第一章 ‐5
5
驚いたことに、父は奴隷の肩を借りて立ち上がろうとした。
「――父上!」
「大丈夫だ」
「ですが――」
「大丈夫だと言っている」
以前ほどの鋭さはないが、断固とした声だった。
「トオンがなんと言ってお前を連れてきたか知らぬが、私はただ死ぬ前にお前と話をしておきたいと言っただけだ。なにも今すぐ死ぬとは言っておらん」
それからプロレウスを見て言った。
「家にはだれも入れるな」
「心得ております」
立ち上がると、父は奴隷の手を借りず、自力で歩きだした。右手で杖をつき、ゆっくりと前進する。足を引きずるに近い動きだが、上体は堂々として、ゆらがなかった。
「祭壇に行く。ついて来い」
ティベリウスは言葉もなく父を見つめた。プロレウスに肩を引かれ、脇によける。父は厳と前を見据えたまま、眼前を通り過ぎていった。
プロレウスがそっと背中を押してきた。ティベリウスはあとを追った。
広かった父の肩は痩せていた。すっくと伸ばした背中は、他者を拒絶するように、あくまで誇り高く、いかめしい。だが、触れればその瞬間に崩れそうだ。のろい歩みで数歩進むたび、息を整える。傍らの奴隷は、主人を支えようと伸ばした手を、何度も止めていた。
いつのまに、こんなになっていたのだろう。
父がティベリウスを取り囲む元老院議員たちを追い出してから、まだひと月しか経っていなかった。あのとき父は、部屋から飛び出してきたのだ。顔色は良くなかったが、息子に弱った姿の片鱗も見せなかった。
たったひと月でここまで弱ってしまったのか。いや、あのときからすでに無理をしていたのか。厚いトーガで痩せた体を隠していたのか。
こんなになるまで、自分は父になにもして差し上げられなかったのか。
ティベリウスは胸が押しつぶされそうだった。
父に拒絶されている、そう思って二ヶ月もカエサル家にこもった。取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。
いや、それより前から、父に拒絶されて当然のことをしてきたのではないか――。
ネロ家の祭壇の前に来た。家の守り神と先祖が祭られるこの場所に、家父長は毎朝礼拝する。
ネロ家の祭壇の下には、竈があった。貴族クラウディウス一門により代々守られてきた火が、静かに燃えていた。
その竈の前に、臥台と小さな椅子が一脚ずつ置かれていた。プロレウスがあらかじめ用意していたのだろうか。父は臥台の上に身を横たえた。それからティベリウスに、椅子に腰かけるよう促した。
言われるがまま、ティベリウスは腰を下ろした。一瞬竈の火に目をやってから、すぐに逸らした。
「まだ火が怖いのか?」
父にそう訊かれ、ティベリウスは目を剥いた。
「平気です」
父の前ではあったが、心外の気持ちを隠すのに苦労した。
父はそれ以上追及しなかった。ただその火に目線を据えた。だからティベリウスも、口元を引き締めてからもう一度目をやった。
赤い炎の先が、ぱちぱちと音を立ててはじけていた。
「お前は青い炎を見たことがあるか?」
ティベリウスは目をしばたたいた。父の瞳に映っているのは、相変わらず赤いだけの炎だ。
「…はい」
「青は良い」
父は言った。
「燃えさかる赤を、根本から支えている。ただ静かに、熱くある。赤ははかない。人を集めるが、自分ひとりでは燃え続けられず、やがては弱まり、消える。嘆いて立ち去る人は、炭の下に残る青に気づかぬ。そこから再び燃え上がるというのに。赤は風に吹かれてはゆらぎ、あおられては膨らむが、青はそうではない。ゆらがず、ただそこにある」
ティベリウスはぽかんとして、父の顔を見た。
なにを話しているのだろう。
父はゆっくりと、中庭のほうへ首を向けた。目線は上に注がれていた。
「空も青だ。雲に覆われ見えなくなろうと、その向こうに変わらずにある。海も青だ。陽の赤に焼かれようと、嵐に打ちつけられようと、また黙って姿を現わす。それは永続の色だ。だれにも顧みられなくとも、ただそこにゆらがず、当たり前のようにあり続ける。そうあるべきなのだ、国家も、人の愛も」
ティベリウスはまばたきもせずに聞いていた。両膝の上で拳を握りしめ、父の言わんとすることを、必死で理解しようとした。
遠くを見ていたような父の目が、またふいに翳りを戻した。目線を落とすと、よどみない動きで左手から指輪を抜いた。
