつかれていると感じることもないではない。
響はちらりと正登に一瞥をくれてから、答案を教壇に置いた。正登は、響の手元を覗き込んで、おどけるように肩を竦めた。
「まぁた、微妙そうですな。今回も」
「余計なお世話だよ」
響は仁王立ちのようにして立ちはだかる正登を睨みつけた。
「だから、三年のときに選択変更しろって言ったのに。まったく意地っ張りだからさ。卒業出来なくなるぞ」
「一時間もかけて、わざわざそんなことを言いに来たのかよ」
「まさか。最愛の響ちゃんのお迎えに決まってんでしょうが。こんな可愛い子、一人で電車乗せるのは不安だからねぇ」
正登はすっとぼけた口調で答えると、満面の笑みを作った。
こいつの笑顔は純粋なのか、無防備なのか。年齢にそぐわない屈託のなさで、あっさりと響のテリトリーに割り込んでくる。大地に染み込む雨か、木々の隙間を吹き抜ける風みたいに払い除けられない。纏わりつかれて鬱陶しいと思いつつも、気がつけば近くにいる。
「百万回くらい死ね」
響は鞄を肩に掛け、正登の脇をすり抜けた。早足で教室を後にする。すぐに追って来た正登は、当然の権利と言わんばかりの表情で響の隣に並んだ。
階段までの長い廊下は既に閑散としていた。試験期間が終わり、明日から夏休みが始まるのだから無理もない。普段はだらだらと過ごしている学生たちだって行動が素早くなる。
盛夏の兆しに満ちた鋭い陽射しだけが、リノリウム張りの床を滑る。響の靴先がその光の輪郭を弾いて崩壊する。
「どうして、そう口が悪いかな」
響が崩した光の乱舞をなぞって、正登は独特のテンポでついてくる。正登は響より十センチ近く長身で足も長いのに、それを恥じ入るように微妙に揺らぐ歩き方をする。ちょっと右足を引き摺っているようにさえ見えるのだ。一度訊いてみたら、気のせいだと言われた。怪我をしたりしたことはないから、もしそう感じるのならだたの癖だ、と。
「お前がいっつもわけわかんないこと言うからだよ」
「なんでわけわかんないんだよ。俺は響ちゃんのためなら地の果てでも行っちゃうひとよ」
「ちゃん付けもやめろ。うざい」
響は少し歩調を早めた。正登もととっと早歩きになる。靴音が不協和音のようにいびつに重なりあった。
「はいはい。もうしませんよ。で、夏休み、どうすんの?」
「夏休み? なんだよ、どうするって」
響は、急に話題を変えた正登を肩越しに振り返った。正登はまた肩を竦めた。
「どっか行かないかな~と思ってさ」
「どっか?」
「旅行とか」
「そんな暇はない。バイト入ってる」
素っ気なく答えて、響は階段を駆け下りた。
「バイトって~~。マジで?」
独特のリズムを持つ靴音が止まった。響は踊り場で一瞬立ち止まり、ひょいと顔を上げた。
「学生最後の夏だぞ。思い出作ろうって。思い出」
正登は階段の手摺りをばたばたと両手で叩いている。
「思い出って、てなぁ。そういうのは、金も時間も余裕のある連中の妄想なの。俺にはそんなの抱いているヒマはないんだよ」
低く言い放って、響は残りの階段を駆け降りた。
二ヶ月もの夏休みだ。本当のことを言えばバイトの調整がつかないことはない。遊び歩くわけでもないから、ぎすぎすと働かなくても充分足りてはいる。でも、止まったり、遊ぶことに慣れてしまったりすれば、二度と禁欲的に働いたり、地味に暮らしたり出来なくなるような気がする。
自分に自信がない。それほど強くはない。今日だって、大切な試験中に寝てしまった。
「響ちゃ~ん」
正登が二段飛ばしに階段を降りて来て、響の隣に並んだ。
「ちゃん付けするなって言っただろ」
「どうでもいいじゃん。そんなちっちぇ~こと。夏休み、謳歌しようぜぇ。青春しちゃおうって。マジで」
