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Sanctus~聖なるかな~  作者: かきみ
4/7

Hostias   ~ある夏~


 ドア脇の手摺りにもたれて、車窓を流れ過ぎる風景を懸命に追いかける。

 奥脇朔也おくわきさくやは手のひらでぎゅうっと右眼を押さえつけた。物の輪郭や色はわかるけれど、距離感が掴みにくい。

 いままで当たり前だったものが、いかに贅沢であったのか。

 ふたつ揃っているからすべてが綺麗に見えるのだ。ひとつ欠けたら、なにもかものバランスが狂う。わかりにくくなる。

 でも、まだいい。まだしばらくはだいじょうぶ。ひとりで、なににも頼らずに仕事も出来るし、街にも出られる。電車にもバスにもタクシーにも乗れる。もう少し猶予がある。頑張れる。

 期限は絶対ではないが、必ずくる。

 だから、鍵盤の位置も、仕事のための基本的な行動範囲もしっかりと身体に沁み込ませておく。光を失くしても生きていかれるように。白い杖や盲導犬に頼っても、歩みを止めずに済むように。

 いまはなるべく自らの足で街に出ている。

 一応、ピアニストをしている朔也の行動範囲は結構広い。所属事務所のある新宿やレコーディングスタジオのある表参道、ホールのある代々木、恵比寿、銀座、赤坂などなど。

 北鎌倉の家から出歩く先はたくさんあった。日々の大半をレッスンで自宅にいる自分を「引きこもり」なんて称して笑っていたけれど、実際にはかなり外にいる。

 大抵、マネージャーである玉城たまきの車で送迎されていたから、移動距離を意識したことはなかった。

 ひとつ失ったことで、知らなかった自分を知るばかりの毎日だ。ある意味新鮮だった。

 別に悪くない。医者から診断を聞かされたときのダメージが薄れたら、頑張ることが大好きな朔也には新しい努力対象が生まれた。

 ――いまの自分を覚えておく。大切に。とても大切に。

 朔也はふうっと息を吐き、手摺りにこめかみを寄せる。ひんやりとした感触に、見えない右眼がびくびくと瞬く。なんだか頭の芯も痛い。

(ちょっと今日は頑張り過ぎたかな)

 自嘲気味に腹の底で呟いて、朔也はもう一度右眼を押さえた。ゆっくりと身体の向きを変える。途端に、遮断していた車内の雑音があわただしく飛び込んできた。

 すぐ近くで、イヤフォンから零れ落ちる機械的なリズムが聞こえた。その脇では、少女たちがけたたましく喋り合い、笑い転げている。

 両眼がきちんと見えていた頃には、雑多な風景に溶け込んだ当たり前の物音として、気にもならなかった。でも、いまは異様に耳に障る。

 意図的に遮断できるようにもなったから、気づいた時には何倍も鋭く響くのだ。

 新宿への到着を告げる間延びしたアナウンスが、少女たちの騒々しいまでの笑い声の向こうに消えた。

 電車は鈍い軋みを上げて、プラットホームに滑り込んだ。ぎしぎしと悲鳴にも似た礫音が足元から這い上がってくる。目が見えていたらさほど気にすることもなかった音だ。

 車内のほぼ大半が押し寄せて来るような重たい空気の流れがあった。視界が欠けてからはこの駅での乗降がいちばん怖い。ちゃんとうまくこなせるのに、乗り過ごす不安と押し潰される恐怖に怯えてしまう。

 朔也は手摺りを握り締めた。

 鼻先を掠めて人の熱気が集中する。冷房で冷やされていてなお、汗ばんだ湿っぽい肌が二の腕を掠めた。

「……あっ」

 朔也はびくんとして、身を竦めた。

 ドアが開くなり、集まっていた乗客の波が熱の篭もった塊となってホームへと溢れ出していく。傍若無人な塊が、手摺りに縋りついてやっと立っている朔也に無情にぶつかってくる。

 朔也も下車しなくてはならないのに、その勢いに押されて、身を起こすことも出来ない。

 かつて、朔也は人一倍機敏な気質だった。行動も言動も、頭脳も。容姿も秀でていた。それは自他ともに認めるところだった。恵まれた者の常として、多分、人並以下の境遇にある者の気持ちなどわかろうともしていなかった。