「私はもう死ぬ」
突然だった。飾りのない言葉が、ティベリウスを突き刺した。
父は、いつもこうだ。
「後のことは心配いらぬ。家のことはすべてプロレウスに任せてある。成人するまでに、あれから学ぶべきことを学んでおけ」
「父上、そんな――」
腰を浮かす。
「そんなこと、おっしゃらないでください!」
恐慌していた。父はなぜこうなのだろう。なぜいつもなに者をも拒絶するように、自分一人で決めてしまうのだろう。
なぜ、ぼくたちを寄り添わせてくれないのだろう。
「自分の体のことは、自分がよくわかっている」
しかし父は淡々と言った。
「話ができる時間も、もはやわずかだろう。遺言状はヴェスタの巫女に預けてある。それに書いたとおりに事を運べば問題ない」
立ちつくす息子の胸中にかまわず、父は引き継ぎをはじめた。
「遺言執行の責任者は、コッケイウス・ネルヴァとカエサル・オクタヴィアヌス」
心臓が、跳ね上がった。
「言うまでもなく、成人までの後見人には、カエサル・オクタヴィアヌスを指名してある」
瞬間、膝から力が抜けた。ティベリウスが体を落としたのは、元椅子の上だった。
目の前が真っ白だった。
父は続けた。
「彼も今さら拒みはしないだろう。なにしろ彼は自らお前を連れていったのだし、ドルーススのことは、彼の息子だと言われるぐらいの可愛がりようだ」
よじれるような胸の痛みが、ティベリウスを苛んだ。
ドルーススの件は嘘だ。性格こそ似ていないが、容貌にははっきりと父の面影が現れているではないか。
「それにリヴィアもいる。あれは女だてらに誇り高いから、親しみをふりまく型の母親ではないだろうが、それでもお前たちを愛していないわけではない。それに責任感は男顔負けだ」
父の顔つきが、ほんのかすかにゆるんだように見えた。
「たとえカエサルとのあいだに子どもが生まれようと、お前たちのことをしかと考えるだろう。だれもお前たちを悪いようにしないよう、目を光らせるだろう。あくまで、あれの基準でだが。あれもクラウディウスの娘だからな」
息子に向けた顔は、笑みに近かった。
「お前も大変だろうが、まあ、大事にしてやるがいい」
「父上は――」言葉が詰まった。それからせきを切ったようにあふれ出した。「父上はそれでよいのですか? ぼくも母上もドルーススも、カエサルのところへ行っても。父上はカエサルが憎いのではないですか?」
たちまち父の顔つきが変わった。だがもう止まらなかった。
「父上は神君カエサルに反対だったのでしょう? 神君カエサルは独裁者だった。たった一人の王になろうとしてた。古くからのしきたりも、執政官も、元老院だって無意味にしてしまった。先祖たちが守ってきたローマを、自分の思うままに変えてしまった」
「お前はなにを言っている」
父は言った。
「お前はわかっていない」
なんと言われようとかまわなかった。
「父上は、デキムス・ブルートゥスら暗殺者に賛成だったのでしょう? だから神君カエサルが亡くなったあとだって、反対した。神君の後を継ぐと言った、カエサル・オクタヴィアヌスに」
ネロ家を壊滅の危機に陥れ、今はその後見人になろうとしている男、カエサル――。
「カエサルとアントニウスが現れたとき、父上はアントニウスに味方したかったのでしょう? アントニウスに魅かれたのですか? それとも彼は父上の友人だったのですか? 彼の側につきたくて、ぼくをマルクス・ガリウスの養子にしたのですか?」
ティベリウスはまっすぐに父を見据えた。求めるのは、唯一の答えだった。
「どうか本当のお気持ちをおっしゃってください」
父は、沈黙した。
叱責されると思った。激怒され、なにを生意気なと殴られると思った。
だが次に父が発した声は、ひどく穏やかだった。
「それを聞いてどうする? 私がカエサルを憎いと言えば、お前も彼を憎むのか?」
ティベリウスは言葉を失った。
「くだらぬ」
父は言った。
「私はだれも憎んでなどおらぬ」
では――
絶望しているのですか。
ティベリウスはそれを尋ねることができなかった。
「だが私がどう考えていようと、これからはお前がネロ家の家父長である」
そう言うと、父は手元に目線を落とした。
ティベリウスは我が耳を疑った。
今、父上はなんとおっしゃった?
