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ティベリウス・ネロの虜囚  作者: 東道安利
第一章 ティベリウス・ネロ
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第一章 ‐7

 


 7



 翌日、濃い青の秋空の下、ティベリウス・クラウディウス・ネロの葬式がフォロ・ロマーノで執り行われた。

 故人の遺体は紫の布をかけられ、演壇の上に安置された。その前には、喪服姿の多くの市民が集まった。前列は多数の元老院議員から成り、騎士階級の有力者やクリエンテスが後ろに続く。喪服姿ではない庶民たちも、式の様子を遠目にのぞいていた。ネロ家の奴隷たちは、演壇の蔭に固まり涙をぬぐっていた。

 演壇上で、ティベリウスは父の追悼演説を行った。嫡男とはいえ、異例の若さで務める大役だった。概要は、故人の偉大な祖先、アレクサンドリア戦役をはじめとする軍事面での活躍、ガリアでの植民地建設、法務官と大神祇官を務め上げた功績、さらにクリエンテスへの人望となった。メッサラ・コルヴィヌスが、その草稿を仕上げていた。

 演説を終え、これが最後と、父の亡骸を一瞥した。ティベリウスは伏し目がちに、それでも足取りはしっかりと階段を下りる。そこに母と、弟と、そして継父が待っていた。

 オクタヴィアヌスが両腕を広げた。継子を胸に固く囲い、小さな耳に唇を寄せて、そのまま長いこと動かなかった。

 ティベリウスはただされるがままになっていた。





 父が燃えていた。

 猛り狂う紅炎に呑まれていた。

 マルスの野が赤く染まった。

 火葬に集まった人々は、次々と木材を投げ入れて炎をあおった。家具をそのままほうる者もいたし、身に着けている装飾品を投げ込む者もいた。  

 炎は天まで届かんばかりに燃えさかった。それでもティベリウスは、父の肉体を滅しているのは、赤々と燃える烈火ではなく、その奥下にある青い炎だと信じていた。ただ静かに青に包まれ、白煙とともにまっすぐ天上に上る。そして神々や祖先に迎えられ、永遠に青い空の世界と一体となる。そう思った。

 だから、悲しむことなんてないんだ……。

「あにうえ、いたい」

 ティベリウスははっとなり、あわててドルーススの手を離した。二人は並んで猛火の前に立ち、天上へ旅立つ父を見送っていた。夢中で炎を見守っていたティベリウスは、いつのまにか、つないだ左手に恐ろしい力を込めていたようだ。

「ごめんよ、ドルースス」

 ドルーススは、手を離せとまで言ったつもりはなかったらしい。急ぎ両手で兄の手を追いかけてきた、その様子に、ティベリウスはたまらなくなって彼をかき抱いた。

「ぼくの片割れ、一番大事なお前」

 はかなげな耳にささやく。

「二人きりになってしまったね」

「あにうえは死なないんだぞ」ドルーススはしっかと兄にしがみついた。「ずっとぼくのそばにいるんだぞ」

 ティベリウスはただうなずき、しきりにこすりつけてくるその頭に口づけした。

 地面を踏みしめる音が聞こえた。

「二人とも、熱いだろう」

 オクタヴィアヌスだった。

「こっちへおいで」

 彼は継子二人をトーガでくるんだ。

 オクタヴィアヌスのトーガ越しに、ティベリウスは見た。女が一人、長い髪をなびかせ、毅然とした足取りで紅炎に近づいていく。

 母リヴィアだった。熱風にもたじろがず、炎のすぐ前まで進み出る。

 そこで、首から黄金の首飾りをはずした。手つきは流れるようで、背筋は水鳥のようにすらりとしていた。翼を広げるように右手に首飾りを捧げ持ち、左手を胸に当てて、動かなくなる。眼を閉じ、一心に祈っているようだ。炎に照らされ、その身は黄金色に染まっていた。

