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ティベリウス・ネロの虜囚  作者: 東道安利
第二章 家族
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第二章 家族 ‐1

 第二章 家族



 1



(前三二年)





 チルコ・マッシモは今日の肉体鍛錬を終えた若者たちを外へ吐き出していた。駆けつけたティベリウスはたちまち人波に呑み込まれた。

 頬が赤く、切れ切れに吐く息が白い。それでもあらゆる方向に首をまわしながら、若者たちの中をさまよう。

 ローマ最大の競技場を出ると、ある者はまっすぐ家路につき、ある者は近くの露店や食堂に立ち寄る。競技場下に並び立つ娼家に消える者もいる。

 そんな人波に翻弄されながら、ティベリウスはたった一人の少年を探していた。至難の業ではあるが、少なくとも彼の自宅はアヴェンティーノの丘にあると言っていたから、この南口で待ち構えて正しいはずだ。

 ティベリウス自身は、今日の鍛錬を家の用事で休んでいた。それがだいたい片づくや抜け出してきたのだが、もしかしたら間に合わなかったのかもしれない。ティベリス川の向こう側から全力で走ってきたが、この寒さである。彼はさっさと帰ったあとかもしれない。

 それでも雑踏の中を駆けまわった。あちらにもこちらにも視線を向け、同じ程の背丈の少年を探した。だが肉体鍛錬をする若者の大多数が、少年やティベリウスより年上である。彼らの体に隠されてしまっているかもしれない。それで見逃してしまったのかもしれない。

 若者たちに肘や膝で小突かれたり、短く怒鳴られたり、客引きの娼婦に五年後にいらっしゃいと片目を閉じられたりするうちに、ティベリウスは苛立ちを募らせていった。もっとも、苛立ちの最たるものは、その少年を探しているという事実だった。用があって、自主的に、求められもせず、怒鳴るでも殴るでも絞め殺すでもない目的のために、必死になって捕まえようとしている。

