第一章 比嘉智紘
深更の暗闇の底で、スマートフォンが鳴り続けている。
比嘉智紘は耳障りな着信音から逃れるように寝返りを打った。
革張りの冷えた感触が鼻先に触れる。どんなに抗っても、逃げても、機械的で冷たい音色は途切れない。
「……ったく。マジ、か。頼むよ」
醜くひしゃげた呻きを漏らして、智紘はソファーの背もたれを掴んで身を起こした。重たく引き攣れるこめかみを親指で揉みしだきながら手を伸ばし、スーツを探す。
が、指先が届く範囲に布地らしきものはない。
(……え?)
疲労困憊で帰宅して、シャワーでも浴びようとネクタイを抜き、スーツを脱ぎ捨てた途端、珍しく急激な睡魔に襲われた。ハンガーに掛ける余裕もなく、崩れるようにリビングのソファーに沈んだ。
その流れに間違いがなければ、床に上着くらいは落ちていなければおかしい。
いや。上着くらいどころか、もっと多種多様な衣類に触れなければ変だ。
智紘は整理整頓が得意ではない。正確に言うのならば、得意ではなくなった。綺麗に片付けられた場所や空間よりも、雑然としている方が落ち着く。呼吸が楽になる。
服は洗濯機に入れる以外は脱ぎ捨て、新聞も雑誌も読みっぱなし。食べた弁当や総菜のパックを纏める程度のこともできない。簡単な当たり前のことがきちんとこなせなくなった。すべてのことに対して、正しくあることが怖くなってしまったのだ。
恐る恐る体勢を整え、ソファーに座り直したら、微かな自己主張もなく毛布が落ちた。
ぎくりとした。
毛布など掛けた覚えはない。リビングは冷え込んでいたが、毛布や蒲団を取りに行けるくらいなら、きちんとベッドに潜り込んだだろう。
(どういうことだ……?)
鈍い怖気が這い上がってくる。
「電話が鳴っているぞ。警部殿」
上着がやわらかく膝に置かれた。胸ポケットに入ったままのスマートフォンが小刻みに震えている。智紘はぐっと上着を押さえた。
顔を上げると、木原之紀が立っていた。
大きなロックアイスと澄んだ琥珀色の液体が一センチほど入ったカットグラスを手にしている。たぶん、グレンフィディックだ。ウィスキーの中でも特に好みらしく、十二年物、十五年物、三十年物を揃えて飲み分けている。洋酒派の木原に影響を受けて、ビール好きだった智紘もタンカレーを愛飲するようになっていた。
木原は、智紘より六歳上の三十三歳。出会-った頃は警部だったが、二十代の終わりに警視に昇進した。Ⅰ種キャリア採用のエリートだから、そう遠くないうちに警視正になるはずだ。
智紘自身も一応Ⅱ種キャリアで採用されている。対外的には両方をひっくるめてキャリア扱いになっているものの、採用時点でⅠ種は警部補、Ⅱ種は巡査部長。更に、昇進の速度は階級が上になるにつれて大きく異なっていく。
木原は管理官を務めており、現在も殺人事件の捜査本部を指揮している。普通なら頻繁に智紘のもとへ来る余裕はない。それでも、智紘の勤務状況を素早く把握し、巧みに時間を作って逢いに来る。
自分では、少なくとも表向きは立ち直っているつもりなのだけれど、すべてを知っている木原にはそうは見えないのだろう。しょっちゅう睡眠不足できりきりし、部屋も片付けない、食事もまともにしないでは無理もない。
グレンチェックのベストとパンツ姿の木原はしなやかに微笑んで、ソファーの肘掛けに腰かけた。肩が触れそうなほど近くに、木原の端正な横顔がある。右手の親指で厚みのあるリングが鈍く光った。
「……いつ、来たんですか? ドアガードかけてませんでしたか、俺……?」
智紘の問いには答えずに、木原は顎をしゃくるようにして上着を指し示した。
「出なくていいのか?」
「え、ああ……」
智紘は頷いて、上着の身頃を捲る。スマートフォンの振動が止まった。
「さっさと出ないからだよ」
木原は琥珀色の液体を口に含み、人差し指で智紘の額を弾く。関節の目立つ骨ばった長い指が視界を掠める。智紘はゆるく溜息をついて、胸ポケットからスマートフォンを引き出した。
「……毛布、木原さんですか?」
フラップを開きながら、智紘は木原を見やる。
「震えながら寝ていたからな」
「起こしてくれたら良かったのに」
「珍しく熟睡できているのに起こせるわけがないだろ。可哀想だ」
木原は肘掛けから立ち上がり、ダイニングテーブルに歩み寄った。細身のボトルを取り上げ、グラスに注ぐ。やはりグレンフィディックだ。
「そう、ですか……ありがとうございます」
智紘の言葉を受けて、木原が振り返った。微苦笑を浮かべている。
木原は「美しい」に分類される男だ。美貌というのとはちょっと違うが、あらゆる部分が見事に整っている。特に、切れ長の眦のラインとまっすぐな鼻梁の造形がいい。姿勢も良い。
「そんなことより、掛け直さなくていいのか? 署からの召集かも知れんぞ」
木原がグラスに唇を寄せる。
「ひとつ、片付いたばかりなのに……」
智紘は薄暗くなった液晶画面を撫でる。
「智紘がいるのは、そういう所轄なんだよ。たぶん日本一忙しい」
「わかってますよ」
