Dies iræ ~ある初冬~
重たく軋んで門が開く。
臓腑がひっくり返るような息苦しさの中、彼は刑務官に頭を下げた。かつてドラマや映画で何度も見てきた光景。まさか自分がその中に織り込まれる日が来るなど考えたこともなかった。
「……お世話に、なりました」
彼は早足で外界との境界線となる門を出た。振り返るつもりはなかった。六年もの忌まわしい日々が黒くとぐろを巻く場所に未練などがあるはずもない。
どうして、自分がこんな場所に入らねばならないのか。いったい、なにが起きているのか。
彼の持つ知恵らしい知恵を総動員しても答えは出なかった。執行猶予はつかなかったし、再審請求は受け入れられなかった。国選弁護士は限界だと言った。
なにがどう限界だと言うのか。
あの人を「殺した」のは柴原ではない。
あの日、彼が訪ねて行ったとき、あの人は既に冷たくなっていた。もう呼吸をしていないのだと、微笑んでくれることはないのだと、それを確かめているうちに、次々と現れた人間たちが彼を「犯人」に仕立て上げた。
法廷にいる誰もが、彼があの人にひとめ惚れし、ストーカーのように追いかけまわしても受け入れてもらえず、憎さ百倍の逆恨みでの犯行だと判断した。
彼が「殺した」ことは既成事実になっており、刑事や検事、裁判官の欲していたものは理由だけだった。黙秘を貫こうとしたら、とんでもない理由をでっちあげられた。ほんとうのことではないのに、何故か証拠まで付いてきた。
いくら否定しても誰も信じてはくれなかった。味方はいなかった。
彼は法廷で立っているのがやっとだった。反論は愚か、表情さえ凍りついた。
最後には認めざるを得なかった。
「あの人」にほんの僅かでも近づいたことが自分を崩壊させたのだと、いまは悟っている。二ヶ月程度の関わりでは、それほどの背景を持つ人だとは思わなかったけれど。
彼は上擦るような溜息を吐き、小さなボストンバッグを持ち直した。
長い刑務所の灰色の塀と色あせた街路樹の緑が、下手くそなスケッチ画のように歪んでいた。
「……くん!」
背後から名前を呼ばれた。ぎこちなく振り返る。
出迎えてくれる誰かが、まだ自分に残っていただろうか。両親は縁を切ると最後通牒を突きつけてきたし、友人らしい友人もいない。
風景の輪郭は凍えはじめていて、吹き抜ける風も冷たい。彼は薄手のマウンテンパーカーの身頃を掻き合わせた。冬を過ごすには頼りない素材だ。でも、新しく厚手の上着を買う余裕はない。刑務作業で受け取った金はこれからの生活がどうなるかわからないのに、むやみには使えない。
「こっち!」
弱々しい陽射しの中で、細身の女性が手を振っている。
彼は双眸を細めた。
「おかえり」
眩い光の底で、懐かしい人が微笑んでいた。
細いブルーのラインが入ったアイボリーのTシャツに膝丈の濃い茶色のフレアースカート。スカートと同系色のハーフコートを羽織っている。かつては華やかに巻き毛を作っていた明るい茶色の髪が、落ち着いた焦げ茶のボブカットに変わっていた。派手なメイクもつけ睫毛もない。ファンデーションすら塗っているかどうかわからないほどのナチュラルメイクだ。
それでも、とても綺麗なひとだった。
「……どう、して?」
彼は小声で訊いてみた。
「一番に会いたくて、迎えに来たの」
まっすぐな声で応じて、女性がゆっくり歩み寄って来た。彼からボストンバッグを奪い、顎をしゃくって向かい側の車道を指した。
「帰ろう」
赤い中古のアルトが停まっていた。
「……どこ、へ?」
訊き返す声が震えた。
「決まってるでしょ。お店の名前変わっちゃってるけど、新宿で頑張ってるのよ。みんな、待ってるよ」
「社長や奥さんに、会わす顔ないです。俺」
彼は大きく頭を横に振った。
真実とは違っていても、いまの彼は「前科者」だ。
やっていないと叫んだところで、人はそんな言葉よりも司法の判断を信じる。裁判の結果に誤りがあるはずがないと刷り込まれている。実際、こんなことになる以前の彼だって、「冤罪」など怪しいものだと思っていたのだから。
「いまはわたしも経営手伝ってるの。ちょっと形態変えてみたんだけど、絶対気にいると思う」
身を傾けて、女性が覗き込んできた。柴原は後退さった。
「帰って来てよ。すぐには戻れないって気持ちなら、落ち着くまで待ってるから。裁判期間も含めて六年半も待てたんだから、これからだっていくらでも待てる。みんなも同じ考えだよ」
女性は眩しげに眼を細め、静かに笑んだ。
六年半の歳月は彼女の頬に確かな年齢を刻んでいた。彼より六歳上だから、三十四歳になるはずだ。
「……帰ります」
まずは、いてもいいと言ってくれるところで落ち着こう。
なんとしてもゆっくり見定めるのだ。自分の身に降りかかった悲劇の正確な形を。