 ほとんど屈辱だった。

 しかも徒労に終わろうとしている。陽光は見る見る赤みを増していき、人波の勢いも衰えはじめる。

 ティベリウスは苛々と巨大競技場をにらんだ。

 なんでこんな羽目になったんだろう。

 もうまわりは成人の若者ばかりで、子どもの姿はない。あきらめの気持ちが胸をよぎった。

 まったくアヴェンティーノまで足を伸ばさないといけないのだろうか。

 しかしティベリウスは、彼の自宅の正確な場所を知らなかった。

「おやおや?」

 ざわめきの中から、声が聞こえてきた。

「そこにいるのはだれかと思えば、我が親愛なるティベリウス・クラウディウス・ネロくんじゃないのかい?」

 ティベリウスは思わず目を閉じた。

「こんなところでなにしてるんだい? 今日は鍛錬を休む日じゃなかったのかい?」

 ティベリウスは歯を食いしばった。両拳を握りしめた。休みを教えた覚えはなかった。

「そんな一生懸命な様子で、埃にまみれちゃって、どうしたんだい?ここでだれかに会いたくて来たのかい? …はっ、もしかして――」

 ぽんっと手を叩く音がした。

「まさかとは思うけど、ひょっとしてぼくを探してたのかい?」

 ティベリウスは大きく深呼吸した。震える拳を苦労して解いた。それからゆっくりと、このうえなく冷たい目つきを心がけて振り返った。

 人ごみの中に立つ少年は、それほど白々しい顔をしていなかった。ティベリウスを見、肩をすくめてにやにや笑っている。

 明るい金髪に茶色の双眸。

 近くで見る機会ができて初めて、顔にそばかすが散らばっていることに気づいた。

「ルキリウス・ロングス」

 その少年の名を、ティベリウスは呼んだ。

「お前に話がある」

 そんなやりとりが交わされたのは、年末のことだった。





「あにうえ」

 ドルーススが背中に乗ってきた。

「なにをよんでるの?」

 ティベリウスは書物から顔を上げなかった。

「神君カエサルの『ガリア戦記』だよ」

 するとドルーススは目を輝かせた。

「ヴォレヌスとプッロのとこをよんで!」

 ティベリウスは眉をしかめて、肩越しに弟をにらんだ。

「それは第五巻で、今ぼくが読んでるのは、第六巻なんだけどな」

「よんで! よんで!」

 ドルーススは彼のお気に入りの場所でばたばた動いた。

「わかった、わかったよ」

 ティベリウスはしかたなく、第六巻にしおりを挟んで閉じた。長椅子の下に手を伸ばす。『ガリア戦記』全巻を収めた箱が、そこに置いてあった。

 本といえば巻物が主流なのだが、神君カエサルは紙を幾重にも綴じる装丁を採用していた。こういう場合には確かに便利だとティベリウスは思う。読んだところに印を入れておけるし、子どもでも読みやすい。それでも、重々しい感じで巻物を繰る大人の姿がかっこいいとは思うけれど。

 ティベリウスは『ガリア戦記』の第五巻をめくり、ドルーススがねだる箇所を探した。

 戦役五年目、ガリア人に包囲され、絶体絶命のローマ軍。そこでヴォレヌスとプッロという戦士二人が、獅子奮迅の活躍を見せるのだ。神君カエサルによると、この二人は何年も前から上級百人隊長の座をめぐって、ことあるごとに張り合っていたという。

 その二人が、ついに決着の時が来たと防壁から飛び下り、ガリア人の大軍に切り込んでいく。

『ガリア戦記』のほかの箇所はまだ難しくてわからないドルーススだが、この場面だけは大好きでしかたがない。ティベリウスが音読してやるあいだもじっとしていられず、二人になりきって、えいっ、やあっ、と叫びながらおもちゃの木刀を振り、足を蹴り上げて駆けまわる。

 ティベリウスもドルーススの気持ちはわかる。自分だって胸を熱くする。

 だが、さっきまで読んでいたのは第六巻の、神君カエサルによるガリアとゲルマニアの対比考察で、こちらもヴォレヌスとプッロの場面とは別の意味で、心を釘づけにするおもしろさなのだ。

 ものすごくいいところだったのに……。

 音読が終わると、ティベリウスはいつものごとく「もう一回!」とせがまれるのを覚悟した。ところが今日のドルーススは、再び目を輝かせて兄の背中に戻ってくると、こう言った。

「大きくなったら、ぼくもあにうえと一緒に、ヴォレヌスとプッロみたく戦うんだぞ!」

 右拳を盛んに突き上げた。

「二人でばんぞくをいっぱいやっつけるんだぞ!」

 ティベリウスはまた眉をしかめて弟をにらまなければならなかった。

「だめだ、ドルースス」厳しい口調で返した。

「こんな戦い方はしちゃいけない」

 ドルーススは大変な衝撃を受け、エビよろしく反り返った。

「なんで?」

「なんでもなにも、これは百人隊長の戦い方だ」

 ティベリウスは説明した。

「百人隊長は選ばれた勇猛な戦士で、ローマ軍の要だ。でもお前はネロ家に生まれた男として、将来は軍団司令官になることを目指すんだ。それなのに、こんな無茶な戦い方をして大けがをするとか、万が一にでも命を落とすようなことになったら、どうするんだ」

「でっ、でもっ」ドルーススは兄の却下がまだ信じられないようだ。「ヴォレヌスとプッロはカッコいいぞ!」

「かっこいいとかそういう問題じゃない」

「いっぱい敵をたおせば、戦争に勝てるんだぞ!」

「一人じゃ限界がある。何万人も倒せるわけがない。かっこつけて自分の力を過信するやつは、死にたがりだ。ぼくは自分の命を粗末にするやつは嫌いだ」

 ドルーススはさらにのけぞった。

「あにうえはヴォレヌスとプッロがきらいなのか?」

「ヴォレヌスとプッロは命を粗末にしてない。役目を果たしたんだ」

「だったらぼくも――」

「お前はだめ。絶対」

「なんだよ」ドルーススは怒りだした。「ぼくは勇気があるんだぞ。だれよりも強くなるんだぞ。うしろで命令ばっかりしてないで、ぜんえいでいっぱい敵をけちらずぞ。おくびょう者じゃないんだぞ」

