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ティベリウス・ネロの虜囚  作者: 東道安利
第一章 ティベリウス・ネロ
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第一章 ‐6

 


 6



 五日後、クラウディウス・ネロは亡くなった。享年五十二。二人の息子を残して、祖先の下へ旅立った。

 葬式の前に、自宅で最後の別れの場が設けられた。大勢の弔問客が訪れ、遺体と対面した。父ネロは決して友人の多い人ではなかったが、古き有力貴族の家父長であり、元老院議席を占める国家の名士だった。縁者知人にクリエンテス、さらには一般市民も続々足を運んだ。

 ティベリウスは遺体を収めた柩の傍らに立ち、弔問客を迎えた。無理はしなくていいと周りから言われたのだが、務めは果たさなければと思った。

 しかし上手く応対できたかと言われれば、それはおぼつかなかった。幼さもあるが、ともすれば心ここにあらず、ただ茫然と立ちつくすのみだったからである。

 未だ信じられなかった。父ネロは本当に死んでしまった。ほんの五日前だったではないか。体は弱ってはいたが、それでもしっかり話をしてくれた。それが、もう二度と目を覚まさないなんて――。

 柩の中で、父は永遠の眠りについていた。その顔は安らかとは言えず、最後に会ったときと同様、厳しく難しげに見えた。それは病の苦しみというより生前の性格のためだ。ティベリウスはそう思いたかった。

 涙は流れなかった。悲しみさえ湧いているのかわからなかった。ただ喪失感だけが、ぽっかりと体に大きな穴を開けているようだった。

 顔も知らない大勢の大人たちが、次から次へとティベリウスの手を取り、悔やみの言葉を述べては、さめざめと涙を流した。彼らは口を極めて父を称賛した。そんな言葉、父の生前は聞いたことがなかったのだが。それから、ネロ家の坊ちゃんはしっかりしている、それでこそ長男、立派にお父上のあとを継がれるのですよ、などと言いながら、鼻をすすりつつ消えていった。

 ティベリウスはだんだん自分を見失っていく感覚を覚えた。

 あなたたちはなんで泣けるのか。

 あなたたちには父がわかっていたとでも言うのか。

 これは義務だ。しっかりしているように見えるのは、そうするほかできないからで、立派でもなんでもない。

 お願いだからもう、そんな悲痛な顔でぼくに話しかけないでくれ。

「大丈夫か?」

 声をかけられて、はっと我に返った。横からカエサル・オクタヴィアヌスが、心配そうに見下ろしてきていた。

「…はい」

 オクタヴィアヌスは、弔問がはじまってからずっとティベリウスの隣に立ち続けていた。彼は軽くティベリウスの背中を叩いた。

「辛くなったらいつでも言いなさい。無理はするなよ」

「はい」

 彼ら二人だけが、いっときも遺体のそばを離れずにいた。母リヴィアは弔問客のもてなしに忙しく、家じゅうを動き回ってはひっきりなしに奴隷たちに指示を与えていた。ドルーススはしばらく不安げな顔をして柩のまわりをぐるぐる歩いていたのだが、やがて耐えきれず乳母の足にすがりついた。乳母はドルーススを別室へやって、気を紛らわせてやることにした。抱かれて去り際、ドルーススは兄に泣きそうな顔を向けてきた。一緒に行こうと言いたいのは明らかだった。ティベリウスはそれを黙殺した。