億劫さを誤魔化さずに吐き棄てて、智紘は着信履歴を開こうとした。
再びスマートフォンが震えだした。十一桁の数字が表示される。名前の表示はなかった。
両親を事故で早くに失った智紘のスマートフォンには木原と叔母、従弟のデータしか保存されていない。知り合いの番号であっても名前は出ないのだ。
(……誰の番号だったかな。これ)
智紘は通話開始ボタンを押して、「はい、比嘉」と低く名乗った。相手は無言だ。その後ろを大型トラックが通り過ぎる。
「もしもし? 比嘉ですが?」
相手は相変わらずなにも喋らない。代わりにバイクのエキゾーストノイズが響く。
「もしも~し? 誰ですか?」
智紘が焦れて訊いても、通話の向こうは沈黙のままだ。
「悪戯か、間違いなら、切るぞ」
『……あんたさ』
スマートフォンを耳から外そうとしたとき、はじめて反応があった。
『比嘉……比嘉智紘だよね?』
耳慣れない掠れ声。過去にも聞いた記憶がない。智紘の名前を知っているのだから、まるっきり関わりのない人間ではないと思うのだが、ひっかかりを感じない。
「そう、ですけど」
不意に、通話の向こう側の誰かがくくっと笑う。
『見~ぃつけた。次は、そっちが鬼』
いかにも愉快そうな声が歪んだ。
熟し切った果実が裂けるみたいに鼓動が爆ぜる。
智紘はぞっとして、スマートフォンを放り投げた。ごとんと鈍い音がする。読み散らかした雑誌の隙間に落ちた液晶が青白くちらついた。
「……どうした?」
木原はグラスをダイニングテーブルに置き、怪訝そうに眉を顰めた。
「智紘?」
「……いえ……」
ぎくしゃくと頭を振って、智紘は膝の上着をローテーブルに乗せた。
カットに行く時間が作れず、珍しく長く伸びてしまった髪が視界を塞いで乱れる。咽喉の奥がひゅうと鳴る。
(大丈夫……俺は、大丈夫……)
かつて、木原が何度も言ってくれた御守りのような言葉を脳髄の一番奥で繰り返す。少しずつ鼓動が収まっていく。なんて見事な呪文だろう。
「なにかおかしな電話か?」
「……大丈夫、です。間違い、でしたから」
「間違い?」
問い返す木原の声が不安げに揺れている。
上質なスーツに身を包み、管理官の振る舞いのときには毅然としているが、智紘に対してはいつも過保護な保護者だ。過ぎるくらいに優しく包んでくれる。
だから、つい甘えてしまう。いつも隣にいてくれることを当たり前だと思ってはいけないとわかっているのに。
木原の優しさは本当に罪だ。
「ただの間違い電話にしては動揺していたみたいだがな」
木原はグラスを持ち上げた。ロックアイスが縁にぶつかって澄んだ音をたてる。
「そんなこと、ありませんよ」
智紘はか細く溜息を漏らして、ソファーから滑り降りる。雑誌の間からスマートフォンを拾い上げて、ほんの数分前に表示された番号を確かめた。
(……知らない、よな)
十一個の数字を何度も確かめながら、さほど宛てにはならない記憶を辿る。一致する番号はない、と思う。
「本当は、気になる電話なのか?」
「……いえ」
智紘は曖昧に微笑んで頭を振った。無造作を繕ってスマートフォンのフラップを閉ざしてソファーに投げた。サイドボードに歩み寄って、半分ほどになったタンカレーのボトルを取り出す。
「飲むのか」
「ダメですか?」
智紘はボトルを抱え、木原を見やった。
「一杯だけですから」
「いや、いいよ。好きなだけ飲め。たまにはなにも考えずに飲んだくれたらいい」
「まさか。明日も仕事なのに」
智紘は曖昧に笑んで、キッチンに入った。食洗機の中に伏せられたグラスを掴む。
設備の整ったこのスペースで、智紘は料理などしたことはない。使うのはもっぱら木原だ。ちょっとした酒のつまみ程度なら手際良くさらりと作る。ひとり暮らしをしていればできるようになるものだと言われたが、智紘は六年経っても玉子焼きひとつ満足に作れない。卵を割るたびに黄身を崩し、殻の欠片を落とす不器用さに焦れたのか、木原は手伝えとは言わなくなった。当然、使った食器だって片づけられない。
だから、木原は、智紘がかつてはかなり手際よく家事をこなせていたことを知らない。
(……いま、できてないんだから。どう説明したって信じてはもらえない)
虚ろに溜息を漏らし、智紘はグラスを掴む指先に力を込める。曇りのないガラスの向こうに木原がいる。立ったまま、グラスを口に運ぶ木原の横顔が、何故かいつもより頼りなく見える。
「俺にはなにも隠すな」
「……どうしたんです? 急に」
智紘は静かに瞬いた。
「もし、問題が起きているなら、全部俺に言えよ。少しは力になれる」
木原の頬がぎこちなく軋む。
「なに、言ってんですか? 木原さんに相談するような問題なんて、ありませんよ。そんなことがあれば俺が言わなくても耳に入るでしょう?」
「そうか、そうだな」
「そうですよ」
「ああ。それならいい」
智紘の言葉を素直に信じたのかどうかはわからないが、木原はわざとらしいくらいにやわらかく笑んだ。なんとしても優しくあろうとする表情に胸が痞える。眼球の裏側が鋭く熱を持つ。