 改めて恥ずかしくなる。

 そんなことを考えながら、かろうじて身を起こすと、今度は乗り込んで来る客たちの勢いに肩先を押された。手摺りを握り締めていた力が抜け、膝から崩れ落ちそうなった。誰かの肘が背中に当たった。肩に掛けていたバッグが引っ張られて、ずるりと肘のあたりまで滑った。

「あっ!」

 悲鳴交じりの声が出た。

 瞬間、手首を強く掴まれて、そのまま身体を支えられて車外に引き出された。脳髄が揺らいだ。視界がまだらに眩んだ。

 なにが起きたのかわからなかった。

 気がつくと、朔也は新宿駅の喧騒の中に佇んでおり、さっきまで乗っていた電車は走り出すところだった。

 朔也は双眸を忙しなく瞬いて、まだ自分の手首を強く掴んでいる相手の顔を見つめた。

 長身でがっしりした体型の、黒っぽい服装の男だった。目付きが鋭くて、白目の部分が際立って見えた。

「降りたい時はね、早めに意思表示しないと。誰もいちいち気遣ってなんかくれませんよ」

 口を開いたら、抑え気味にしているもののイントネーションが関西っぽい。

「す、すみません」

 朔也は深く頭を垂れた。

「バッグも引っ張られてたでしょ」

 男は、朔也の手首を解くと、その手にバッグを握らせた。

「これ……」

「間一髪。電車とホームとの間に落ちかけたのを救っておきました」

 男はいたずらっぽい口調で言った。

 朔也は、もう一度、男の顔を見た。シャープで無駄のない輪郭。ちょっと鉤鼻で眉毛が濃い。やはり目許は鋭かった。口調から不機嫌とも思えないのに、口角はへの字に下がっている。

 年齢は朔也より年下――二十歳そこそこだろうと見当はついた。

「ありがとう」

「どういたしまして。これからは気をつけて」

 口角は下がったままだったけれど、男からは包み込むようなやんわりしたぬくもりが感じられた。



 打ち合わせの後、プロデューサーから飲みに誘われたが、朔也は用事があるからと断って事務所を出た。

 ほんとうはなにも予定はなかった。

 酒を飲む場所があまり好きではない。相手が誰でも、バーでもラウンジでも、居酒屋でも出来れば足を踏み入れたくないのだ。リサイタルやイベントなどの打ち上げでもなるべくアルコールの出ないように選んでもらっている。

 せっかく新宿に来たのだから、お気に入りの店のどれかで夕食をとって、楽器店やCDショップ、書店を廻っておきたい。それらの店への移動も覚えておかねばならない。

「どこの店にしようか……」

 朔也はエントランスで立ち止まり、記憶回路を辿る。

 新宿の行きつけは全部で五軒。イタリアン二軒、フレンチ、和食、中華だ。どこも繰り返し足を運んでいるが、ひとりで行ったことはない。予約をせずとも入れるのだったか。この事務所からどう行くのが早かったか。

 こういうこともみな、玉城がやっていたからわからない。北鎌倉の家で留守番をしている玉城に電話をすれば、検索などよりも手っ取り早く教えてもらえるけれど、それでは意味がない。ひとりでなんとかしたい。

 もっとも近いのはイタリアンだ。特に食べたいものはないから、攻撃的な陽射しの中を歩くことを考えても移動は少ない方がいい。

 そう決めてマンションを出ると、いきなり強烈な光が網膜を射抜いてきた。

 朔也はうんざりして、雲ひとつない真夏の濃い青空を見上げた。実際の気温より、灼熱を感じるのは、きっとこの青の濃さのせいだ。避けるものも、遮るものもないから、陽射しは直撃弾となって景色を焼く。

 右眼が鈍く軋んだ。視力を失ってから、瞬きも少ししにくい。強い光の中では余計だった。

 灼熱と眩しさに重苦しくて、息が詰まる。眼球の裏側がちくりと痛む。

 朔也は逃げ込むように地下街への階段を降りた。階段の途中から、凍えるほどにくっきりと冷えた空気が忍び寄ってきた。異様なまでの温度差だ。僅かに汗ばんでいた肌に、一気に鳥肌が立った。