 それでも、ティベリウスを励ます存在はオクタヴィアヌスだけではなかった。友人たちが、ティベリウスのために家を訪れた。

 マルケルスが真っ先に現れた。

「お父上の代わりはできないけど」彼はひしとティベリウスを抱きしめた。「君にはぼくがいるからね」

 ぷっくりやわらかな頬が、ティベリウスのそれに当てられた。ひんやりとして、少ししめっていた。

 マルケルスは二歳で亡くした父親を覚えていない。そして継父は、エジプト女王の傍から離れようとしない。

「父上、ティベリウスの後見人にならないのですか?」

 マルクス・メッサラが父親を見上げて訊いた。メッサラは控えめに笑った。

「ぜひともなりたいところだが、たぶん故人はもっとふさわしい人物を指名しているだろうよ」

 そう言って、オクタヴィアヌスをちらりと見た。

「ちぇっ」

 ティベリウスを抱きながら、マルクスは言った。

「いつでも遊びに来いよ。ついでに勉強もしよう。君には雄弁術がとっても必要なんだから。うんうん」

「よく言うよね」

 ネルヴァも家族と一緒に駆けつけていた。

「いつも言ってるけど、静かに勉強したいときはぼくの家がおすすめだからね」

 彼もまたティベリウスを抱きしめた。

 グネウス・ピソまでが、弟と一緒にやってきて、ティベリウスの肩を叩いた。

「がんばっているじゃないか」

 彼は言った。

「それでこそ家父長だ。みっともなくへこたれるなよ」

 ピソたち年長組も姿を見せた。

「ぼくも父上を早くに亡くした」

 ルキウス・ピソは言った。

「そのときは、母上がもっと早くぼくを産んでくれたらとも思ったけどね。でもまぁ、案外なんとかなるもんだから心配するな」

 ピソは、父親が五十歳を過ぎてから生まれた子どもだった。彼の年の離れた姉は、神君カエサル最後の妻カルプルニアである。

「これでわかったでしょ?」

 レントゥルスが、ティベリウスの頭をぐしゃぐしゃかきまわしながら言った。

「ピソのほうが、ぼくよりずっとのんきなんだよ」

「ティベリウス、腹が減っただろう?」

 ファビウスは礼儀を逸しない程度に笑いかけた。

「みんな大好き、揚げパンを持ってきたぞ。母上の手作りでさ、とびっきり甘い」

 ファビウスは弁当箱を見せた。中身はたぶんパンを牛乳に浸して揚げた菓子で、たっぷり蜂蜜がかかっているのだろう。

「それはありがたいな」

 そう言ったのは、オクタヴィアヌスだった。

「せっかくのお友だちの厚意だ。ティベリウス、一緒に召し上がってきなさい」

「でも――」

「ここはもう大丈夫だ。客もだいぶ落ち着いたしな。お前にはまだこれから大切な役目が残っているのだから、休めるときにしっかり休んでおきなさい」

 穏やかだが、断固とした口調だった。それでティベリウスは、ようやく柩のそばを離れた。足が棒のように固まっていた。

「ごきげんよう、カエサル」

 三人はそう挨拶すると、ティベリウスの腕を引いて、中庭の柱廊に出た。

「これ、ドルーススの大好物だよな」

 ピソがファビウスの弁当箱を指して言った。

「持っていってやろう」

「えっ」ファビウスはのけぞった。「あいつの前にこれを置いたら、あっというまに平らげられちゃうよ」

「じゃあ、自分の分はいざ迅速に確保しよう」

 そう言うと、ピソはただちにファビウスの弁当箱に手を出し、パン一切れを口にくわえた。

「行儀悪いなぁ」

 言いながらレントゥルスは二切れも取り上げた。

 ファビウスは大いに傷ついた顔になった。

「おい、一人二枚までだからな」 

 そのあいだ、ティベリウスは黙りこくっていた。素直に三人の厚意に感謝したいのだが、年上にとはいえ、あっさり行動も限界も読まれた自分に腹を立てていた。

「ティベリウス、早く食べないと、この猛禽どもに全部かっさらわれるぞ」

 ファビウスがそう言ったときだった。とたんにばたばたと慌ただしい足音が聞こえ、背後がやけに騒がしくなった。

 だれかが叫んだ。

「カエサルが倒れた!」

 ぎょっとしてティベリウスは振り返った。

「おっと」

 ピソはパンを口に運ぶ手を止めた。駆け出そうとしたティベリウスの腕をつかんだまま、動かなかった。

「心配するな。たぶんたいしたことはない。少し休めば治るから、君はそっとしておくべきだ」

