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ティベリウス・ネロの虜囚  作者: 東道安利
第四章 エジプト
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第四章 ‐22

 


 22



 石段を駆け下り、外へ出ると、東の空が明るんでいた。ティベリウスは急がなければならなかった。

 列柱群に沿って、境内を駆け抜ける。前門を抜けてすぐの野原に、一行の乗り物が停まっていた。目を凝らす。見張りの影が三体確認できた。足音を忍ばせて近づく。連中はそろって馬車に背を向け、一筋の光が走る地平線へ目を向けている様子だ。当然と言えば当然だ。彼らが最も警戒すべきはその方角から追いかけてくるかもしれないローマ軍であり、逃亡を企てる元病人ではない。

 それでも、気づかれずに逃げられる可能性は低いと考えた。明るくなる前に済ませなければならなかった。

 ティベリウスはまず馬車に近づいた。御者が見当たらなかったが、荷台で眠りこけていた。一挙手一投足、少しの音も立てないように上った。猫のように荷台を這って、なにか役に立つ物はないかと手探りする。

 急く気持ちを懸命になだめた。長剣や槍はあったが、十一歳の子どもには扱えそうになかった。矢の一本でもいいのだが、それさえ見つからない。不運にも、もう一台のほうにあるのだろうか。

 時間が経ったため、もはや特殊な夜目は利かなくなっていた。恨めしがりながら、ティベリウスはやむなく木箱の蓋を持ち上げた。するとその上に畳まれていた布が、ずるりと滑った。あわてて押さえる。

 その感触に覚えがあった。

 ありえないと思った、しかし次の瞬間には胸いっぱいに抱きしめていた。間違いない、母のマントだ。あの青いマントだ。洗われて少し固くなっているが、紛れもなかった。

 そして、さらにそのなかに固い感触があった。

 マントをかき分ける手が汗ばんだ。見えなくてもよかった。さわればわかる。手になじんだあの女神の肢体を、忘れるはずがない。

 ドゥーコの短剣を握りしめ、ティベリウスは胸中で叫んでいた。

 ――アポロドロス!

 憎まれたと思っていた。彼の女王に手酷い非難を浴びせたのだから。しかし彼は約束を守ってくれたのだ。

 大事なものが、すべて戻った。もう大丈夫だと思った。できないことはないという気になった。マントと短剣をしっかと抱きながら、無事に帰りつけると確信した。

 本当に、あきらめなくてよかった。

「おい……なにをしてる?」

 座ったまま跳ね上がった。振り返ると、寝そべる御者がぼんやりした半眼を向けてきていた。警戒の色は感じられなかった。

「こ、国王に…」しわがれた声で応じる。「…衣服を、持ってこいと……着替えの……」

「そうかぁ……」

 御者はまた目を閉じた。安らかな寝息まで聞こえてきたが、ティベリウスはしばらく硬直していた。背中の冷や汗に震えて、ようやく気力を取り戻した。

 もつれたがる足を責めながら、馬車の外へ脱出した。母のマントに顔をうずめ、盛大なため息を吐きつくす。

 しかし安心するのはまだ早かった。地平線の光はくっきりと太くなっている。ぐずぐずしている暇はない。

 マントを羽織り、見張りたちを横目に収めつつ、ティベリウスは馬たちのほうへ歩いていった。すべての馬に近づいてから、最後に自分が乗ってきた馬によじ登った。





 怒号が真っ先に追いついてきた。少しも表情を変えずに、ティベリウスは馬を走らせた。続いて蹄の音がいくつも近づいてきた。だがそれらはまもなく悲鳴に呑まれて遠のいた。

 ティベリウスは振り返らなかった。なにが起こっているのかはわかっていた。手綱を除き、鞍を外し、そのほか馬体に巻きつく皮紐を何本か切っておいた。少しは足止めになるが、裸馬になっても十分追いかけてはこられる。だからドゥーコの短剣をさらに活躍させた。