「なにか、つまみでも作ろうか」
グレンフィディックのロックを飲み干してから、木原がゆっくりとキッチンに入って来た。そっと智紘の肩を押し退けるようにして冷蔵庫の前に立つ。智紘は食器のほとんど入っていないキャビネットの方へ移動した。
「つまみ作るったって、材料なんかないでしょう?」
「多少は買って来ている」
木原が穏やかに微笑んで冷蔵庫を開く。智紘も一緒になって中を覗いてみたら、ぎっちりと食材が詰まっていた。確実にひとり分ではない。ふたりで食べても一食や二食ではなくならない量だ。
「え……こんなに……?」
「栄養を考えてある。うまく眠れない分は食べ物で補うしかないだろう」
「……木原、さん」
「ああ、心配するな。
木原は智紘の背中を軽く叩いた。
「日付が変わる頃には帰る」
冷蔵庫からエリンギと玉葱、スモークサーモンを取り出しながら、木原が低く呟く。端整な横顔がひどく寂しそうだ。
智紘は言葉を飲み込んで、キャビネットにこめかみを寄せた。抱え込んだタンカレーのボトルが異様に重たく感じられた。
紙コップに漆黒の液体を注ぐ。
例のごとく、朝っぱらから煮詰まっていて焦げ臭い。都内有数の歓楽街を管轄に抱えていようといまいと、警察署などというものは、二十四時間常に誰かが動いている。
当然、コーヒーメーカーも電源が入りっぱなしになっていて、自分で積極的に淹れ直しでもしない限り、まともなコーヒーなど飲むことはできない。
智紘は舌打ちすると、隣のコンビニエンスストアで買って来たサンドウィッチと朝刊をガス台に放り投げ、かつてコーヒーであったはずの焦げた液体をシンクに棄てた。
食器棚の隅からインスタントコーヒーの小瓶を取り出し、蓋を捻り開ける。スプーンを使わずに紙コップに粉を叩き入れる。
「あれ、比嘉さん」
「お?」
智紘は紙コップに半分ほどポットの湯を注ぎ入れながら振り返った。給湯室の入口に宿直明けの重たい瞼を無理に見開いた年下の同僚・皆上が立っていた。マグカップを手にしている。
「おはようございます。随分早いですね」
「そうか?」
智紘は薄い溜息とともに肩を竦める。
「だって、まだ九時まで三十分もある」
皆上は壁掛けの丸時計を顎で指し示して、給湯室に入って来た。
「冷えますよねぇ。今日の最高気温、二度ですって」
「らしいな」
智紘は双眸を細めて朝刊をガス台の上で開く。記事の大項目だけをさらりと読み流す。寝不足で安定しない視界では細かい活字まで読むのはつらい。
結局、昨夜もほとんど眠れなかった。東の空が白みだした頃になって、どうにかうとうとしたけれど、それも眠ったうちには入らないような時間だった。
高校二年の夏から十三年――智紘は、体内に巣食う悪夢を追い払えずにいる。どれだけ疲労困憊していても、アルコールなどで騙してベッドに潜り込んでも、一時間か二時間しか眠れない。目が冴えているわけではなく、ひどく眠いのだ。叶うことならぐっすりと眠りたい。
ごくたまによく眠れたなと思うと、翌日から更にもっと惨い不眠症に襲われる。一時間は愚か、一睡もできない日々がだらだらと続く。
いままさに、この状態に陥っている。今日で五日、まともに眠っていない。これだけ眠れていなくて、活動できる自分が不思議だった。限界と言うほどの露骨な体力低下は感じない。視点が安定しないのも朝のうちだけだ。
そのうち、蝋燭の火が燃え尽きるみたいに、ぽっくりと逝くのではあるまいか。
――それも悪くはない。
十七歳の夏に傷ついて壊れてしまった自分を取り繕い、補い、それまでとは逆のキャラクターを作り上げてきた。乱暴な口調と行動を懸命に馴染ませて、壊れる原因となった隙も、脆弱さも、表に出さないように肩肘を張り続けた。それこそ水面下で必死に足を掻く水鳥のように。
だが、本来の自分の枠に填まらない無理には、そろそろ限界を感じてもいる。
いっそ、燃え尽きれば楽になれる。もう、無理はしなくてもいい。本当は脆い自分を誤魔化さなくとも良くなる。
「ちゃんと、寝てます?」
「あぁ?」
智紘は横目で皆上を見やり、紙コップに唇をつけた。ゆっくりとコーヒーを啜る。インスタントはやはり味気ないが、煮詰まって焦げ臭いものよりはましだ。
「相変わらずの不眠症、ですか?」
「……まぁな」
「大丈夫なんですか?」
「二、三日寝なくたって死にゃしねぇだろ」
智紘は皮肉で満たした笑みを過ぎらせ、残りのコーヒーを飲み干す。
「まぁ、死にはしないでしょうけど。比嘉さんの場合、二、三日じゃないでしょ? いい加減、病院で導眠剤でも貰って、無理にでも寝るようにしなきゃ」
「余計なお世話だ。俺のことを心配する前に自分のことはどうなんだよ、おまえ」
智紘は空っぽのカップをくしゃりと潰してゴミ箱に落とした。
「こっちも余計なお世話ですよ。身体のことは、比嘉さんよりもずっと管理できてます」
「さすが新婚だ。嫁さんがしっかりしてんだろうな」
「そう思うなら、比嘉さんもさっさと年貢収めたらどうですか。もう三十なんだし。独身のまんまじゃ出世もできなくなりますよ」