 青くなっているティベリウスに、にやりと笑いかけた。

「さすがにカエサルも、立派に家父長を務めようとする若き継子の前では、カッコつけたらしい」

 人々が柩を安置した部屋へわたわたと駆けていくなか、アグリッパだけが天を仰いでゆっくりと中庭を横切っていった。ティベリウスに気づくと、苦笑を浮かべて首を振った。

 ――大丈夫だから。

 ティベリウスは力なくうなだれた。

 ピソはティベリウスの腕を離し、代わりに肩を叩いた。

「無理しないっていうのも、大人の大事な分別の一つなんだぜ」

 ファビウスは弁当箱を持ったまま、レントゥルスはパンを口にくわえたまま、言葉もなく立ちつくしていた。

 ひたすら自責の念に駆られるティベリウスだが、ピソにうながされて再び歩き出した。

 早く大人になりたい。そう思った。

 そのときふと、騒然とした邸内にあって、微動だにしない人影に気づいた。先祖ガイウス・ネロの像の横に、ひっそりと立っている。

 ユルス・アントニウスだった。翳りのある顔つきで、右往左往する人々を見つめている。

「ごめん」

 ティベリウスは連れの三人に言った。 

「先に行ってて。気になることがあるんだ。カエサルのことじゃなくて」

「どうしたんだ?」

 ピソの問いに、ティベリウスはただ首を振った。

「ドルーススはぼくの部屋にいるはずだから。ありがとう、本当に」

 それから走り出した。

「パンはどうするの?」

 レントゥルスの声が、かすかに耳に届いた。





 ティベリウスに気づくや否や、ユルスは歩き去ろうとした。

「ユルス!」

 ティベリウスが大声で呼びかけると、ユルスは足を止め、うんざりしたように天を仰いだ。

 ティベリウスが駆け寄る。振り返ったユルスは、不機嫌そうに眉根を寄せていた。そしてきつい調子で言った。

「なんだ? 挨拶ならもう済ませただろ。お父上のことは残念だった」

 ほんの少し、悔やみの部分で声が沈んだ。

「違う。そのことじゃない」

 ティベリウスは首を振った。

「話があるんだ。一緒に来て」

 ユルスはますます顔をしかめた。

「あとにしろよ。お前は一応この家の新家父長だろ。ぼくにかまってる場合じゃない」

 家父長といっても、成人するまではその権利を行使できず、後見人に預けることになるのだが。

「大事な話なんだ」

 ティベリウスは言い張った。

 ユルスは人目をうかがうように、鋭い目つきで周囲を見まわした。

「ぼくはもう帰るところだったんだ。アントニアたちがぐずりだしたからな」

 アントニアたちとは、アントニウスとオクタヴィアのあいだに生まれた娘二人のことである。ローマでは、姉妹に平気で同じ名前をつける。ユルスにとっては異母妹である。

「少しのあいだだから」

 ティベリウスはユルスの手首をつかんだ。

 ユルスは険しい顔でティベリウスを、それから手首をつかむ手をにらんだ。それからあきらめたように、深くため息をついた。

 二人の少年が、人々の間を縫うようにずんずん柱廊を進んでいった。やや大きい体格の一方が、もう一方に引きずられているように見えた。

 ティベリウスは彼を邸内の空き部屋に連れ込んだ。

「で?」

 扉を閉めながら、ユルスは苛立たしげに訊いた。

「手短にしろよ。お母様やマルケルスたちが探しはじめるかもしれないからな」

 ティベリウスは向き直った。

「五日前の午後、この家の前でなにをしてた?」

「…本当に手短だな」

 ユルスはため息まじりに言った。

「別になにもしちゃいないよ。散歩してただけだ。お前たちと違って、ぼくはトロイヤ競技祭に参加しないから、いつもどおり、チルコ・マッシモで訓練を終えた帰りにね」

「だったら、なんでぼくを見て逃げた?」

「逃げたって――」

 ユルスは反論しようとしたようだが、ティベリウスの顔つきを見て、結局言葉を呑みこんだ。彼は憎らしげにうめいた。

「お前の目は、まるで罪人を追いつめる冥界の裁判官みたいだな。ぼくがいったいなにをしたっていうんだ」

「そんなこと言ってないよ」

「言ってるようなもんだよ」ユルスは言った。「お前の態度ときたら、情け容赦のかけらもない。いつだって腹をえぐられてるみたいな気になる。もうちょっとやわらかく振る舞えないのか?」