父は息子を見つめ、右手を差し出した。
「受け取れ。クラウディウス・ネロはお前だ」
家父長の証たる指輪が、そこにあった。
ティベリウスは、ただそれを茫然と眺めるばかりだった。
震えが、静かに戻ってきた。それは、確かに恐怖ではなかった。
父は今、自分にネロ家を継がせようとしている。
自分は、父に拒絶されていたのではなかった!
息子が動こうとしないので、父はいったん腕を下ろした。
「私がお前をガリウスにやると思ったか?」
父は淡々と訊いた。
「そのようなこと、お前がいちいち思い煩う必要はないのだ。お前はクラウディウスの血を継ぐ男だ。望む、望まぬにかかわらずな」
ティベリウスはぼんやりした顔を父に向けた。父はかまわず続けた。
「クラウディウス・ネロを継ぐ者として、お前は国家を双肩に担う男にならねばならぬ。我らの祖先の多くが、そうであったように。
我らクラウディウス一門は、五百年の長きにわたり国家ローマを担い続ける、最も高貴な一族である。この先、国家をどのような運命が見舞おうと、クラウディウスは常にともにある。変革ごときにはゆらがぬ。
我らの精神は、国家の形にあるのではない。クラウディウスがクラウディウスのまま国家にあることこそ、誇りなのである。
だからお前は、おのれが正しいと思うことをなせ。どのような決断であれ、これからはお前が正しいと思うことこそが、クラウディウスの意志である」
震えが、一気に体を走り抜けた。それは恐怖でもあり、歓喜でもあり、またそのいずれでもないなにかだった。
体の芯が熱くなる。
「なにが正しいかわからぬのならば、学ばねばならぬ。だれよりも懸命に学ばねばならぬ。正しい決断を下せるまで、学び、考えよ。そしてこの上なく慎重に決断し、決断したからには、迷ってはならぬ。ゆらいではならぬ。無理解も悪評も恐れず、とことんまでやり抜け。そうでなければ、すべてが無意味となろう」
父は今、一人のクラウディウス・ネロとして、自分と向き合ってくれている。その精神を伝えようとしてくれている。
父は自分を認めてくれていた。いや、少なくとも認める男になり得ると、期待をかけてくれていた。
しかし、安堵は感じなかった。この胸を高鳴らせる震えこそ、自分が生涯守り抜かなければいけないものだと感じた。
これが、誇りか。
「わかるな? 私はお前に安楽な道を示しているのではない。これはもっとも厳しく、残酷で、孤独な道である。おのれの判断のみで生きる者を、人は理解せぬ。お前の愛する者でさえだ。お前を理解する者は、おそらくだれもおらぬことになるであろう」
もっとも厳しく、残酷で、孤独な道――。
父も、そうなのか。父も、そのような道を歩いてきたのか。
「それでもお前はクラウディウス・ネロである。ただ独りでも、重責から逃げず、おのれで決断し、その結果を引き受けなくてはならぬ。
そして、いずれ死して我々祖先と神々の前に引き出されようとも、そこでたとえその全員を敵にまわすことになろうとも、胸を張っておのれの正しさを主張する、そのような生き方をしてみせよ。国家を導くに値する男とは、そうでなければならぬのだ」
父は、自分に答えは授けてくれないのだと知った。なぜなら父もティベリウスもクラウディウス・ネロである。答えなど必要なかった。
父はもう一度、右手を差し出した。
ティベリウスは立ち上がった。体の力は戻っていた。
自分は父や祖先のように、国家を担う男になれるのだろうか。父の言うような男になれるのだろうか。
いや、もう迷ってはいけない。父が話してくれたからには、そのようなためらいは無駄でしかない。
なるのだ。それしかない。クラウディウス・ネロならばできるのだから。
ティベリウスが手を重ねると、指輪ごと、父はそれを握りしめた。
手はかさかさに乾いていて、体温をほとんど感じなかった。指はひどく華奢に感じられた。だが力は強かった。
「そのような男を、私は一人だけこの目で見たことがある」
息子の手をつかんだまま、父は言った。