軽やかに憎まれ口を叩きながら、皆上が器用にマグカップを洗う。
「更に重ねて言う。余計なお世話だ」
「余計なお世話の応酬ですね」
皆上は楽しそうに笑って、マグカップの水切りをして籠に伏せた。左手の薬指で細いリングが光る。
「ほんとにな」
何気ない言葉の端からも苦い吐息が口腔に広がる。よく知っている不快感だ。
十三年前から体内に居座り、出て行こうとしない悪夢の残滓。ヒステリックな狂気の兆し。
共存しなければならないのに、うまく折り合えない傷口が醜悪な膿を流しはじめる。痛まないのに、悲鳴をあげてしまう。
苦しくて、切なくて、つらくて……呼吸すら満足にできなくなる。
智紘はとっさに眉間を押さえ込んだ。
不意に、冷静で規則的な靴音が響いた。廊下のあちこちで聞こえていた騒めきがすうっと静まる。いびつな緊張感が奔る。指の隙間から見上げたら、黒ずくめの集団がいた。
(……木原さん)
群れを引率するのは、無駄なく美しい男。
木原は、智紘が腹の底で発した声の気配さえ察したように、ちらりと視線を流してきた。ほんの一瞬の視線の絡み合いに、腰骨のあたりがひどく疼いた。
木原はゆったりと笑みを過ぎらせて、僅かに歩調を早めた。
早春の脆弱な陽射しが頼りなく風景を撫でるように揺れている。信号が青に切り替わり、歩きだそうとしたとき、背後から肩を掴まれた。ぎょっとして振り返る。
「……木原さん」
やわらかな眼差しの木原がそこにいた。
「飯か?」
「え、ええ。まあ……木原さんは?」
「俺も飯だ」
ダークグレイの三つ揃いスーツを着た木原が、肩を抱き込むように智紘の隣に並んだ。
横断歩道に踏み出すと、肩に触れていた手がするりと落ちる。
「中で取ってくれないんですか? うち、そんなにケチだったかな」
「いや、派手な松花堂弁当が来ていた。俺がむさ苦しい連中と飯を食いたくないだけだ」
「俺と一緒でも同じでしょう?」
訊き返す声に、やはり、どことなく甘えが混ざる。「そんなことはない」と言われることがわかっていて、反対側から切り返す。随分と不遜だなと思いながら。
木原が相手だと無理をしなくていいせいか、つい肩の力が抜けて、構ってもらいたいだけの子どもじみたことをしてしまう。十三年前に止まってしまった時計が少しだけ動く。結構笑ってもいるはずだ。
「智紘はむさ苦しくはないよ。むしろ、智紘と二人きりで食べたいね、俺は」
いかにも楽しそうに木原が微笑む。望んだ通りの返事に、智紘も頬がゆるんだ。ちょっとだらしない顔をしているような気がして、智紘はそっと指先で口角を抑えた。
「なにが食いたい?」
「なんでもいいですよ」
「張り合いのないヤツだな」
木原は横断歩道を渡り切り、慣れたように右に折れる。智紘は半歩ほど遅れて後を追った。
「肉にするか? 魚か?」
「だから、なんでもいいです。木原さんの好きなもので」
「俺も、智紘の好きなものでいいよ」
「これじゃ、決まりませんね」
智紘は木原を見やった。なにが眩しいのか、木原は両眼を強く細めている。切れ長の眦には弱々しい陽射しがちらちらと留まっていた。
「刺身、食えたよな」
「大丈夫です」
「すぐそこに美味い刺身を食わせる店がある。そこでいいな」
木原は目を細めまま、前方を指差す。智紘はまた素直に頷いた。
智紘は木原にノーと言ったことがない。迷うようなことすらなかった。木原の言うこと、やることに間違いはない。ついて行けばいい。「あの日」からずっと絶対的に信頼している。
そんなふうに智紘が縋るせいで、木原は三十六にもなって結婚もできずにいるのかもしれないけれど、どうしても離れられない。こんなに居心地の良い場所は他にない。ひとりになったら、もっと眠れなくなる。
「……そう言えば、もうすぐ誕生日だな」
「もうすぐって言っても来月ですよ」
智紘は歩調を早め、木原に並んだ。肱と肱が軽くぶつかる。
はっとして、智紘は少しだけ距離を取った。冷え切った風が螺旋を描く。智紘は、昼飯程度だからとコートを着て来なかったことを悔やみながら身体を竦めた。
「なにが欲しい?」
「はあ?」
思いがけない質問に声が裏返る。智紘は足を止めた。数歩先に行っていた木原が戻って来た。
「どうした? 昼飯食う時間なくなるぞ」
これ以上ないほど柔和に微笑んで、木原が深く覗き込んでくる。眼差しの滑らかさに、ぞくっとした。
「俺はなにかおかしなことを言ったか?」
木原が怪訝そうに問い、智紘の人差し指を中指で弾く。静電気が奔ったような薄い痺れを感じて、上げようとした視線が、木原の顔にまで辿り着かずに止まった。
右手の親指にシルバーリングがない。なんらかの意味があって、常に填めているというわけではないようだが、見慣れていたものが消えると違和感がある。
(……仕事中は、外してたんだったかな)
智紘は木原の親指を凝視してから、顔を見上げた。
「智紘?」
智紘の視線を受け止めて、木原が笑んだ。あまりに優しくて、切ないほど苦しくなる。
「あ、ああ。いえ……なんでもないです」
「疲れているのか?」