「お前はローマ軍司令官を臆病者呼ばわりしてるのか?」

 ティベリウスはいちだんと怖い顔になった。

「司令官が的確に指揮をとるから戦争に勝てるんだ。逆に司令官にもしものことがあれば、軍は総崩れになって犠牲が増えるんだ。部下の命を守るためにも、司令官は無暗に自分の命を危険にさらしちゃいけない。それは敵を大勢倒して軍功を挙げるよりも大切なことだ」

「じゃあ、マルケルスのご先祖さまは?」

 ドルーススが持ち出したのは『ローマの剣』だった。

「マルクス・マルケルスはガリア人の王をいっき討ちで倒したんだぞ。そんでめいよのせんり品をカピトリーノの丘に運んだ、三人目のローマ人なんだぞ」

 それはもちろんティベリウスも知っていた。猛将マルケルスは司令官でありながら敵大将と一騎打ちし、勝利した。敗者から剥ぎとった黄金の武具はユピテル神殿に奉納されたが、そのような名誉を成し得たローマ人は彼が三人目、そして今のところ最後だった。

「ぼやぼやしてると、マルケルスにカッコいいところを全部持ってかれるぞ。ぼくもあにうえも、マルケルスに負けないんだぞ」

 ドルーススは当代のマルケルスに話を移したようだ。大はりきりだ。

「ぼくはゲルマニア人といっぱいいっき討ちして、めいよのせんり品を取るんだぞ」

「だめだ」

 ティベリウスは一蹴した。

「そんな危ない真似はさせない。お前にも、もちろんマルケルスにも」

 ドルーススは顔を歪めた。

「あにうえはぼくと一緒に戦いたくないのかよう…」

「戦うよ」

 ティベリウスはさらりと言った。

「お前が軽率な行動に走らないように、見張らなくちゃ。首に縄をかけてでも、一騎打ちなんてさせないからな」

 ドルーススはすっかりむくれてしまった。彼はその不満たらたらの顔を後ろに向けた。

「カエサル、あにうえがつまんない」

 オクタヴィアヌスは臥台に横たわり、継子二人の様子をずっと眺めていた。彼は思わず吹き出した。

「まあ、ティベリウス、少しはドルーススの気持ちをくんでやれ」

 オクタヴィアヌスに擁護されたドルーススは、勝ち誇った顔を兄に返した。今度はティベリウスが少しむくれた。

 カエサルだって、どっちが正しいかわかってるはずなのに……。

 彼らは今、カンパーニア地方ミセーノにある、カエサル家の別荘にいた。ナポリ湾とヴェスーヴィオ山を臨むこの近辺は、昔からローマ富裕層の別荘地として有名だった。息を呑むほどの絶景が広がるうえに、気候は温暖、さらには本国随一の温泉の名所である。

 この別荘も、以前はルクルスという名高い将軍が所有していた。七年前、オクタヴィアヌスとアグリッパが買い取ったのである。もっとも、保養目的というよりは軍事目的の購入だった。

 セクトゥス・ポンペイウスという男が、共和政支持者の最後の拠りどころとなっていた、彼はたびたび海賊行為をくり返し、ローマ人の食を脅かすまでになった。それでオクタヴィアヌスは、彼を打倒すべく海へ乗り出したのだが、結果は敗北に次ぐ敗北だった。

 ティベリウスが聞いた話は危なげ極まる。

 まず船が難破した。夏だというのに暴風雨に見舞われ、オクタヴィアヌスを乗せた船は、長い間海上で翻弄された。

 それでもシチリアへ軍船を渡していたのだが、途中、敵の猛烈な奇襲に遭った。オクタヴィアヌスはかろうじて最後の一隻で命からがら危機を脱したという。

 そしてついに戦端を切ったものの、セクトゥス軍は強かった。味方の艦隊が目の前で敗北した。

 洞窟に逃れ、沼地に隠れ、そのあいだもオクタヴィアヌスは皮膚疾患を含む数々の禍に悩まされたという。敵に追い込まれ、とうとう友人たちに「殺してくれ!」と叫んだなどという噂まである。