響がむっとしたのを気に留めることもなく、正登は大袈裟に手を振り回して声を裏返らせる。売れないコメディアンみたいだ。
普通にしていれば、そこそこ男前で長身でスタイルもいいから、女の子に受けはいい。対峙する相手を引きつける話術にも長けている。同級生や後輩から告白されたことも一度や二度ではないのに恋人が出来た試しはない。
少なくとも、知り合って以降の正登にはその気配はなかった。しかも、最近は女の子たちから軽口を交わし合う気安い友達の扱いしか受けていない。いわゆる「圏外」と言うやつだ。
「俺に誘われたから嫌なわけ?」
正登はらしくないほどしょんぼりとした声で呟いた。
響はちらりと正登を見上げた。すぐに正登の大きな眼とぶつかった。
「そんなわけないだろ。楽しい夏休みを謳歌するには先立つものがないんだよ」
響は曖昧に笑って見せた。ほっとしたように、正登も笑みを浮かべた。
「そおんなこと気にしてんのかよ~ぉ。旅行ったって、行く先はうちのじいちゃんの別荘だからさ。滞在費タダだよ。タダ」
「お前のじいさんの?」
「鎌倉にあんだよね。あんま使わないから、掃除からしないといけないけどさ。どうよ」
正登は首を傾げて、響を覗き込んだ。響は僅かに眉を引き上げてから、我が身を守ろうとでもするように腕を組んだ。少しだけ身体を後ろへ反らす。
「なんだよ。どうよって」
「だ~か~ら~~ご一緒しませんかって。さっきから言ってるじゃん!」
正登は地団駄を踏みかねない勢いで言い放った。
ちょうど校舎の外を通りかかった女子学生たちが、窓の向こうから怪訝な視線を投げて寄越した。茶がかったすべすべのロングヘアに光の飛礫が幾つも踊っている。プリズムが錯綜して、小さくひしゃげた虹が見えた。渇ききった庭に水を撒いたときのように。
物心ついたときからずっとアパート住まいの響には、庭に水を撒いた記憶なんて一度もない。でも、水が爆ぜて、光の底に七色の弧を描くイメージは容易に浮かんでくる。不思議な感覚だった。薄っすらとした眩暈が脳裡を奔る。
響は軽く頭を振り、唇を引き締めた。咽喉の奥でひくりと呼吸が喘いだ。
「日程は響に合わせるしさ。バイトが長期休めないって言うんなら一泊でもいいしさ」
駄々っ子に言い聞かせるみたいな正登の優しい口調が、何故か遠くに聞こえる。言われている言葉はちゃんと耳に届くけれど、意味が把握出来ない。まるで初めて聞く外国語のように。音のない耳鳴りが蓋をしている。
「……聞いてんの? なぁ?」
「えっ、なに?」
「なに、ってぇ。聞いてなかったのかよ~~ぉ。どっから聞き流してたんだよぉ」
「ごめん。ごめん」
「ごめんじゃ済みません。ったくさぁ。響ちゃんってば、俺に邪険過ぎるよな~ぁ。第二外国語の翻訳ノート、響ちゃんのためにだけスペシャル版作ってやってんだぞ。俺」
正登は天井を仰いで両手を広げた。お手上げのポーズと言うやつだ。綺麗に筋肉の乗った長い腕が響の視界を塞いだ。
「わかってるよ。だから、ごめんって言ってんだろ」
響は正登の腕をひょいと払い除け、エントランスへ向かって歩き出した。コンマ数秒ほど遅れて、正登の靴音がくっついて来た。
十センチ四方の真四角なタイルを規則的に並べたエントランスの床には、コンビニエンスストアのビニール袋やら飴の包み紙やらが落ちている。四隅には分厚く綿埃も積もっていた。廃墟の匂いがする。校内にはまだ賑やかな笑い声がこだましているのに。
「で、どうよ?」
「いいよ」
「へッ?」
響のあっさりとした返事に、正登は拍子抜けしたような声を被せてきた。もっと口説かなければいけないと思っていたのだろう。
「マ、マジでッ?」