「……疲れてない刑事なんて、いませんよ」
まだ見つめていたいのに、一瞬たりとも目を離したくなどないのに、掴まるのが怖くて、智紘は木原から視線を逃がした。車道を走り過ぎる車の流れを見据える。
「それでも、無理だけはするなよ」
木原が智紘の頬に触れた。大きな手のひらが温かい。
木原以外の誰かにこんなことをされたら、文句のひとつやふたつ言い棄てて振り払うのだが、この手にならいくらでも触れられていたい。すれ違う人たちに変な目で見られたとしても。
「事件が起きなきゃしませんよ」
「しばらく、なにもないといいな」
静かに言い放つと、木原は智紘の頬から手を引いた。その流れで踵を返す。
「……誕生日、欲しいもの考えておけよ」
広い肩幅と背中があまりに頼もしく見えた。
十三年前のように縋りつきそうになるのを懸命に堪え、智紘は小さく頷いた。
頭部のない男の死体が遺棄されていると言う通報は、珍しくまったりとしていた昼下がりの刑事課を殺気立たせた。
(いい飯食って来たのに。余韻に浸るってこともできねぇな。まったく)
智紘は溜息混じりに、現場へ向かう車窓越しの灰色に濁った薄ぼやけた空を眺める。雲を刺すかのように何本もひょろり高層ビルが伸びている。なんとも言えないほど不吉で攻撃的で、いやな光景だった。「忙しい所轄」という木原の言葉が重たく圧し掛かる。
やがて、車は古ぼけたモルタル外壁の三階建てアパートの前で停まった。現場保存の黄色いテープが斜めに張り巡らされ、厳しい顔をした制服警官がその前に立ち塞がっている。
シートベルトを外すのさえもどかしく、智紘は車から飛び出した。野次馬たちの隙間を擦り抜け、制服警官に記章を翳してテープを潜る。数歩遅れて、ここまで運転手を務めた後輩の伊東が続く。
砂利敷きの狭い駐輪場に細い紐を張って、遺体の形が作ってある。普通はチョークで書くが、草地や土、砂利などでは紐を使う。あまり流血の跡はなかった。
紐の傍らに身を屈めたとき、異様に大きくシャッター音が響いた。
(現場写真を撮影されている……)
智紘は顔を上げ、肩越しに周囲を見回した。
鑑識はほぼ終わっている。遺体は運び出され、もう必要な現場撮影などない。マスコミ連中も慣れたもので、許可なく現場を撮ることはない。テレビニュースなどで流れるのは、きちんと規制を守り、それを越えないように撮影された当たり障りのないものだ。先走ってルール違反を犯せば、ギブアンドテイクの不文律を破ることになる。
今度は、立て続けに数回、シャッター音がした。
(後ろか……)
智紘はゆっくりと立ち上がった。
またシャッターが切られる。耳障りな響きに舌打ちして、思い切り振り返った。
アパートの敷地を囲むブロック塀の向こう側――慌てたようにカメラが下ろされた。アーミーコートの袖口がレンズを覆い隠す。黒縁眼鏡の奥で双眸が気弱そうに揺れる。
二十代半ばくらいの青年だった。
肩まで届く金茶色の髪を無造作に束ね、右耳だけに大きなシルバーのピアスをつけている。細い鼻梁と薄い唇に特徴がある。顔立ちそのものは草食動物系でなんとなく可愛らしいが、ブロック塀の高さと、そこから飛び出している上半身のバランスから予測するなら、なにかによじ登っているにしても結構な長身だ。おそらく智紘より背が高い。
「なにを撮っていたんだっ!」
智紘は大股に歩み寄り、ブロック塀の傍に立った。余分な肉厚を丁寧に削ぎ落したような青年の面差しを睨みつける。右耳のピアスはスカルだった。額が広く、眼窩が無駄に大きい。
「答えろ」
「……え、いえ……」
青年は細かく頭を振り、袖で隠していたカメラを抱え込んだ。
「どこの記者だ?」
「記者じゃありません」
「記者じゃない? それじゃあ、なんで現場写真なんて撮る?」
智紘はかっとして、古びていまにも崩れそうなブロック塀を手のひらで叩いた。
「すみません……」
「すみません、じゃわからないだろ。なんで、そんな悪趣味な写真を撮っているんだ? そんなもの、何処が高く買う?」
智紘は双眸に一層の鋭さを込めて、青年を睨みつける。スカルのピアスが、行儀良い歯並びを剥きだしにして不気味に笑う。青年の口角まで引き上がったように見えた。
「降りて、こっちに来い」
智紘は冷たく言い放ち、顎をしゃくって指示した。
「来いって……」
青年が困惑したように頬を掻く。
「早く!」
智紘は眉間により深い皺を刻み、青年を睨み続ける。
「比嘉さん! ちょっと、すみません!」
次の言葉を吐き出そうとしたが、現場の奥にいた伊東に呼ばれた。智紘は青年を見据えたまま、「いま、行く!」と返した。
「名前は?」
智紘は半身を翻しながら、低く訊く。
「はい?」
「何度も言わせるな。名前だよ。おまえの名前」
「すみません……えっと、田野倉、です。田野倉、克海」
青年は少しだけ上擦った声で名乗った。口角が歪む。
「仕事は、カメラマンでいいのか? それとも物好きな盗撮か?」
「いえ……一応カメラマンです。フリーだけど」