 またあるときは、敵の船を味方のそれと勘違いして、のこのこと近づいていった。あわや捕虜にされかけながらなんとか逃げたものの、途中で道に迷った。さんざんさまよい歩いた挙句、追い打ちをかけるように、お供の奴隷に命を狙われた。「御命頂戴!」とだしぬけに剣を振りまわしてきたのである。

 当時のオクタヴィアヌスはリヴィアへの恋に胸を躍らせる毎日を過ごしていたかと思いきや、実のところ戦では散々な目に遭っていたのだった。

 オクタヴィアヌス側には、セクトゥスに対抗する強力な海軍がどうしても必要だった。そこでアグリッパはこの別荘から五キロほど離れたところにある湖で軍船を新造し、兵や漕ぎ手を鍛えることにした。すぐ眼前の海上には、セクトゥスの軍船が今にも攻撃をかけんと構えていたのだが、アグリッパはまったくひるまなかった。妨害に耐えぬき、ついに三年後(前三六年)、ナウロクスの海戦で決定的な勝利を収めた。マルクス・ヴィプサニウス・アグリッパの名を、全ローマに知らしめた戦いとなった。

 一方、この海戦の直前、オクタヴィアヌスは突然意識不明になったらしい。幕僚たちが眼前の敵戦列を指しながら叩き起こし、なんとか戦闘開始の号令を出させたものの、体調は戻らなかった。アグリッパは、彼が気絶しているあいだに勝負をつけたという。

 セクトゥスとの戦争が終わって後も、このミセーノは軍港として引き続き利用されることになった。それでオクタヴィアヌスは、わざわざここへ足を伸ばしたのだ。もちろんアグリッパも、近くで兵や漕ぎ手の指導にあたっている。すでに数多くの軍船も新造し、待機させている。

 セクトゥス・ポンペイウスはもう亡き人である。オクタヴィアヌスが次に備える相手は、マルクス・アントニウス以外にいない。

 戦争が近づいている。その考えが、ティベリウスの心をいく分暗くした。

 それでも、この別荘はすばらしかった。読書以外にも楽しい時間の過ごし方が尽きない。邸内を散策するだけでも、東方から持ってこられたきらびやかな芸術品の数々が目を奪う。

 冬枯れの庭は広大だった。美食家で有名だった前家主がこだわったのだろう、畑や果樹園まである。鶏や豚をはじめ、生き物が何種類も育てられている。海水を引いた巨大な生け簀まであり、いつでも魚たちが元気に泳いでいる。

 ティベリウスもドルーススもいっときたりとも退屈しなかった。別荘に到着するや、ドルーススはさっそく釣りに夢中になった。その日の夕食では、釣ったヒラメをさばいてもらい、終始自慢げだった。ふんわり焼かれた卵も、兄弟が鶏と戯れながら取ってきたものだった。

 寒さ身にしみる一月だが、この地は風が穏やかだ。空気は澄みわたり、ナポリ湾の景色はいつまで眺めていても飽きない。

 そんなふうに継子二人が楽しんでいるあいだも、オクタヴィアヌスは休んでいなかった。海軍の視察に赴くほか、ひっきりなしに客と会っていた。アントニウスの下にいた元老院議員も、ぽつぽつ訪ねて来ているようだった。

「もう我慢がならない」

 彼らは口をそろえてそうこぼしているという。アントニウスの人柄と才能に魅かれてはせ参じてはみたが、当の男は四六時中なにからなにまで女王の言いなり、もはや愛想が尽きた、ということらしい。オクタヴィアヌスは、そんな悲憤慨嘆する人々を快く迎え入れつつ、着々と地盤を固めつつあるという。