 朔也はシャツ越しの腕を摩った。

 当たり前のことだが、焼き尽くされた地上よりも地下街の方が、歩行者たちの足取りが速い。目的地までの方向を確認して、和典は先を急ぐ人波に流されないように歩く。

 通路の両側には大きなポスターが続いていた。最近人気の出始めた女優が前方を真っ直ぐに見据える化粧品の連作広告だった。微笑んでいたり、拗ねたように唇を尖らせたり、髪をかきあげて艶っぽい視線を流していたり。それぞれデザイン違いの赤いドレスを着ていて、印象に残る。

 朔也は赤が好きだ。

「あ……」

 不意に足が止まった。鼓動が跳ね飛ぶ。どうも驚きには弱い。

「うわ……びっくりした。なんだこれ」

 朔也は思わず呟いてしまった。

 数歩前に、明る過ぎる栗色に染めた肩先までの髪を大きく巻いた女が立っていた。

 高校のクラスメイト・祖父江真波そふえまなみだった。

 当時は気の合うグループにいて、教室だけでなく放課後のファストフード店でもよく無駄話に花を咲かせていた。卒業後は、朔也は音大、真波は美容関係の学校と大きく異なってしまったため、顔を合わせるのは三年前にあった同窓会以来だ。真波は美容を施す側ではなく、施される側――モデルになっている。