「じゃ、田野倉カメラマン。そのカメラの中の写真をすべてプリントして、フィルムだかSDカードだかと一緒に新宿東署の比嘉まで提出しろ」
智紘は、授業終了間際に、チャイムが鳴り出すのを気にする教師のような早口で言い放った。
「提出って……」
「現場写真なんぞ雑誌社に持ち込まれちゃ面倒だからな」
「現場写真なんて撮ってません!」
慌てて、青年――田野倉が叫ぶ。
「撮ってない? 嘘つくな。だったら、なにを撮ってた?」
智紘は足を止めた。踵を返して、数歩戻る。
「なにって……」
「ここで撮るものなんて、現場写真以外ねぇだろ。とにかく、提出しろ。期限は明日だ。守らねぇようだったら、公務執行妨害で逮捕状申請するからな。覚悟しとけよ」
智紘は人差し指を立てて、田野倉を指差した。田野倉は身体を反らせた。黒縁の眼鏡に白い陽射しが頼りなく弾ける。
「必ず持って来いよ。田野倉カメラマン」
智紘は、皆上を伴い、飛ぶように階段を駆け下りる。
「あ! 比嘉さん!」
受付の女性警官が立ち上がって智紘を呼んだ。皆上が先に足を止める。少し遅れて智紘も立ち止まった。
「お客さまで~す!」
「客?」
眼差しを歪め、智紘は受付カウンターに歩み寄った。当然の顔で皆上がついて来る。
「こちらです」
女性警官がカウンター前にいた青年を手で指し示した。
深くくすんだグリーンのダッフルコート。褪せたスリムジーンズに洗い晒しのスニーカー。大きなシルバーのピアス。黒縁の眼鏡。肩に散らした金茶色の髪をヘアクリップでハーフアップにしていた。
例の不躾な自称カメラマン・田野倉克海だった。
紙袋をぐっと胸元に押しつけて、全身を硬直させている。ブロック塀越しの初対面でも思った通り、田野倉は智紘より五、六センチ背が高い。更に案外肩幅も広い。
「なんだ。田野倉カメラマンか」
智紘は双眸を軽く見開いて、小さく頷いた。こめかみから頬の辺りを中指で擦る。
「……こんにちは」
田野倉がぺこりと頭を下げる。
「持って来たの?」
「はぁ」
「素直だね。意外に」
智紘はにやりと笑んだ。田野倉が怯むように身体を窄める。
「ま、逮捕するなんて脅かされちゃ、来るわな。じゃ、見せてもらおうか」
智紘は右手を差し出した。田野倉が素直に手渡した紙袋はずしりと重たい。思ったよりも写真の枚数は多いらしい。
状況の飲み込めていない皆上が、怪訝そうに智紘を見つめている。
「先に行って車出しておいてくれ」
智紘は、田野倉から受け取った紙袋の中身を覗くと、皆上に一瞥をくれた。皆上が戸惑って首を傾げる。
「どういうことですか?」
「ちょっと、このカメラマンくんと話があるんだよ。長くはかからねぇから」
低く無愛想な智紘の声を受けて、皆上の双眸がはじめて田野倉を捉える。不審そうな光が過ぎった。刑事の顔だ。宿直上がりだった皆上は昨日の現場での出来事を知らないが、やはり勘が働くのだろう。普段はともかく、事件に入っているときにはあらゆるものを疑うくらいでなければ刑事は務まらない。
「事件のことで、ですか? それなら俺も」
「事件のことじゃない。個人的なことだ。皆上には関係がないから。一緒にいられても困る。とにかく、先に出ていてくれ」
「個人的なことね」
皆上が少しだけ揶揄するように笑う。
「なんだよ。その笑い」
「いえいえ。さすがに比嘉警部殿は余裕があるなぁと思いまして」
「引っかかる嫌な言い方をすんじゃねぇよ」
智紘は皆上の膝の裏に軽く蹴りを入れる振りをする。皆上はわざとらしいくらいに明るく笑って、身を躱す。
「わお、怖い怖い。とにかく先に行って待機してまぁす」
皆上は小さく敬礼をして、智紘の傍らを離れた。
その背中を横目で見送ると、智紘はロビーの長椅子を指し示した。
「そこ座って」
「急いで、出るんじゃないんですか?」
「起きちまった事件は逃げねぇよ」
智紘は渇いた声で短く笑い、戸惑う田野倉を余所に、長椅子にどかりと腰を下した。智紘のグレイのコートを踏まないように気遣ってか、田野倉は浅く腰掛ける。膝先が不安定に上下する。たぶん落ち着かないのだろう。無理もない。
「警察、はじめてか?」
「……え、ええ、まぁ……」
「ま、こんなとこは縁がねぇに越したことはねぇな。どっちの意味でも」
智紘は背凭れに身を預け、大きく伸びをしてみる。
身体中がヒステリックに悲鳴を上げた。
疲れている。
そして、とても眠たい。眠りたい。全部忘れて、投げ捨てて眠りたい。
だが、やはり眠るのは怖い。眠って、見てしまうであろう夢が恐ろしい。引きずり出されるどす黒い幾つもの亀裂が、眠れない現実よりつらい。
本当のところ、眠りたいのか眠りたくないのか、自分でもよくわからないのだ。
身体は疲弊し切っていて、それを解消するためには、眠るのが一番いい。簡単なことだ。
でも、やはり、怖い。
「あの……比嘉、さん」
不安気に呼びかけられ、智紘は無言で田野倉を見やった。右耳のピアスは横顔を模した三日月に星が寄り添うデザインだ。