「うん。マジで。三、四泊くらいなら、予定立つし」
「後で『な~んてね』っつ~のはナシだぞ」
正登は喜色満面で、跳ねるように響の前に廻った。響は正登を見やって、口角をきゅうっと引き上げた。
「俺の予定に合わせてくれんだろ?」
「うん、うん。勿論」
正登は小刻みに頷いている。
「だったら、別に構わないよ。バイトのシフト見ないといつが空いてるって、いまは言えないけど」
「じゃ、俺、ついてくわ」
「どこに?」
「響ちゃんのバイト先」
「なんでだよ」
響は正登から視線を剥がし、校舎を出た。
頂上近くで君臨する真夏の太陽は鋭利な光の矢を放射している。射抜かれたら焦げついて動けなくなってしまうだろう。逃げ切らなければ夏は乗り越えられない。今年は冷夏だとテレビでは言っていたけれど、きちんと灼熱の一日もやってくる。
響は双眸を顰めて、空を仰いだ。
その瞬間――誰かに見られていると感じた。後からくっついて来る正登のものではない。もっと不躾で不快な視線。
響は思わず周囲を見回した。
だが、明らかにそうとわかる視線の主はいなかった。行き交う学生たちは響になど見向きもせずに、それぞれの会話に興じている。
数歩遅れて校舎を出て来た正登が立ち止まっている響の背中にぶつかった。
「お~ぉっと」
正登ははしゃいだ口調のまま、わざとらしく身体を仰け反らせた。響は鈍く笑んだ。
「くっついて来なくても、シフトのことは夜、電話かメールするから」
「い~んや。一緒に行きます」
正登は芝居がかった仕草で首を振った。
「暇なヤツだな」
「急いで予定立てたいんだよね~~。響ちゃんの気が変わる前にさ」
「勝手にしろ」
そう答える頃には、不快な視線の感触は失せていた。
BLUE・HEAVEN。
新宿西口の高層ビル群に埋もれるように、薄いブルーのネオンパイプでその名前は掲げられている。入口は狭く、急勾配の階段が地下に伸びていた。店内は二十坪ほど。テーブル席は三つあるが、客の八割はカウンターに座る。開店は午後七時、閉店は午前二時。
オフィス街の一角ということもあり、客層はサラリーマンやOLが多い。質は悪くはない方だろう。
響は大学に入学して間もない頃から、この店のカウンター内でシェーカーを振っている。はじめは区別すらつかなかったカクテルも、いまではイメージを言われただけでさらっと作れるようになっている。目をつぶっていてもレシピを誤ることもない。
ギャルソンを模した制服に着替えてカウンターに入ると、店長代理の不破英司が水割りを作っていた。響の挨拶を受けて、英司は見たとも言い切れないような視線を投げ寄越して、微かに頷いた。
今日もワイシャツの下に、身体にぴったりとはりつく薄手のハイネックを着ている。腕はノースリーブ、足はハーフパンツで晒すこともあるのに、首筋だけは完全に覆っている。
冬ならともかく、どんどん暑くなっていくこの時期はきついだろうに。なにか見せたくないものでもあるのか。
例えば、傷痕とかタトゥーとか。
ずっと気になっているのだけれど、訊くことができなかった。
英司は無口で、あまり愛想の良い方ではない。客相手でも笑うことは滅多になく、場合によっては睨みつけるような眼つきになることさえある。それでも、バーテンとしての腕は確かだ。響もカクテルレシピのほとんどを英司から習った。
「相変らず無愛想だな、あいつ」
響の真ん前のカウンター席を陣取った正登が、耳打ちするみたいな小声で呟いた。
正登は英司を毛嫌いしていた。特に何かをされたわけではないから、いわゆるムシが好かないと言うやつだろう。店に来るたびに「眼つきが悪い」とか「愛想が悪い」とか「感じが悪い」とか、飽きることなく繰り返している。だったら来なければいいのにと響が言えば、むっとして黙るけれど、不満そうに口許は捻じれたままだ。