 目を見開くと、母は炎をねめ上げ、首飾りを投げ込んだ。

 熱風が、頬から一粒の滴を飛ばし去った。ティベリウスが初めて見る母の涙だった。





 火葬は、夕暮れ前に終わった。

 母リヴィアをはじめ、女たちは父の骨を拾っていた。男たちは一人また一人と自宅へ帰っていく。

 ティベリウスは母たちを遠目に眺めていた。

 父は旅立った。まだ行く筋かの細い煙がくすぶっているが、それに乗って逝った。マルスの野は平穏を取り戻した。不思議なほど静かだった。

 白い雲が、ゆっくりと青空を横切り、地上に影をつくる。冬の近づきをにおわせる風が、灰を巻き上げて去る。

 父のいなくなった世界は、目に染みるほど澄んでいた。

 肩に手が置かれた。

 見上げると、オクタヴィアヌスがいた。彼の腕に抱かれて、ドルーススはすやすやと眠っていた。

「よくがんばったな、ティベリウス」

 彼は微笑して言った。

「お父上も誇りに思っておられるだろう。最後まで立派に、お前は見送りを果たした」

 ティベリウスはオクタヴィアヌスを見つめていた。しかし、ついにうつむくしかなくなった。

 目が熱かった。必死でこらえ、求めるものがなにか、考える余裕はなかった。

 オクタヴィアヌスは彼の肩をそっと叩いた。

「後のことは心配いらない。この私が、お前とドルーススを守る。大切に育てると約束する」

 彼はおもむろにしゃがみ、ティベリウスと目線を合わせてきた。

「私は、お前たち二人を我が子のように思っているよ」

 ティベリウスは勇気を奮ってもう一度継父を見た。灰色の双眸はとても優しかった。

「私を父と呼ぶ必要はない」

 オクタヴィアヌスは言った。

「お父上と同格に思わなくてもよい。ただ父親代わりとして、信じてほしい。第二の父に守られているのだと、安心してほしい。これからも健やかに育ってほしい。私とリヴィアのそばで」

 震える口元を、ティベリウスは引き締めようとした。ひくつく鼻を抑えようとした。まばたきはできなかった。

「ありがとうございます、カエサル」

 やっとそれだけ言った。

 オクタヴィアヌスは微笑みを少し大きくし、ティベリウスの頬に触れた。

「さあ、我が家へ帰ろう」

 オクタヴィアヌスは立ち上がろうとした。ところがそこで大きくよろめき、口を開ける。だが、ティベリウスがあわてて支える間もなく、彼は地面に片手をついて持ちこたえた。

「まったく」オクタヴィアヌスは眠るドルーススに笑いかけた。「いつのまにこんなに重くなったのだか。もうじき抱けなくなりそうだ」

 踏ん張り、両腕でドルーススを抱え、なんとか立ち上がる。

「あんなに小さかったのにな…」

 ティベリウスへうなずき、継父は歩き出した。ティベリウスはあとを追った。

 ふと、その背中が父のそれと重なって見えた。似てはいないと思っていたのに――。

 父の遺灰は、クラウディウス一門代々の墓に埋葬される。

 自分もいずれ、あとを追う。どれほど長い別れになるかわからないが、ネロ家の男として、父や祖先の前に立つ日が必ず来る。

 そこに、この継父はいないのだろう。彼はカエサルであるのだから。

 ぼくは、どれくらい長くこの人といられるのだろう。

「カエサル」

 意を決して声をかけた。オクタヴィアヌスは足を止めて振り返った。

「ぼくがカエサルを守ります。必ず守れる男になります」

 どんなにはかなくとも、願う。

「それまで、カエサルはぼくを待っていてくださいますか?」

 すべてを、ひとときのあなたに。

「ああ、もちろんだとも」

 オクタヴィアヌスは顔をくしゃくしゃにした。

「私のティベリウス、楽しみに待っているよ」

 群青色の空が、その背に映えていた。





 ティベリウス・クラウディウス・ネロ。

 ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌス。

 二人が、事実上の親子になった日だった。








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