 レースの入ったキャミソールに、七分袖のジャケット、チュール風の膝丈スカート。すらりと長い足には、厚底を抱えたサンダルを履いていた。

「びっくりしたのはわたしもよ」

 真波は嬉しそうに笑った。鮮やかなローズのグロスに染められた唇が綺麗に弓なりになる。もともと整っていたけれど、見られる仕事についてより綺麗になったように思う。

「なんか、派手になったね」

 素直に褒められなくて、朔也は曖昧に首を傾げた。

「いやな言い方するわねぇ。相変わらず」

「相変わらずってなんだよ」

「何度も言ったじゃない。せっかくのいい男なんだから、もう少しとっつきやすい感じを出せって」

 真波は朔也の胸元を指差した。つけ睫毛とマスカラで綺麗に作られた大きな瞳に、地下街の照明が飛び込んで光を生んだ。

「俺は普通だろ?」

「どこがよ」

 真波が不満そうにぷっと膨れた。

「だいたいね、三年振りに会って、第一声が派手になったとかあり得ないわよ、奥脇」

「ほんとのことだから素直に言っただけだよ」

「あ~~もう、いやんなっちゃう。最近、良く雑誌とかCMで見かけるよなとか、頑張ってるよなとか、綺麗になったよなとか、そういう感想はないわけ?」

「ない」

 朔也はすぱっと遮断するように言い返した。「なによ。完全に否定? 感じわるぅい」

「だって興味ないから。お前がなにしてても」

「やな男!」

 ばちんと朔也の二の腕を叩き、真波は唇を尖らせた。

「奥脇にちょっとでも期待したわたしの完全敗北だわ」

 そのまま朔也の腕をぎゅぎゅっと小刻みに握る。水色とパールホワイトのマーブル模様のネイルが艶やかだ。さすがモデル。隅々まで手入れが行き届いている。

「……で?」

「で?」

 話題を変える意図をもって発した一言を、真波はそのまま繰り返した。きょとんと朔也を見つめてくる。腕を掴む指先の力が弱まった。

「仕事は?」

 朔也は短く訊いた。

「終わったとこ」

 真波はさらっと即答してきた。朔也の腕から手を放す。爪とグロスがきらっと光った。

「まっすぐ帰る?」

「どうしようか迷ってるのよ。帰っても食べるものなにもないから」

「自炊しないんだ?」

「ひとり分だともったいなくない?」

 確かにそうかもしれない。朔也もひとり暮らしながら、食事などは玉城が支度し、ともに済ませるから、ひとり分の無駄というものを理解していなかった。

「基本的にわたし苦手だしね」

 自虐気味に笑いを漏らしてから、真波は「奥脇はどうするとこだったの?」と質問を返してきた。

「俺も仕事終わったからメシ食いに行こうかと思ってた」

「あらま、奇遇」

 真波がちょっとおどける。朔也は「だろ?」と頷く。

「じゃあ、いやじゃなかったら一緒にディナーでも行こっか」

 話題を出したときから何パーセントかは誘うつもりもあったから、真波から言いだしてくれて、いくらかほっとしている。

「アルコール関係はいやだよ」

「奥脇飲めないの?」

「飲めないんじゃなくて、居酒屋とかバーみたいなのが苦手」

 朔也は首を軽く横に振った。

「飲むのはいやじゃない?」

「アルコールがメインじゃないなら」

「了解了解」

 言いながら、真波はバッグからスマートフォンを取り出した。フラワーチャームがついている。

「わたしがよく行くとこでいいでしょ? 好き嫌いある?」

「特にない」

「更に了解」

 真波はまた綺麗に口角を引き上げた。



 Azzurro・PARDISO。

 真波が急遽予約を入れて、連れて来てくれたのは新宿西口にあるイタリアンだった。

 螺旋を描く階段を上がっていった三階。看板には青い文字が斜めに走っている。

 テーブル席が六つと八脚ほどの椅子が並んだカウンター席。

 朔也と真波が入った時点で半分ほど埋まっていた。

 真波は相当常連らしく、すんなりと最奥の一番広い席に案内された。

 メニューを見ずに海老とマッシュルームのアヒージョ、鶏のレバーパテ、生ハムとサラミの盛り合わせ、バーニャカウダ、そら豆のニョッキを素早く注文し、朔也に飲みものをどうするかとメニューを差し出した。

 朔也はちらっと捲って、あまり深く考えずにジャスミンティーを頼んだ。続けて真波はカシスビアを選んだ。

「奥脇って大食い?」

「普通だと思うよ」

「だったら充分かな。足りなかったら好きに追加していく感じで」

 紙おしぼりで無造作に手を拭きつつ、だんだん真波がそわそわしていく。周囲を何度も見まわし、軽く腰を浮かせて厨房のほうをうかがう。

「……なに?」

 朔也も紙おしぼりを開いて、真波に声をかけた。真波は適当に「うん」と答えて、まだ厨房を眺め続けている。

「なにかあるんだ?」

「ん……ちょっとね」

 真波は上の空っぽく頷いた。

「なんだよ?」

 朔也は手を拭き終えたおしぼりを畳み直した。大きな氷を浮かべたグラスに手を伸ばしてみる。炭酸が入っているのか、細かい泡が蠢いている。一口だけ飲んでみたら、案の定スパーリングウオーターだった。

「おい、祖父江」

 朔也は、紙おしぼりを握り締めた真波の手の甲を指先で突いた。ネイルで彩られた華奢な指が微かに跳ねた。

「どうしたんだよ」

「……え?」

「え、じゃなくて。なにが気になってんの?」

「え……なんで?」

 真波はやっと朔也に意識を戻し、ほんの少しだけ眼を見開いた。長い睫毛が揺れる。

「露骨に厨房のほう見てるだろ」

「そう?」

「そうだよ。なに? 誰か知り合いがいる?」

 もう一口スパークリングウォーターを飲み、朔也は真波と厨房を見比べた。カウンターの向こう側には、白っぽい明るい光のもとでシェフがふたり入っている。どちらも三十代半ばから後半くらい。実に手際よく調理をすすめている。