「すみませんでした。俺、ほんと、現場写真なんて撮るつもりなんてなかったんです。多分、映ってないと思います。捜査の邪魔はしたかも知れませんけど。何処かに持ち込もうとか、売り込もうとかなんて、少しも考えてなかったし……」
「わかってるよ」
「え?」
智紘があっさりと納得したことに吃驚したのか、田野倉は忙しなく瞬いた。智紘はにっと笑んで身体を起こすと、コートと上着の襟元を素早く整える。
「もし、現場の写真を撮って売り込もうとしてたんなら、俺に咎められた時点で逃げてんだろ。不安そうだったけど、堂々と俺の眼見てたもんな。田野倉カメラマン」
智紘は手にした紙袋を眼の辺りに掲げ、左右に大きく揺する。大量の写真が擦れあう鈍い音がする。
「やましいことがあって、それでもなお、俺の眼を直視できてたんだったら相当にツワモノだけどな。そんなふうには見えねぇよ」
「比嘉さん……」
「更に俺が言った通り全部ちゃんとプリントしてきた。これだけ現像するの金かかるんだろ?」
「え、いえ……たいしたことは」
田野倉が眼鏡越しの双眸を強く細める。
「じゃ、これ。持って帰んな」
智紘は勢いをつけて立ち上がると、田野倉の頭に紙袋を乗せる。田野倉は咄嗟に両手で紙袋を押さえた。
「いい、んですか?」
「いいもなにも、俺はそんなに自分のツラばっかり撮った写真を預かっても困るよ」
「すみません。本当にすみませんでした」
田野倉は紙袋を抱え込んで起立し、深々と頭を下げた。
「なんだって、俺のツラなんか撮ろうと思ったか知らねぇけどさ。時間も労力も勿体ねぇし、そんな物好きもうやめろよ」
「は、はぁ……」
「それじゃ、俺は行くから。あんまり待たせちゃ相棒が可哀想だしな」
智紘は田野倉に手を振ると歩き出した。乾いた靴音が響く。白っぽい大判のタイルを張り合わせたロビーにくすんだ灰色の影が落ちている。自動ドア近くまで行ったが、外には出ずに田野倉のもとへ舞い戻った。
「あ、あの……」
「あのな」
互いの声が重なり合った。
「先にどうぞ。田野倉カメラマン」
「え、いえ。比嘉さんから……」
田野倉は狼狽するように頭を振った。
「いやいや。遠慮せずに、田野倉カメラマン。どうぞ」
「いえ。ほんとに比嘉さんからで」
田野倉が更に激しく左右に頭を振る。
「そんなに頭振っていると酔うぞ。田野倉カメラマン」
智紘は薄く笑んで、腕を組んだ。コートの胸元にいびつな皺が寄る。
「譲り合い続けたらキリがねぇから、俺から話す」
「すみ、ません」
「別に謝るところじゃないけどね。田野倉カメラマンは、この近所に住んでんの?」
「え、なんで……?」
田野倉の声が裏返る。
「一応の身元照会みたいなもんだ。とりあえず教えておいてくれ。最寄駅だけでもいい」
「東中野ですっ」
田野倉は、智紘の語尾にかぶせるように、強く切り返してきた。
「おっ。強く返してきたねぇ」
智紘は揶揄混じりに笑いを落とす。
「あ……すみません」
田野倉はすぐに力を抜き、頭を垂れた。
「すぐ、謝るのはクセなんだな」
「すみま……」
条件反射のように謝罪を口にしかけて、田野倉が唇を噛み締める。
「自分が悪くないのに、むやみに『すみません』なんて言わない方がいい。損をする」
窘めたつもりはないのだが、田野倉は妙に殊勝に頷いた。
「素直でよろしい。田野倉カメラマン」
智紘は腕組みを解いて、コートの胸元に手を突っ込んだ。スーツの上着の内ポケットまで潜らせ、警察手帳を引っ張り出す。挟んであった名刺を一枚抜き取り、数字を十一個書き並べる。
「とりあえず、渡しておく」
智紘は人差し指と中指で挟んだ名刺を田野倉に差し出した。田野倉が両手で受け取る。抱えていた紙袋が落ち、大量の写真とSDカードが飛び出した。
「あっ」
田野倉は慌てて長身を折り曲げた。名刺を手にしたまま、散らばった写真を掻き集める。
「そそっかしいねぇ。田野倉カメラマン」
智紘は苦笑混じりにコートの裾を絡げて屈み込んだ。手際よく写真を拾い、重ねていく。
「……すみません」
智紘から写真を受け取りながら、田野倉は軽く頭を下げる。
「そんなんで、日常生活は大丈夫なわけ?」
「まぁ、とりあえず」
最後の一枚を拾おうとした互いの指先がぶつかり、どちらからともなく手を引いた。
残された写真の中には、すっかり葉を落とした貧弱な枝の隙間にベージュ色のコートを羽織った智紘がいた。驚くほどまっすぐに笑っている。別人の表情みたいで少し居心地が悪いが、たぶん、この笑顔の先には……。
「悪いが……この写真、くれないか?」
「え?」
「モデル代代わりに」
言ってしまってから、智紘はもう取り戻せない言葉を誤魔化すように、拳で唇の端を擦った。
なにを馬鹿げたことを言い出しているのだろう。鏡に映った顔を見るだけでも不快で憂鬱なくせに、自分の写真など受け取ってどうするつもりなのか。
子どもの頃からのアルバムだってクローゼットの奥深く沈めたままなのに。
「で、でも……こんな、下手くそな写真」
「それは、モデルが悪いんだから、仕方がない」
「モデルが悪いなんてこと、ありませんよ。俺にとって、比嘉さんは最高の被写体です」