「ぼくはただ本当のことを知りたいだけだ」

「お前に責められちゃ、みんな本当のことを言う前にすくみ上がるだろうよ」

 吐き捨てるように言った。

「ぼくはお前の父上には会ってない」

「知ってる」

 ユルスはまたため息をついた。

 ティベリウスは待った。

 ユルスはまるで助けを求めているかのように、目線を左右に投げた。それから落ち着かなげに指で太腿を叩き、膝をゆらした。眉根を寄せては伸ばして、唇をすぼめては引き結ぶをくり返した。

 ティベリウスは黙って待った。

 ついに、ユルスは肩を落として言った。

「…もう終わったことなんだけどな」

「なにが?」

 間髪入れない追及に、ユルスは最後の抵抗もあきらめたようだった。

「アンテュルス兄さんから手紙が来た」

 ティベリウスは小さく息を呑んだ。ユルスは沈んだ声で続けた。

「前から何通か来てはいたんだ。『お前も、もうぼくが父上のところへ向かったのと同じ年だから、早くこっちへ来い』って」

 こっちとは、エジプトかエフェソスのことなのだろう。

 ユルスの兄アンテュルスは、二年前に継母や弟妹から離れ、父アントニウスの下へ向かった。義弟マルケルスによると、彼は弟たちがいくら止めても聞かなかったという。涙ながらにかき抱くオクタヴィアをも振りきって、旅立ったと。

「ぼくはずっと迷ってた」ユルスは言った。「こんなに迷うくらいなら、いっそあのとき兄さんについていけばよかったって、何度も思ったよ。でも、結局ぼくは行けなかった…」

 ティベリウスは思わず目を伏せた。その理由は察しがついた。ユルスはオクタヴィアの哀願を退けることができなかったのだ。

 ユルスは三歳で実母フルヴィアを亡くした。以来、今日まで彼を我が子同然に育ててきたのは継母オクタヴィアだった。血のつながりはなくとも、ユルスにとってはオクタヴィアこそ、母の愛情を注いでくれた人だ。

 一方、彼より二歳年上のアンテュルスは、実母の記憶も濃い。そして彼はアントニウスの長男だ。もし命令があれば、従って当然だった。

 あの日以来、兄弟二人は引き裂かれたままである。

「兄さんには、『ぼく一人じゃ、どうやって行けばいいのかわからない』って返事をした。お母様に協力を頼めるわけないもんな」

「オクタヴィア様は、手紙が来てること、知ってるのか?」

「もちろん。自分の手でぼくに渡したよ。封も切らずに。それで訊くんだ。『アンテュルスは元気でいるの? ちゃんと食べているかしら? あの子の好きなお菓子を送ったら、食べてくれるかしら。あの子はのどが弱いから、乾いた土地で辛い思いをしていないかしら』って…」

 うめくように話すユルスに、ティベリウスもやりきれなくなった。

「行けないよ、これじゃ」

 ユルスはぽつりと言った。

「それでも兄さんは、『父上の支持者が毎日みたいにローマからこっちに来てるんだから、お前もその人たちについてくればいい』って、書いてきたんだ。そのとき、ぼくは兄さんの言うとおりにしてみようかと思った」

 ユルスは苦しげに額に手を当てた。

「実際、何度か声をかけられたんだ。『一緒に父上に会いに行かないか』ってね。元老院議員もいた。たいていお母様の奴隷に追い払われたけど」

 寒気が、ティベリウスの背中をすっと伝った。

 ユルスは鋭くティベリウスを見た。

「このあいだの手紙で、兄さんはこう書いてきた。『だれに同行すればいいかわからないなら、ティベリウス・クラウディウス・ネロに頼んでみろ。あの人は父上の味方だから』」