 それは、きっと良い知らせなのだろう。

 今日のオクタヴィアヌスは、ようやく一息つく暇ができた様子だ。継子二人を見て、愉快そうにくつろいでいる。

「二人とも、そろそろ寒くなってきたんじゃないのか? 火鉢だけじゃ風邪を引くぞ」

 彼は臥台から体を起こした。

「どうだ、温泉に入ってあったまらないか? お前たちに水泳を教えるよ」

「入る!」

 ドルーススは跳び上がった。

「およぐ! カエサルとおよぐ!」

 はしゃぐドルーススに隠れて目立たなかったが、ティベリウスも目を輝かせた。二人はいそいそとオクタヴィアヌスのあとについて、邸内の温泉に向かった。

 ローマ人のほとんどは金槌であるのに、オクタヴィアヌスが泳げるとは意外だった。おそらく、長引いたセクトゥスとの戦争で、必要に迫られて体得したのだろう。

 ルクルス邸の露天風呂は。子どもが泳ぎまわって余るほど十分に広い。湯煙のたちこめるなか、しばし水音と楽しげな歓声が響きわたる。

 ドルーススは大はしゃぎで、ときおりティベリウスに叱られた。せっかくカエサルが教えてくださっているのだから真面目にやれ、と。オクタヴィアヌスはそんなティベリウスをなだめ、ほとんどドルーススを好きにさせておいた。やんちゃなちび助の継子が、可愛くてしかたがない様子だ。

 にこにこと喜色満面なドルーススは、継父に両手を引かれてばた足で進む。

「上手だぞ、ドルースス」

 オクタヴィアヌスもまたにこにこと声をかけた。

 ティベリウスは、そんな二人の様子を眺めていた。

 美貌で評判のオクタヴィアヌスだが、体はあざとしみだらけだった。見ていて痛々しいそれらは生まれつきのものもあるが、皮膚疾患による掻き傷や垢すりのし過ぎによるものも多い。体型自体は均整がとれているが、それでも青白くて痩せぎすな印象をぬぐえない。

 右腕の動きがややぎこちないのは、イリリア戦役で負った傷がまだ癒えきっていないのだろう。右膝と左足にも、傷痕が未だに残っている。

 セクトゥスとの戦争に勝利するや、オクタヴィアヌスとアグリッパは、休む間もなくイリリア戦役に取りかかった。アドリア海の制海権を手にし、本国の安全を保障するという、大変重要な戦いだった。戦役は二年余り続いたが、ついに蛮族を制圧し、市民の歓呼を浴びてオクタヴィアヌスは帰還した。それが去年の春なのだが、そこに至るまでにはまた次から次へと生命の危機に見舞われた彼だった。

 従軍商人が、剣を手にオクタヴィアヌスの寝室の前まで来た。なにを考えていたのか、とにかくあわやというところで捕らえられた。あってはならない一大事だが、このときは幸いオクタヴィアヌスにけがはなかった。

 けがをしたのは戦闘中で、敵の投石を膝に受けた。彼が戦で負傷したのはこれが初めてだったが、災難はそれ一度では済まず、二度目は進軍中に橋が崩落した。

 手足に深手を負ったオクタヴィアヌスがうめきながらカエサル邸に運ばれてきたときには、上を下への大騒ぎだった。高熱にうなされる夫を、母リヴィアはつきっきりで看病した。ティベリウスは悪夢を見ているようだった。

 カエサルは軍の最高司令官ではなかったのか。なんでこんな目に遭わなければいけないんだ。

 今ではどうにもしかたがないことだったと考えているが、一時はアグリッパやほかの将軍たちを恨みかけた。

 それでも回復して、今のオクタヴィアヌスがある。体に傷痕が残っているが、幸いにも不自由なく暮らしている。

 ドルーススの手を離し、オクタヴィアヌスは少しだけ距離をとった。ドルーススはばしゃばしゃと手足を動かし、継父を追いかけた。オクタヴィアヌスは陽気に声援を送り、腕を広げて待ち受ける。