「絶対客商売向きじゃないぞ。あのツラ」
「お前さ。もう俺のシフトわかったんだから帰れば? ここにいたって、くだらない悪態吐くだけなんだしさ」
憎々しげに英司への悪態を吐く正登に溜め息を漏らし、響は冷蔵庫を開けた。
「ほら。これ飲んだら帰れ」
缶ビールを正登の眼前に置いてやる。
「なんで缶のままよ。グラスは?」
「どう飲んでも味は変わらないよ。とにかくさっさと飲んで、帰んなさい」
「追い返さなくてもいいだろ」
正登はぷっと頬を膨らませて、缶ビールのプルリングに指を引っかけた。力任せに引き 開け、咽喉を鳴らして流し込む。
ほぼ空っぽらしい缶をカウンターに勢い良く叩きつけるなり、正登は「俺は負けないからな」と呟いた。唇の端にビールの泡がついている。
「負けないよ。響ちゃん」
スツールから立ち上がって、正登が顔を近づけてくる。響は素早く上半身を逃した。
「主語がないから、わけわかんないよ。もう酔っ払ってんのかよ」
「響ちゃ~~ん」
正登が伸ばした長い腕が首にかかる。蛇のように絡みつく。微妙にビール臭い息が頬に触れた。
「なんだよ」
そう唇が言い放つよりも前に、正登の腕に強く引き寄せられた。短く切り揃えられた髪が頬を掠めて、額が肩にぶつかった。
「あいつ、響ちゃんのこと好きだぞ」
「どいつ?」
「ふざけてないでさ~~」
正登の手のひらが、ばちばちと響の肩甲骨の辺りを叩きつける。
「痛いって。お前普通より図体でかいんだから手加減しろよ」
響は正登の腕を思いきり払い除けた。よろけ落ちまいとするように、正登はカウンターに手をつく。缶が跳ね、ビールの泡が細かく飛んだ。
「最初に会ったときから思ってたんだよ。あいつ、俺のライバルだ」
「くだらないこと言ってんじゃないよ。妄想は聞く耳持ちません。英司さんには綺麗な彼女がいるよ。何度も店に来てる」
言いながら身体を反転させ、響はカウンターの中央に座を占めた女性客に歩み寄った。ピンク色のキャミソールにミニスカートと、水色に白いチェック柄のワンピースの二人連れだ。肌の露出が大きく、ほとんど裸みたいに見える。女たちはマティーニとラムロックを注文した。
いつもの営業用スマイルで頷いて、響はシェーカーに手を伸ばした。視界の片隅に、仏頂面の正登が映った。スツールに座り直し、カウンターに頬杖をついていた。指先で缶を弾いている。
響はジンとドライベルモットの壜を手元に下ろしてから、今度は冷やしたグラスに生ビールを注いで、正登の前に置いてやった。正登はいかにも驚いたように眼を見開いて、顔を上げた。他の客の対応を始めた響からは無視されるものだと思っていたのだろう。
「今度は驕りじゃないからな。ちゃんと帰りに払えよ」
「響ちゃん……」
正登は感極まったように眼差しを綻ばせた。邪気の欠片もない真っ直ぐな光が過ぎった。
「俺、このまま、閉店までいてもいいかな」
正登は生ビールのグラスを両手で包み込んで、照れくさそうに言った。
「いて、どうすんの? まだ六時間くらいあるよ。そんなに飲んでられないだろ。酒、弱いんだからさ」
「ソフトドリンクだってあるじゃん」
「ま、そうだけど」
響はシェーカーにジンとドライベルモットを入れた。大きく輪を描くように廻してから小刻みに振り出す。
「終電なくなるよ」
「それはお互いさまだろ」
「俺は歩いて帰れる」
「普通、響ちゃんちまでって歩く距離じゃないよ」
正登は唇を尖らせた。横目でちらりとカウンターの奥で接客する英司を見やった。
「で、お前の家は、更に、普通歩いて帰る距離じゃないだろ。素直に終電までに帰れよ」