 氷塊に貫かれたような衝撃だった。実際、ティベリウスはぐらりと後方によろめいた。

 ユルスは冷淡に続けた。

「それからこうも書いてあった。『父親が来れば、餓鬼のティベリウスもついて来なきゃならなくなるはず。マルケルスからお気に入りのお守を奪ってやれ』」

 視界が明滅し、全身が砕かれたような錯覚を覚えた。

 まったく予想していなかったことではなかった。心のどこかでずっと恐れていた。それが今、はっきりと悪意となって姿を現わした。

「それであの日、ぼくはその手紙を持って、お前の父上のところへ行くつもりだった」

 眩む目を見開き、ティベリウスは床の一点を凝視した。

 もし父に一緒に東方へ行くよう言われたら、断ることができただろうか。できたはずがない。

 もしそんなことになっていたら、ぼくは、母は、ドルーススは――。

「でも結局、ぼくはお前の父上に会わなかった。門番に声をかけることさえしなかったよ」

 ティベリウスはぎゅっと目を閉じた。内心で激しく首を振った。

 馬鹿げている。ユルスと面会しようと、父はアントニウスの下への同行など拒否したに違いない。もちろん、そもそもそんなことができる体ではなかったが、それ以前にアントニウス側につく気などなかった。これまでどのような経緯があったにせよ、ひと月前、ティベリウスに近づくアントニウス支持者を追い返したのだし、第一、五日前のあの時、容赦なく切って捨てたではないか。アントニウスは救いようもなく無分別な男だと。

 父の心は決まっていた。

 だからすべて無用の心配にすぎない。

 ゆらぐな。

「だからぼくは、お前の父上になにもしていない。病気のお体をさらに苦しめるような真似なんて、絶対していない」

「わかっているよ」

 なんとか、ティベリウスはゆっくりと言った。

「ありがとう、ユルス」

 すると、ユルスは急に顔を紅潮させた。

「それはなんの礼だ? ちゃんと話したことか? お父上に、お前ごとぼくを連れて行ってくれと頼まなかったことか? ぼくが、お前を巻き添えにしなくてうれしいか?」

 それからティベリウスを見て、また沈んだ顔に戻った。

「悪い…、言い過ぎた」

 ティベリウスは黙って首を振った。

 ユルスはふうっと吐息をもらした。背筋を伸ばし、辺りに鋭い目線をやる。

「このこと、お母様やマルケルスには――」

「言わない。絶対言わない」

「当然だ」ユルスは尊大な調子で言った。

「もういいよな。行くぞ」

「待って」

 部屋から出ていこうとするユルスをさえぎる。

「まだ話は終わっていない」

「なんだよ」

 ユルスはほとんど激怒していた。

「別件なんだ」

 ティベリウスは急いで言った。

「トロイヤ競技祭のことだ」

 扉に体を向けたまま、ユルスはしかめた顔だけ向けてきた。

「聞いたよ。マルケルスと対決して組長を決めたんだってな」

 彼はさらりと言った。

「わざと負けたのか?」

 ティベリウスは絶句した。

 それで、ユルスには返事など不要だった。彼はかまわず続けた。

「当然だよな。ぼくがお前でもそうした。お前は正しい」

「…なんで……」

「なんでって」それを言わせるかとばかりに、ユルスは苦笑をもらした。「見てなくてもわかるっての。トロイヤ競技祭はユリウス一門の主催、ましてカエサルの臨席とあれば、よっぽどの馬鹿でもないかぎり、考えることは同じだろ」

 ティベリウスはまた寒気がしてきた。今度のはじわりじわりと背筋から全身の骨を這い、長くこごえさせるような執拗さがあった。

「後ろめたく思う必要なんてないぞ。お前は当然のことをしただけなんだからな」

 ユルスは醒めた口調でなぐさめじみたことを言った。

「案外カエサルだって、それを期待して臨席したのかもしれないし」

「なんだって!」

「冗談だよ」

 ユルスはすぐさま撤回した。ティベリウスは噛みつかんばかりの剣幕だった。

「カエサルが、お前の遠慮にならともかく、お前の演技力にまで期待してたとは思えないからな」

 ユルスは、いったいなにを言っているのだろう。

「お前は上手くやったよ。少なくともマルケルスのやつにはまったくばれてなかった。ぼくが保証する」

 腹がずしりと重くなる感覚がした。

 少なくともマルケルスのやつには――ということは、ほかのだれに気づかれていたのだろう。マルクス・メッサラも、ネルヴァも、グネウスも、ピソもファビウスもレントゥルスも、みんな気づいていたというのか。