 どちらかが知り合いなのだろうか。あまり真波と親しくなるような雰囲気ではないが。

「うん、そうじゃなくてね」

 真波は首を横に振った。紙おしぼりをくしゃっと丸めて脇に避ける。

「いるかなぁって思って見てたんだ」

「いつもはいるひとなの?」

 朔也がそう言ったとき、ジャスミンティーとカシスビア、生ハムとサラミの盛り合わせが運ばれて来た。

「わたしが来たときには大抵いるかな」

「シェフ?」

 ジャスミンティーのグラスを真波のカシスビアに近づけて、乾杯の形を作りつつ、朔也は訊いた。

「見習いとかじゃない?」

 真波はそっとグラスをあげて、薄く微笑んだ。朔也は「ふうん」と呟いて、ジャスミンティーを飲む。少し濃い目だ。後味が苦い。

「わたしたちより年下だし」

「若者狙いか」

 からかうみたいに朔也は肩を竦めた。生ハムをひときれ摘まむ。

「わたしが年寄りみたいな言い方しないでよ」

 真波はむっとしてカシスビアをごくっと飲んだ。

「だって、いくつだよ」

「二十一だって」

 唇の泡を舐め取り、真波はグラスを置いた。

「若者狙いだろ、充分」

 咀嚼終えた生ハムを飲み込むために朔也はジャスミンティーに軽く口をつける。

「六歳くらいでしょ。普通よ、普通」

「向こうがどう思っているか次第だよね」

「あーーもう、ほんっとやな男!」

 地下街のときと同じ言い方で真波は不快を主張したが、本気ではないとすぐにわかった。微かにグロスの取れた唇がゆるく笑んでいた。

「告白したとか?」

「……迷ってるとこ」

 笑みが苦笑に傾く。常に自信に満ちた真波らしくない声だった。

「相手、フリー?」

 朔也は続けて運ばれて来たバーニャカウダのビーツに手を伸ばした。アンチョビとにんにくのきいたソースにつけて齧る。ちょうどよい歯ごたえだった。

「彼女はいないって言ってたよ」

「祖父江のことはどう思ってるかわかってる?」

「そんなの確認できるわけないでしょ」

 真波は不満と照れを混ぜ合わせたように、朔也から僅かに視線を逸らした。滑らかな頬にさっと朱が散る。気が強いけれど、こんなところはやはり女性だ。なんだか可愛らしく思える。

 真波にこんな顔をさせる「若者」がとても気になった。

「お待たせしました。海老とマッシュルームのアヒージョと鶏のレバーパテです」

 ちょっと関西風のイントネーションの入った低く穏やかな声とともに、料理が二皿置かれた。さっきまで運んで来てくれた女性とは明らかに異なる日焼けした大きな手だった。

「あ……」

「あっ!」

 朔也と真波はほぼ同時に顔を上げ、同じ音声で違う反応をした。いや、大きく見れば驚きという意味では同じだった。ただ驚きの意味が違う。

 朔也は動揺、真波は歓喜――たぶん、そんな差が出た。

「いらっしゃいませ、真波さん」

 長身でがっしりした体形。黒っぽい服には黒いエプロン。白目の目立つ鋭い目つき。鉤鼻。無駄のない輪郭。

 テーブルの横で静かに微笑んでいるのは、新宿のホームで朔也を支え、バッグまで救ってくれた男だった。

 こんな形で再会するなんて。

 地下街で真波と行き合ったことといい、今日はなんだか奇跡みたいな出来事が続いている。

 こんな日もあるものらしい。

「今日はお休みかと思ったよぉ」

「提出物の締め切りが今日で、大学のほうに行かなきゃならなかったんですよ」

「そっかぁ、大変だねぇ」

 真波の嬉し気な口調は、語尾が甘ったるく伸びた。朔也が知っている真波からは聞いたことのないものだ。

 ほんとうに彼に惹かれているのだろう。

 そういえば、ずっと仲良かったわりに、朔也は真波の彼氏をひとりも知らない。こういうタイプが好きなのかと、感心して彼を見上げたら、ぎょっとするくらいまっすぐな眼とぶつかった。

「は……」

 悪意があるわけではないだろうに、目つきが鋭いから睨まれているみたいで萎縮してしまう。なにか言おうと思ったけれど、声がうまく形にならなかった。

「どっか痛めたりしませんでした?」

 男はトレイを抱え込み、にっといたずらっぽく笑んだ。

「え……?」

 朔也は何故か戸惑う。おかしな会話を振られたわけではない。ホームでの出来事を思えば、ごく普通の流れだ。

 でも、真波の気持ちを聞いた後で、話題の矛先が自分に向くのは気まずかった。いくら男と朔也が同性同士で、彼が真波の想いを知らないのだとしても。

「バッグの中身にも支障なかったです?」

「え、あ……はい。だいじょうぶでした」

 朔也は短く答えて、視線を真波に流した。当然のことながら、真波はびっくりしている。

「真波さんの彼氏だとは」

「彼氏じゃない!」

「彼氏じゃないです」

 真波と朔也はまた異口同音の反応をした。驚きの余韻を色濃く残しているのに、見事な切り返しだった。

「違うんですか?」

 彼がふたり分の返事を受けて、きょとんと眼を見開いた。

「高校の同級生よ。偶然会ったから、じゃあ一緒にご飯食べよっかってなっただけ」

 真波は早口で説明した。彼に誤解されたくないのだろう。

「なるほど」

 納得したのかしていないのか、彼は小刻みに頷いた。



 柴原武雄しばはらたけお

 それが彼の名前だった。イントネーション通りの関西出身。私立大学経済学部の三年生で二十一歳。

 Azzurro・PARDISOでは週に三日から五日、夕方から閉店までアルバイトをしている。

 別に知りたいと思ってはいなかったけれど、何故かいろいろ聞かされる羽目になった。大半は真波の知っている情報だ。たまに飲みものの追加を持って来てくれたときに、柴原自身からが答えてくれることもあったが、真波にとって別段最新情報ではなかったようだ。