「帰らない。響ちゃん、家まで送る」
「いいよ。送ってくれなくて」
「あいつには送ってもらうのに?」
響はうんざりと溜め息を吐いた。
確かに、英司には良く家まで送ってもらう。でも、それは、閉店作業を終えて店を出る頃には電車もバスもないし、タクシーではもったいないからだ。タクシーで帰宅していては一日のバイト代がぱぁになってしまう。だから、バイク通勤で、家の方角も同じ英司に便乗させてもらうのだ。
響は顰めそうになる眉を誤魔化して、グラスにシェーカーの中身を注いだ。プラスティックの楊枝に刺したオリーブを添え、キャミソールの女の前に置いた。続けて、ラムロックを作り、ワンピースの女に出す。微笑みとともに「ごゆっくり」と言い添えながら、ガラスの小皿に入れたサービスのキスチョコも並べた。
「おかわり!」
響が女たちの注文をこなしている間に一気に飲み干したグラスを突き出して、正登が大声をあげた。
「そんなでかい声出さなくても聞こえてる。みっともないから、やめろよ」
響はまた溜め息を吐いてグラスを受け取った。
「みっともなくて結構。なんかむかつくんだよ」
「なにが」
「仲良く、タンデム」
「まだ、その話なのかよ。くどいな」
響は生ビールで満たしたグラスを正登に戻した。
「くどくもなるよ。帰り、困ってんなら俺に電話してくれればいいのにさ」
「なんで、お前にわざわざ電話するんだよ」
「どこからでも飛んで来る」
正登は再び一気にビールを空けると、すっかり据わった眼で響を見た。グラスを激しくカウンターに置く。内側を白い泡が滑り落ちて底に溜まった。
「人一倍夜弱い癖して。午前二時とかに起きてる人間じゃないだろうが」
響は溜め息混じりの笑いを滲ませた。
「起きてるよ。響ちゃんが電話くれるってわかってんなら、ちゃんと起きて待ってる」
「忠犬ハチ公じゃあるまいし。友達って、そこまでしなくていいんだよ」
その言葉が終わるのを待っていたみたいに、新しい客が入って来た。エリート然とした大柄なサラリーマンだった。布地も縫製もかなり上等なスーツを着ている。はじめての客だ。
「いらっしゃいませ」
響は静かに頭を下げた。男は「こんばんは」と低く応えて、カウンターの右端に座った。メタルフレームの眼鏡越しに切れ長の眼を上げる。視線は響の鼻先ですうっと止まった。眼が合って、響はびくんとする。なんだか値踏みされたような気がした。
(そんなの、ないない! 自意識過剰過ぎっ)
響はすぐに思いきり否定した。
「ご注文は……」
そこまで言いかけたら、ごんっと鈍い音がした。驚いて振り返ると、正登がカウンターに突っ伏していた。なにをしているんだと思う間もなく、湿った寝息が聞こえだした。
(は……マジ、かよ)
アルコールにも夜にも弱いとはいえ、こんなにも唐突に睡魔に負けるものだろうか。眠く鳴ったら、食事中でも遊んでいても構わず寝てしまう幼児となんら変わらないではないか。
(ほんとは何歳なんだ。こいつは)
呆れ顔にならないように、響はひとつ深呼吸した。正体なく眠りこける正登を眺めていたサラリーマン風の男は、端然と微笑んで響に視線を向けた。
「お友達ですか?」
「え、ええ。すみません。あまりお酒に強くなくて。すぐに起こして帰らせますから」
響は困惑を交ぜた笑みを浮かべて、ぺこりと頭を下げた。
「いや。お気になさらずに。あの程度なら可愛いものです。無理に起こして帰らせても、危ないですから。眼を覚ますまでそっとしておいて差し上げたらいい」
男の目尻に綺麗な笑い皺が寄った。老けているというより知的な薫りがする。