 気づいていながら、そろって気づかないふりをしていたのか。

 みんな、演技だったのか。

「それで、なんの用があるんだ?」

 ユルスの促しは耳に入らなかった。

 演技をしかけたのはティベリウスだった。それなのに、自分がそれに欺かれたような気持ちになる。

 気づいていたのなら、どうしてだれも言ってくれなかった。

 ぼくとマルケルスだけの問題だったはずなのに、みんなが知っていたのか。

 それなのに何食わぬ顔をして、蔭でぼくを笑っていたのか。そうなのか。

「おい?」

 わからない。わからない。だれのこともなにもわからない。

「ティベリウス?」 

 ぼくは、なにを信じればいい――。

 バシャン、と鋭い水音がした。

 ティベリウスもユルスもはっとなった。ユルスはあわてて扉を開けて、外を確認した。

 ティベリウスも窓から外へ目をやった。人影は見えなかった。

 ユルスが外から首を引っ込め、また扉を閉めた。それからうんざりと首を振った。

「どこかの子どもが、噴水に石を落としたみたいだ」

 十歳のユルスも、子どもではあるのだが。

 中庭の噴水は、ティベリウスの見る窓からは死角になっていた。

 水音を聞いたあと、不思議なことに友人たちへの不信感が落ち着いていた。ただ底なし沼から危うく脱出したあとのような、冷たい安堵感が残っていた。自身の大きな心音を聞いた。

 そうだ、気づかれたとはかぎらない。

 けれども、もう二度とこんな後味の悪い真似はしないだろう。

「なぁ、それで競技祭がどうしたんだよ? さっさと言わないなら、ぼくはもう出ていくぞ」

 ユルスがしびれを切らしていた。ティベリウスは気を取り直して口を開いた。

「ぼくはトロイヤ競技祭出場を辞退する。父上の喪に服すから」

 そしてユルスの顔を見つめる。

「君に代わりに出てほしい」

「…馬鹿か、お前は」

 ユルスは切り捨てた。

「なにが『喪に服す』だ? 競技祭は二ヶ月後だぞ」

「父上が亡くなったんだ。公の場に出るのを控えなきゃいけない」

「十ヶ月もか?」

 ユルスはうんざりと天井を仰いだ。それが家父長が亡くなった場合の通例だった。

「そんなこと言ってたら、戦争中なんかだれもお祭りに参加できなくなるんだぞ。それともなにか? 悲しくて練習に集中できないのか?」

「違う」

「だろうな。なら出ろよ。お前が出ないとなると、マルケルスのやつがまためそめそとうざったくなる」

「そんなことない」

 そうは言ったものの、対決後の心配そうな顔が思い浮かんだ。

「わざと組長にしておいて、あいつをほっぽり出すのか。ずいぶん無責任だな」

 ティベリウスの胸中を読んだかのように、ユルスは言った。

「練習には参加する」

 ティベリウスは強い口調で言った。

「みんなの手伝いをする。でも競技祭本番には出場しない」

「緊張で震えまくるあいつが目に浮かぶよ」ユルスはやれやれとばかりに首を振った。「ぼくにはなにもできやしない」

「君はマルケルスの兄だ、ユルス」

「義理のな。血は一滴もつながってない」

「それでも、君が一緒ならマルケルスだって心強いはずだ」

「あいつがいちばん頼りにしているのはだれか、お前だってわかってるはずだ」

 沈黙が、二人を支配した。

 アンテュルスは、ティベリウスをマルケルスの「お守」と呼んだ。彼にしてみれば、義弟マルケルスはいつまでも別れたころのままなのだろう。そばにいるユルスも、それと大差ない目で義弟を見ているらしい。

 ティベリウスはマルケルスの成長を知っている。マルケルスは勉学でも肉体訓練でも、毎日懸命に努力している。マルケルス家の跡継ぎであり、オクタヴィアヌスの甥であるという責任感がそうさせる。そしてその責任感の源は、愛する者を思う生来の優しい心である。

 守ってやらなければと思う。

 ティベリウスはおもむろに口を開いた。

「辞退することは、もうカエサルにも話してあるんだ。カエサルも、そうしたほうがいいとおっしゃった」

「だったら、よりにもよってぼくに頼むな」

 ユルスは片手で頭を抱えた。

「そもそもカエサルはぼくを出場者に選ばなかったんだ。その理由がわからないほどお前が間抜けだとは知らなかったが、はっきり教えてやるよ。ぼくがマルクス・アントニウスの息子だからだ」