 ティベリウスは、じっと二人を見つめていた。

 早く大人になりたい。

 優れた将軍になりたい。

『ガリア戦記』を読むのはそのためだ。

 将軍になって、もっぱら蛮族を相手に国家の防衛に努めたい。内戦は御免だ。

 そして、ぼくが将軍になったら、二度とカエサルを戦場に出さないんだ。





 思いきり水泳を楽しんだら、さすがにドルーススも疲れたらしい。温泉から上がると、ティベリウスの膝に頭を乗せて、気持ち良さそうにうとうとしはじめた。

 ティベリウスも心地よい疲労感に浸っていた。長椅子の背にもたれ、こくりこくりと船を漕ぐ。

 そこへマッサージを終えたオクタヴィアヌスがやってきた。

「おっ、ドルーススは眠ったな」

 にんまりと笑った。

「ちょうどよかった。お前は眠るなよ、ティベリウス。もうしばらく辛抱してくれ」

 ティベリウスはぱちりと目を開いた。

 オクタヴィアヌスはそっとドルーススを抱き上げ、ティベリウスへうなずいた。

「ついておいで」

 ティベリウスはしきりにまばたきを繰り返しながら、オクタヴィアヌスに従った。オクタヴィアヌスは途中でリヴィアにも声をかけ、邸内を進んだ。

 ふかふかの絨毯が敷かれた部屋に来た。中央に黄金で縁取られた長椅子があった。その正面に、少し距離を置いて背もたれのない椅子が置かれ、ひげを生やした男が腰かけている。

 男の前には、画架が据えられていた。

「座って」

 オクタヴィアヌスはリヴィアとティベリウスを促した。

 ティベリウスは隣に座ったオクタヴィアヌスを見上げた。継父は可愛らしくうなるドルーススをあやしていた

「機会があればとずっと思っていた。ドルーススには悪いが、こいつが大人しく座っているわけないものな。今のうちだ」

 彼はティベリウスに片目を閉じて見せた。

「肖像画を描いてもらうんだ。私たちが家族になった記念に」

 妻と継子にそれぞれ笑いかける。

「私たちは家族だ。その証を、ここにとどめておきたい」

 ティベリウスは息ができなくなった。

「あなた…」

 リヴィアが満ち足りた笑みを浮かべ、オクタヴィアヌスと接吻を交わした。それが頭上で展開されなければ、ティベリウスは我を忘れて継父に飛びついていたかもしれない。

 それでもこめかみの継父の接吻を受けると、頬にそのお返しをしがてら、こっそり彼のトーガに顔をうずめた。

 少し、胸が痛かった。

「さあ、前を見て」

 オクタヴィアヌスはそう言い、眠るドルーススの顔を前に向けようと慎重に動いた。

「あっ!」

 ティベリウスはだしぬけに立ち上がった。オクタヴィアヌスの努力を台無しにしかねない勢いだった。

「ごめんなさい!」ティベリウスは頭を下げた。「すぐに戻ります。待っていてください!」 

 言うが早いか、部屋から駆け出していった。

「ちょっと、ティベリウス」

 母の咎める声があとを追った。

 戻ってくると、オクタヴィアヌスが訝しげな顔で待っていたが、ティベリウスの抱えている物を見ると、ぽかんとなった。それからたちまち頬をゆるめた。

「まだ持っていたのか。しかも持ってきていたのか」

 熱い顔をボールで隠しながら、ティベリウスは進んだ。もう一度継父と母のあいだに体を入れる。それから不揃いな縫い目をしっかりとつかみ、ゆっくりと膝の上までボールを下ろす。

 まだほんのり赤い顔に、自然と微笑みが浮かんでいた。

 絵師が筆を動かし始めた。

 一家がこの別荘に滞在したのは、ほんの五日間だった。

 肖像画は、ほかの色々な絵に交じって、カエサル家の食堂にひっそりと飾られた。

 それは、この家族四人が水入らずに過ごした、わずかな時間の一片だった。

 ティベリウスは思い出の地をあとにした。





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