仕立ての良いグレイのスーツの襟元には、シルバーとワインレッドで構成された円形の社章が付いていた。どこかで見たことがあるデザインだったが、すぐには思い出せなかった。ひょっとしたら就職活動で取り寄せた資料の中にあったのかもしれない。
「申し訳ありません」
響はもう一度頭を下げた。
「私も若い頃は飲み過ぎて道端で寝ていたことがありますよ」
「道端で、ですか」
「最近はそこまで飲む前にクラクラしますがね」
男は愉快そうに笑って、中指で眼鏡の中央を押し上げた。レンズが店内の照明を反射して鏡のように響の顔を映し込んだ。口許は笑んでいるけれど、眼が見えないから本当はどんな表情をしているのか判断しにくい。
「人間は明日、どうなるかわかりませんからね。羽目を外しておくのも悪くはありませんよ。普通なら二度はない人生です」
男が穏やかに言った。相変わらず表情が読めない。響は返答に困って、首を傾げた。
「たぶん、どう生きたとしても、後悔のない生き方なんて、大抵の人間は出来ません。だったら、そのときそのときのやりたいことをやりたいようにこなしていくのが一番だ」
男は眼鏡から手を離した。レンズから光が消えて、切れ長の瞳が現われた。笑い皺が残っている。
「説教くさくなりましたね。失礼しました。バーボンの水割りとお願い出来ますか」
午前二時――。
あれからずっと眠り続けている正登の間抜けツラを、響は腕を組んで眺めていた。
最後の客が帰って二十分近く経っている。店内に残っているのは、遅番で午後十一時から来たウエイターと英司、響、そして暢気なイビキをかいている正登だけだ。
売り上げのチェックをしながら、英司が口笛を吹いている。
これはなんという曲だったか。どこかで聞いたことがあるけれど、思い出せない。よく知っている曲のはずなのだが。
なんだか思考の奥深いところを削り取られるような息苦しい切なさを感じるメロディーだ。
「良く寝るねぇ、その人」
フロアーにモップをかけていたウエイターが揶揄するように言った。響は「ほんとに」と呟いて、肩を竦めた。
放っておけば、いつまででも寝ているに違いない。いい加減、叩き起こさなければいけない。酔っ払いを放り出しておいて悪いと言う法はないが、友人を閉店後の店内に置き去りでは、あまりに非人情に過ぎるだろう。
「千藤」
響はカウンター越しに正登の肩を揺する。正登はう~んと呻いて、眉根を寄せた。が、起きる気配はない。一層の勢いをつけて正登の身体を大きく揺すった。
「千藤。起きろ。おい、千藤。もう閉店だぞ」
正登は鬱陶しそうに右手を響の鼻先でひらひらさせた。どうやらうるさいと言うことらしい。図々しいじゃないか。
「千藤!」
滅多に出さない大声になった。驚いたように、ウエイターと英司が響を見た。ともに珍しいものを見たとばかりの微妙な表情が張りついていた。そんな顔をされるくらい、響の大声は「有り得ないもの」なのだ。
響は二人に等分の会釈を送ってから、正登起こしに戻った。
「千藤! 起きろって! 閉店なんだよ! 放り出すぞ!」
「う……ん。起きる……起きるよ。響ちゃん」
響に力任せに揺すられて、正登も少しずつ睡魔から追い落とされている。小刻みに頷いては睫毛を揺らした。ゆるゆると薄目を開き、店内照明がまぶしいとばかりに顰めた。
「……響、ちゃん。何時?」
開き切らない両眼で、正登はやっとカウンターから身体を起こした。
「二時七分。閉店したよ」
「あ、ほんとに」
両手で眼を擦り、大きな欠伸をひとつ。どこまでも暢気なお目覚めである。響は怒る気も失せて、正登の前から離れた。洗い終えたグラスが山と積まれた籠を引き寄せ、手際良く水気を拭いはじめた。
「ごめん……響ちゃん。俺。うっかり寝ちゃって」