「今から三十年前、カティリーナ裁判の時だ」
その事件については、ティベリウスも聞き知っていた。
カティリーナという青年貴族がいた。彼は同時代の多くの若者と同様、多額の借金を抱えていた。彼はそれに苦悩する毎日を送っていたのだが、ついに自ら執政官になり、借金帳消しの法律を制定しようと目論んだ。しかしキケロら多くの元老院議員に阻まれ、落選をくり返す。
絶望した彼は、ついに支持者らを集め武装蜂起を企てた。その第一の標的は、当時の執政官キケロだった。キケロはいち早くこの陰謀に気づき、当代最高の雄弁を駆使してカティリーナを追いつめる。
キケロは元老院に「元老院最終勧告」の発動を要請した。カティリーナ一派を裁判なしで即刻極刑に処すべきと提案したのである。
父ネロが言うカティリーナ裁判とは、カティリーナ当人ではなく、その支持者とされた五人の処罰を決める場だった。
「当時元老院議員であったお前の祖父ネロも、あの裁判に出席していた。私は議員ではなかったが、議場の外から裁判を傍聴していた。執政官キケロが五人の処刑を提案する演説をした後、発言に立ったのはあの男だった」
ティベリウスは知っていた。それは当時法務官だった、神君カエサルその人である。
神君カエサルは、「元老院最終勧告」による五人の処刑に反対したのだった。
「あの男はまず、難題を処断せんとする者は憎しみにも、友情にも、怒りにも、慈悲にも捕らわれるべきではないと言った。そのような一時の感情に動かされず、理性にこそ従うべきなのだと。このたびのような一大事であるからこそなお、怒りではなく我々の誇り高き名において、つまり既存の法の下で裁かねばならないと」
父の声は、我が思いを語るかのように力強かった。
「なぜならそれがあの男の考える、上に立つ者であるからだ。あの男は言った。すべての人間が平等に言動の自由を許されているわけではない。賤しい者ならば、激情に駆られて行動したとて許される。それに値する存在でしかないのだから。だが上に立つ者ならば、おのれの行動に言い訳は許されぬ。したがって最も上の位に立つ者ほど、自由は制限されるものである。愛しすぎず、憎まず、激情に駆られることなど決してあってはならぬ。それは上に立つ者の傲慢であり、残酷になるのだから」
三度目の震えが、ティベリウスをじりじり熱くしていく。
「あの男は元老院に、強大な権力を担う者こそ、いっそうの思慮が求められてしかりと説いた。言うとおり、ローマは今や世界を覇権下に治める一大国家である。この私でさえ、その規模を想像しては、この上ない誇りと同時に、途方もない責任の重大さに戦慄する。私はあの男が嫌いだし、やり方も気に食わなかったが、少なくともあの男には、その至大な責任を負う覚悟があった。いかに忌まわしくとも、それにともなうなに事からも目を逸らさなかった。
この演説のあと、あのお前の祖父でさえ、連中の処刑決議はひとまず延期するべきであると考えた」
だが結局、神君カエサルの提案は受け入れられなかった。彼は五人の処刑ではなく監禁を求めたのだが、その後執政官キケロに、家族や市民の身を案じた情に訴える演説をされた。結果「元老院最終勧告」は実行され、五人は即刻処刑。その後カティリーナ自身は、数千人の支持者とともに執政官軍と渡り合って討死した。
討議終了後、神君カエサルは市民に袋叩きにされたという。
「私も父の気持ちに同感であった。あの男も我々も、国家ローマを担ってきた由緒ある貴族の血を引く。同じ誇りを確固と抱く。我々はあの男のいうように、感情に捕らわれず、誇りと思慮分別でもって国家を治める者にならねばならぬ。そう思った」
そこで父は、眉間の皺を深くした。
「あの男が、我々ではなくおのれ一人の生き方を説いていたと知ったのは、ずっとあとになってからであったがな」
つまり父は、神君カエサルがローマを、それを治めるにふさわしい精神を持つ者たちと一緒に導いていくと信じたのである。一人ではなく、有能な同志たちと、平等に。ところが彼は、ただ一人の絶対権力者になろうとした。だから父は失望したのだ。