 それでも、柴原との会話を楽しんでいる真波の様子が微笑ましかった。柴原も真波を憎からず思っているように見えた。もちろん、お客さんだからという部分もあるにしても、多少年上でもモデルをやっているような美人なら男は興味を抱くものだ。

 真波の想いが成就すればいいのにと願いつつ、会話の中で、朔也がいちばん反応してしまったのは、柴原が鎌倉在住という部分だった。

 大学の近くでバイト先を探したから、必然的に鎌倉から遠くなってしまったと言っていた。通うのは面倒だし、終電は早いけれど、引っ越すつもりはないとのことだった。

 実家住まいではないのに、わざわざ不便な距離を選んだのだ。

「鎌倉が好きで住んでみたかった」のが理由らしい。でも、それなら逆に、近くの大学を選べばよかったはずだ。あのあたりには、柴原が現在通う大学に匹敵するレベルの名門のキャンパスもある。

 悪い子じゃないけど、なんか不思議な感覚の持ち主だと思った。

 そんな相手とふたり、どうせ帰る方向が同じなのだからと、一緒に横須賀線に乗っている。終電の四本前だった。北鎌倉に着く頃には日付が変わってしまう。

 こんなに遅い帰宅になる予定ではなかったのに。

 真波に付き合って、Azzurro・PARDISOには閉店までいた。最後の客になったら、いつもそうしていると言わんばかりにバイトを上がった柴原と三人で店を出ることになった。真波は中央線沿いだから、新宿駅で別れた。

 意外と電車は混んでいて、山手線も東海道本線も、横須賀線も座れなかった。つり革を掴む柴原と少し離れて立ち、朔也は車窓の向こうの漆黒の夜を眺めている。なにを話していいのかわからなかった。真波と別れてからほぼ会話はしていない。

 間もなく朔也の降りる北鎌倉だ。タクシーを拾うか、玉城に迎えに来てもらうか。

 ああ、そういえば、打ち合わせが終わった後に「食事と買い物をして帰る」とメールをしたきり、連絡をしていない。異様に実直な玉城でも、さすがにもう帰宅してしまったかもしれない。

 もっとも、玉城のマンションは朔也の家から徒歩で十分も離れていない。迎えに来てくれと言えば、自室でのんびりしていたとしても飛んできてくれるだろう。

 だからといってこんな時間に呼び出すのは「暴君」過ぎる。素直にタクシーにしたほうが玉城に恨まれずに済む。

「……奥脇さん」

 沈黙を破って、柴原がぼそっと呼びかけてきた。

 朔也は車窓に映りこむ柴原を見やった。柴原もガラスの中の朔也を見ていた。

「次、でしたっけ?」

「柴原くんは鎌倉だよね」

「俺も次で降りますね」

 微妙にかみ合わない会話になった。久しぶりに交わした言葉だったせいだろうか。

「なんで?」

「送ります」

「うん? なんで?」

 朔也は同じ質問を繰り返した。

「なんとなく」

「そんなんで降りたら大変だよ。柴原くん遠くなっちゃうだろ」

 朔也は掠れるような笑いを漏らし、夜の窓で、闇に溶け出しそうな柴原から目を外した。横目でちらっと隣を見た。同じタイミングで柴原もこちらを向いた。

「でも、真っ暗だし。危ないし」

「その条件は柴原くんも一緒だよね」

「俺みたいなのを狙う暴漢とか痴漢ってあんまいないと思うんですよ」

 柴原は怖いことをさらっと言った。深夜の道をひとり歩く朔也の身を案じてくれているようだが、ちょっと言葉の選択を間違えている。朔也もこの手のことに器用なほうではないけれど、こんな言い方はしない。

「俺は危なそうって言いたい?」

「たぶん、俺よりは」

 柴原が大きく頷く。

「奥脇さんの場合にはあり得そうです」

「暴漢はともかく痴漢はないよ、さすがに」

 朔也は少しだけ声のボリュームを下げた。

 車内アナウンスが、北鎌倉が近いことを知らせる。

「それに、タクシー使うつもりだから」

 朔也がそう続けたら、柴原は露骨に安堵の表情を浮かべた。やはり悪い子ではない。

 言葉選びは下手だが。



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