 ティベリウスは顔を歪めてうなだれた。

 もちろん、ユルスを傷つけるつもりはなかった。ただ、オクタヴィアヌスがそんな理由でユルスの出場を許さないなどとは、考えたくなかったのだ。

 しかし、ユルスはきっぱりと言った。

「ぼくは出ない。出て、カエサルは優しい心の持ち主だという見せびらかしに使われたくない。実際さ、ぼくを出さないことがカエサルの優しさだと思ってるよ。市民は、あれがアントニウスの息子かとじろじろ見てくるだろうし、もし東方にいる父上の耳に入ったら、ぼくは親子の縁を切られるだろうからね」

 ティベリウスは目を閉じた。自分の驕りと無神経さをひたすら恥じた。

「ごめん、ユルス」

「謝るなよ」

 ユルスは語気を強めた。

「同情なんてするな。惨めになるだけだ」

 結局、自分はユルスを苦しめただけだった。自分のことで頭がいっぱいで、彼のことを考えていなかった。

 ここ数ヶ月の自分の苦悩なんて、ユルスにとっては生温いものでしかないのだろう。

 ティベリウスは顔を上げることができなかった。次にユルスの苛立たしげな声が聞こえてきたときも、うつむいていた。

「それで、どうするんだ?」

「……え?」

「代役だよ、お前の!」

 目を上げると、ユルスが頭をかきむしっていた。

「だれでもいいってわけじゃないだろ? 元老院階級の子どもで、ある程度馬に乗り慣れてるやつじゃないと」

「探してみるよ」

 ティベリウスはぽつりと言った。ユルスはさらにきつく眉根を寄せた。

「どうしてお前が探してるんだ? カエサルに任せておけばいいだろ」

「これはぼくのために出た欠員だもの」

「…まったく」

 頭をかいたまま、ユルスは視線を宙に漂わせた。考え込んでいるようだった。

「クィンティリウス・ヴァルスは? たしか古い貴族の家系だろ」

「彼は年長組の年齢だ」ティベリウスは教えた。「もうそっちの組に入ってる」

「そうだったな」

 ユルスは苛々と虚空をにらみ続けた。

「じゃあ、アシニウス・ガルスはどうだ? あれは確かお前と同じくらいの年だっただろ」

「うん」

 ティベリウスはうなずいた。ガルスとはあまり話したことがないが、たしか自分より一つ年下だと記憶していた。

「じゃあ、当たってみろよ」ユルスは提案した。

「父親のアシニウス・ポリオはこのあいだぼくの父上のところへ行ったけど、家族はまだローマに残っているはずだ。父上の味方でも、ポリオはアヴェンティーノの丘に立派な図書館を造った人だから、カエサルもだめとは言わないだろうよ」

「そうするよ」

 ティベリウスはもう一度うなずいて言った。

「ありがとう、ユルス」

 ユルスはただふんと鼻を鳴らした。つい世話を焼いてしまった自分に、呆れているようだった。根は優しいのだ。痛ましいほどに。

「もういいよな」

 ユルスは荒っぽく扉を開けた。

 確かに、話は終わった。ティベリウスも彼に続いて部屋を出た。

 小さな金色の頭が、まぶしい日差しを浴びてきらめいた。茶色の双眸が、ひたと据えられた。

「お、おいっ、どうした?」

 驚くユルスを押しのけ、ティベリウスは猛然と駆け出していた。中庭でたむろする弔問客をかき分け、しきりに辺りを見まわす。

 しかしもうどこにも見つからなかった。大人たちの喪服の裾にまぎれて姿をくらましていた。

 三ヶ月も前からティベリウスをにらみつけてくる子どもだった。つい五日前も、フラミニア競技場で見つめられたばかりだ。

 ティベリウスは歯を食いしばり、両拳を握りしめて激怒していた。

 まさか家の中にまで入って来るとは思わなかった。それも父の弔問客にまじって。なんてずうずうしいやつなのだろう。

 もしかして、ユルスとの話を聞いていたのだろうか。扉に耳を押し当てて、盗み聞きしていたのだろうか。

 怒りに燃えるティベリウスの気色は、周囲の大人がたじろぐほどだった。

 信じがたい侮辱だ。

 もう許せない。

 絶対に、今度会ったらただではおかない。





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