矢継ぎ早に言い連ねて、田野倉は吐いた言葉の大胆さに気づいたようだった。うろたえまくって両手で口を押さえ込む。せっかく纏めた写真がまた足元に舞い散った。
田野倉は慌てて身を屈め、ばらばらに落ち広がった写真を拾い集める。
「あんた、ほんとに変わってんな」
「え、そう、ですか」
「そうだよ。で、これ、もらっていいか?」
智紘は、田野倉の眼前で写真をひらつかせた。
「構いませんけど」
「サンキュ」
「どうする、んですか?」
写真を掻き集める手を止めて、田野倉は不安げに訊いてくる。
「田野倉カメラマンはどう使ってんの? こんなに撮って」
智紘は写真をじっと見つめた。
「面白いか? 俺のツラなんて」
「面白いとか、そう言うことじゃないんですけど」
「いつ頃から……」
俺を見ていたのか、と問いかけて、智紘は言葉を止めた。
田野倉が持って来たSDカードに保存されていた写真は、あきらかに昨日一日だけで撮影したものではない。さっき拾い上げた写真の中のベージュのコートもここ一ヶ月は着ていない。
百枚を越える写真。一日十枚分のシャッターを切っても最低十日はかかる。
どうして、田野倉は智紘の存在を知ったのだろう。くたびれた三十路の男の写真を撮ろうなどと物好きなことを考えたのだろう。予定があってないような職種の人間をこれだけの枚数追いかける時間は生半可なものではないはずだ。見知らぬ他人にそこまで興味を抱かれるほど、自分に目立つ要素があっただろうか。
「……なに、か?」
田野倉が不安げに双眸を瞬く。智紘は微かに息を吐いた。
「比嘉さん?」
「いや、いい。もう訊かねぇよ」
写真を無造作にポケットに突っ込むと、智紘は立ち上がった。
「……名刺、ありがとうございます」
「まぁ、田野倉カメラマンの住んでいるとこは管轄外だし。役に立たねぇだろうけどさ。お守りみたいなもんで、刑事に顔見知りがいるって、意外に心強いもんだよ」
「顔見知り……」
田野倉は、智紘の言葉の中に埋まっていた単語を拾い上げ、反芻した。
「俺、比嘉さんの顔見知り、なんですか?」
「普通、そうじゃねぇの? 名前と顔が一致してて、話もしたんだし」
「ほんとに?」
田野倉は名刺と智紘の顔を交互に見つめながら身を起こす。
「まあ、カメラマンとモデルなら、他人じゃないんじゃねぇだろ。実際」
さらりと言い切って、智紘はまた右手を出した。
「今度は、なん、ですか?」
田野倉の眉間の困惑が強くなる。
「なんですか、じゃなくて。普通名刺貰ったら自分のも渡さねぇ?」
「あ、ああ……」
田野倉はかくんと頷いて、ダッフルコートのポケットから角の削れたレザーの名刺入れを掴み出した。イントレチャートになった表面が見えて、妙な既視感があった。
周囲に名刺入れを持ち歩く人間はいない。同僚の大半は警察手帳の上面ある名刺入れに挟んでいるし、サラリーマンの知り合いもいない。唯一、身近で持ち歩く可能性のある木原も、例にもれず警察手帳の名刺入れ部分に挟み込んでいた。
もっとも、イントレチャートなど財布やバッグの模様としても珍しくはない。
そうだ。ありふれている。どこにでもある。
(馬鹿馬鹿しい……)
打ち消しつつ、それでもなにかが引っかかる。
やはり、何処かで見たのだろうか。誰かが持っていたのだろうか。
(……いや。それは、ない)
もう一度打ち消して、巡らせた視線がふわりと虚空を滑った。階段の踊り場に黒っぽいスーツの脚が見えた。
(木原さん?)
誰の脚でも似たようなものだと言われるかも知れないが、智紘には木原だけはすぐにわかる。細くはなく、逞し過ぎるほどでもなく。それでいて、しなやかで形が良い。
仕立ての良い三つ揃いのスーツに羽織った黒のナポレオンコートを経由して、眼差しに辿り着く。とっくに智紘に気付いていたのであろう双眸が細められた。微笑みとは異質の穏やかさが目尻を滑る。
黒ずくめの男を二人従えて階段を降りながらも、視線の一部がずっと智紘に留まっている。何気なく見上げただけなのに、木原の眼差しに捕まって、もう動けない。動きたくない。このまま視線の感触に包まれていたい。
「……え、えっと。比嘉さん?」
不安げな声が、木原との繋がりに割り込んでくる。
智紘は少しだけ億劫さを混ぜて、田野倉の方を見やった。首を傾げるようにして田野倉が智紘を窺っている。
――何故、こいつは邪魔をするんだろう。
智紘はぼんやりと田野倉を見据えた。
「名刺……」
ぽつんと呟いて、田野倉が淡いブルーの紙片を突き出した。
智紘は反応らしい反応をせずに、横書きで並ぶ小さな活字を眺めた。田野倉の名前の左上には遠慮がちにフリーカメラマンと添えられている。
「もう、いりませんか……?」
不安を拡大させた掠れた声が鼓膜をすり抜ける。
「いや。貰っとく」
智紘は指先で名刺を摘まみ取った。
田野倉が嬉しくてたまらないと言わんばかりの笑顔になる。表情の作り方がちょっと大袈裟だった。
そのすぐ後ろを早足で木原が通り過ぎる。端正な横顔と、規則的な靴音が切なく胸に響いた。