「だからさっさと帰れって言ったんだよ。お前、夜も酒も駄目なんだから。こうなるの見えてただろ」
それほど不機嫌でもなかったけれど、不機嫌を装って、響は切りつけるような低い声で言った。
「そうだよね。ほんと、ごめん」
「学習能力ってヤツはないのかね、君には。まったくさ」
「そこまでにしたったれよ。弱い酒に負けたうえに、永瀬にそないに言われたら立つ瀬ないやろ」
「え……」
正登をたしなめる響の言葉を遮ったのは、思いがけないことに英司だった。店に来るたびに正登が繰り返している自分への悪態を知らないはずはないのに、笑みとも引き攣りともつかないほど微かに唇を引き上げて、正登の前に氷の浮いたミネラルウォーターを置いた。
響はカウンターに置かれた氷水を見つめた。黄色い店内照明が鋭角に屈折して歪む。捩れた光のラインの向こうに、正登の困惑しきった眼差しがあった。
「タクシー呼んどいたったから一緒に帰り」
関西弁の割にあまり押しの強さを感じさせない柔和なイントネーションが英司の特徴だった。出身は大阪だと言っていたがテレビに出ているお笑い芸人のような毒々しさはない。耳障りの良さにほっと出来るものがあった。
「でも、まだ片付けが」
「ええよ。今日は俺がやっとくから。その代わり、もうはそいつ連れてくんなや」
英司は響の胸元のポケットに一万円札を押し込んで、くるりと踵を返した。背筋の伸びた細身の身体がカウンターの奥へ戻って行く。
「……すみません」
見慣れた背中に、響は深々と頭を下げた。
その流れで振り返って、まだカウンターに座っている正登の額を軽く小突いた。正登はびくんと身体を跳ね上げた。スツールが軋む。
「もうタクシー来てるかもしれないから。先に出て待ってて。着替えて来るから」
そう言い残して、響はロッカールームに下がった。
三畳ほどの狭いスペースに、コインロッカーが五つ並んでいる。従業員はお金を入れる代わりに専用キーを渡されている。左端のロッカーにキーを差し込んで開錠した途端、ドアが開いた。英司だった。
「これ、渡すん忘れとったから。少し、シフトがずれるやろ。預かったまま、なくしたら困るやん」
足音もなく歩み寄って来て、英司は分厚いチェーンタイプのブレスレットを差し出した。
先週、勤務中に留め金が壊れ、困り果てていたら、英司が直してやると言ってくれたのだ。
「あ、すみません。お手数おかけして。直りました?」
「直ったから、持って来たんやろ」
英司はぶっきらぼうに答えて、響からゆるく視線を外した。
「それにしても古いデザインやな。重いし、ごついし」
「はぁ」
響は両手で押し頂くようにして、ブレスレットを受け取った。いぶしたような鈍い光だけを跳ね返す無骨なシルバーチェーン。デザインは二十年近く前のものだ。雑誌などで見かける洗練されたスタイリッシュさはない。だが、亡き父の唯一の形見である。母が結婚記念にプレゼントしたものだと聞いている。
最後の瞬間まで父が身につけていたものだから、どんな形ででもあなたに持っていて欲しいと、響の二十歳の誕生日に渡されたものだった。
父は写真一枚すら残っていなかった。戸籍には名前があるけれど、顔もぬくもりもわからなければ存在しないのと変わらない。だが、このブレスレットひとつで、見知らぬ父が急速にリアリティを帯びた。近くなった。
そして、形見のブレスレットは、着けていないと物足りなく感じるほどに響の身体の一部になった。
「ありがとうございました。おいくらですか?」
「なんやの、それ。えらい他人行儀やんか」
英司は右端のロッカーの端を軽く蹴った。磨き抜かれた革靴に、脆弱なロッカールームの灯りが映っている。