でも――とティベリウスは思う。神君カエサルだって、たった一人では広大な国家を治めることなんてできない。きっとみんなに協力してほしかったのではないか、と。
「私はお前にあの男のようになれと言うのではない。あれほどの孤独を、お前には味わってほしくない。ただお前は、生涯クラウディウス・ネロであれ。それだけだ」
ティベリウスはうなずいた。今はまだ、父の教えを本当の意味では理解しきれていないかもしれない。だが胸には刻んだ。初めて父の心髄に触れた気がした。この記憶は決して忘れないだろう。
「お約束します、父上。私はティベリウス・クラウディウス・ネロです」
その言葉を聞くと、父は手を離した。ティベリウスの小さな手はしかと指輪をつかんでいた。
指輪は大きくて、まだ指にはめられそうにない。刻まれたネロ家の印章と、それを挟む一対の青い石を、ティベリウスはつくづくと眺めた。
「父上」ティベリウスはおもむろに口を開いた。「ぼくは、おのれで判断を下します。ただ、よろしければ父上のご意見をお聞かせください。父上は、マルクス・アントニウスをどのようにお思いですか?」
するとしばし、父は沈黙した。目線は天井に向けられ、また遠くを見ているようだった。
疲れさせてしまったのだろうかと、ティベリウスは心配になった。これまでの会話で、父は弱った様子も苦しげなそぶりも見せなかった。いかにも父だ。だが今は少しやつれていて、悲しげにさえ見えた。
それでも、聞いておきたかった。
やがて父は、苦い口調で語りだした。
「ユリウス・カエサルを殺したのは、あれである。あれがルペルカリア祭で、若者らに交じって裸同然で走りまわった挙句、あの男に王冠など捧げようとしなければ、あの男はもうしばらく生き長らえたに違いない」
ルペルカリア祭は毎年二月に開催される。つまり神君カエサル暗殺のひと月前の出来事である。
「アントニウスが差し出した王冠を、あの男は二度も退けた。民衆は拍手喝采した。それでブルートゥスらは勢いづいた。民衆が味方になってくれると早合点したのだ。つまり、そのあとに起こったすべての争乱の根源は、あれであるわけだ。まったく無邪気な善意ほど始末の悪いものはない。あれは悪い男ではない。ただ無分別だ、救いようもなく。たった今この時もな」
父の言葉は相変わらず容赦なかった。鋭く斬っては捨てる剣だ。たとえかすかな共感があったとしても、軽蔑と嘆息で覆い隠した。
「では」唾を呑みこんでから、ティベリウスは尋ねた。「カエサル・オクタヴィアヌスは?」
恐ろしかったが、尋ねずにはいられなかった。今まで一度も聞いたことはなかったが、父はまた舌鋒鋭く批判するのだろうか。かつての敵であり、神君カエサルの後継者であり、妻を譲った男である彼のことを。
恨みごとなど言われたら、どうしたらいいのだろう。ゆらがない自信など、はかなく崩れてしまいそうだ。
あるいは、以前、マルクス・キケロがユバに話しているのを聞いたことがある。若きマルクスに、父キケロの親友アッティクスがこう語ったという。
「あのカエサルは恐ろしい男だよ、マルクス。私はいまだかつて、あんな恐ろしい男を見たことがない。あの若さで、彼はローマ最高の教養の持ち主だった君の父親を、いともたやすく手玉に取ってしまった。その恐ろしさは神君カエサルの比ではない。あの柔和な笑みの下にある本質は、およそ人間はない。神でさえも、あれほど冷酷な心を所有しないだろう。
一番の方法は、いつでも彼を信じるふりをすることだ。ふりならば相手の方が何枚も上手だが、それでも我と我が身を守るすべにはなる。彼を信じすぎ、おのれと一部でも同一視するなど、ゆめゆめ考えぬことだ。彼は人ではないのだから」
ところが、父が口にしたのはただ一言だけだった。息子の青い目の奥を、穏やかに見つめていた。
「彼は、お前がその目で見るとおりの男である」