「でも、こう言うことはちゃんとしとかないと。やっぱり。最低でも実費はお支払いするのが礼儀だと思いますし」
言いながら、響はロッカーからバッグを引っ張り出した。手探りで財布を探す。
「いらんて」
「だけど」
「ほんま、いらん」
英司の異様に冷たい手のひらが、財布を探る響の腕を押さえ込んだ。さほど力は入っていなかったが、拘束されたみたいに動けなくなった。
「苦学生が気ぃ使いなや」
「すみません」
「その代わり、今度、デートしてや」
「デート?」
響はきょとんと眼を見開いた。英司の表情はこれっぽっちの変化もない。もともと喜怒哀楽は薄い方だからどんなつもりで「デート」などと言ったのか、表情から本心を探ることは出来なかった。
「メシでもつきあってや」
「あ、ああ。そういうことですか」
「そういうことですよ。なんだと思うたん?」
英司はにやっと笑った。
「なんだってことはないんですけど」
響は照れくさくなって、英司から視線を背けた。バッグを脇に挟み、直ったばかりのブレスレットを手首に巻いた。金具が上手く引っかからない。英司がさっと手を伸ばし、ブレスレットを掴んだ。手際良く金具を留めてくれる。馴染んだ重みが腕に戻って来た。
「よう似合うやん。下手に新しいもんにするよりも永瀬のキャラには、こんなんが合うとるわ。ええの選んどる。自分でこうたん?」
英司がブレスレット越しに手首を叩いた。
「まさか。こんなの買う余裕ありませんよ。父の形見なんです」
「親父さんの形見? 永瀬、母子家庭なんや。知らんかったわ。なんだか意外やな」
「わざわざ言って廻ったりしませんからね。知らなくて当然だと思いますよ」
響は軽く首を傾げた。
「いや。そうやのうて。俺と同じなんやなぁと思うたから」
「英司さんも母子家庭、ですか?」
「もう、おかんもおらんけどな。夏休み、どっか旅行行くんやろ。楽しんで来ぃや」
軽く手を上ると、英司はロッカールームを出て行こうとした。
(ああ、そうだ……)
姿勢の良い長身がドアの向こうに去って行く間際、響は唐突に思い出した。さっき英司が口笛で奏でていたのは『ラクリモーサ』だ。いわゆるモーツァルトの絶筆。最後の曲――『レクイエム』
母の整理箪笥の抽斗に隠されていた古いCDーRの表面にマジックで書かれていた文字が『ラクリモーサ』だった。中学生のときにたまたま見つけて、なんのことかわからずに調べてみたのだ。『レクイエム』は『レクイエム』としか認識していなかったから、『キリエ』だの『サンクトゥス』だの『アニュス・デイ』だのと別れているのをそのときに知った。
以来、なにかにつけて、響の人生の折々にモーツァルトの『レクイエム』がひょっこりと現れる。それが大きなポイントになるわけではない。全部をフルに聴いたことは一度もないし、今回のように耳にしてもとっさに想い出せない場合もあるのだが、いつも何故か関わっている。後から、ああそういえば流れていたと思い出したりもする。
『レクイエム』はしょっちゅう街中で流れているほどポピュラーではない。鎮魂歌だから日常の中で聴くには重すぎるのだ。
それなのに、笑顔が溢れているような場でも、楽しく過ごしていても、響の耳には『ラクリモーサ』が聴こえて来る。まるで刷り込まれてでもいるみたいに。
英司はクラッシックが好きなのだろうか。モーツァルトの『レクイエム』になんらかのひっかかりがあるのか。
一緒に帰ることは多くても、個人的な話はほぼしていない。互いに言葉数が多いほうではない。一言二言喋ると、途切れて黙ってしまう。
でも、彼の口笛で思い出したことを、そう、響の周囲にいつもある『ラクリモーサ』のことを話してみたいと、ふと思った。
「英司さん!」
呼びかけたら、英司の足が止まった。