「うわぁーっ!」

 護衛兵らしき男の叫びが届く。

「俺のお宝がぁーーっっ!」

 朝の空気に、甲高い金属音が響きわたった。朝日を拝みに外へ出ていた村人たちは、眼前の追走劇にぽかんとした顔を向けていたが、この瞬間に目の色を変えた。

「寄るな! 寄るなぁっ!」

 その怒号は、もはやティベリウスに向けられていなかった。

 馬体に吊るされた袋に切り込みを入れておいた。走り出すや、中の金銀宝石が地面に散乱するように。どちらが大事か、考えるまでもないだろうと思った。余所者の子ども一人と、この先の命綱となるプトレマイオスの財宝だ。それにしても「俺のお宝」とはどういう了見か。

 追手のほとんどは、財宝の回収に無我夢中になるはずだった。おまけに狂喜する付近村人を必死で追い払わねばならない。

 それでも、追いかけてくる者はいた。

「待てぇ!」

 すぐ後方で声がした。

「この盗人がぁ! 王家の財宝を持ち逃げする気かぁ!」

 聞き捨てならなかった。だれがだ。無理矢理連れ去っておいて、逃げられたら盗人呼ばわりか。

 ティベリウスは望みをかなえてやることにした。確かにこの馬にも財宝入りの袋が吊るされていた。それを皮紐から外し、口を開き、後方へ振り投げた。

「ごわぁ!」

 宝石の雨をくらい、追手が馬から落ちる音がした。

「おのれ!」

 次が来た。ティベリウスは小川を飛び越え、同時にまた袋を放つ。

「わわわわわわっっ!」

 今度の中身は砂金だった。追っ手の視界を遮り、たちまち下の小川へ注いで流れ去る。追手は水流に落ち込み、もうなにからどうして良いのやらとうろたえている様子だ。

 ティベリウスはかまわず馬を飛ばし続けた。目指すは北東だ。地平線に輝く太陽へ向かえば、ナイル本流に戻る。それとともに北へ走れば地中海に出る。ローマ軍はそろそろアレクサンドリアに着くはずだ。そこまで帰るのだ、必ず。

「ティベリウス! ティベリウス!」

 名前を呼ばれ、ティベリウスはついに表情を険しくした。

「どうしたんだ、ティベリウス! 止まるんだ!」

 一行のなかで、ティベリウスの乗る馬は一番小ぶりだった。そして当然、国王が一番の名馬に乗っていた。ティベリウスが騎乗したとき、カエサリオンはちょうど迷宮から出てくるところだった。そしてまもなく追いつこうとしていた。

 だがその前に、ロドンが来た。

「ええいっ、このくそいまいましい小僧めが!」

 またも彼は怒り狂っていた。

「なんと腹黒い! 昨日までのあの様が演技だったとは! 逃がしてなるものか! お前にはこの私の将来がかかっておるのだ!」

 ティベリウスは振り向いた。左手で一番重い袋を取り外し、後方へ伸ばす。そっと放したそれは、狙い違わずロドンの顎に命中した。

「ぐがあっ」

 ロドンが馬の背にひっくり返る。ティベリウスはさらに二、三の袋を放ち、駄目押しした。ロドンはきらめく宝石とともに地面に転がった。

「ティベリウス!」

 しかしカエサリオンはかまわなかった。馬の腹を蹴りまくり、ロドンを飛び越す。散らばる財宝に目もくれず、ティベリウスだけを見つめてひたすらに前進してくる。

「なりません、陛下!」

 遠くから護衛隊長の声が聞こえたが、カエサリオンは無視した。

 次の小川を飛び越えたとき、カエサリオンの馬はティベリウスの馬の尻に鼻先をかすめていた。

 ティベリウスの眉間に皺が寄った。カエサリオンの馬が右側から寄ってくる。左側はもう砂地だ。ティベリウスの馬は否応なしに速度をゆるめた。

「ティベリウス!」

 伸ばされた腕を払ってから、手綱を思いきり引いた。馬が反り返る。カエサリオンが同じく止まるまでのあいだ、ティベリウスは固い足場を確保するため、馬を右側へ動かした。

 目線は正面から逸らさなかった。まばゆい朝日に照らされて、カエサリオンが敢然と立ちはだかっている。

「どこに行くんだよ?」

 顔にはぎこちない笑みが浮かんでいた。

「方向が逆だぞ。ぼくたちの向かう先はあっちだ」

 落ち着かない顎で示してくる。それを見据えたまま、ティベリウスはおもむろに首を振った。

「プトレマイオス十五世、ぼくは君を気の毒に思う」

 低い声で言った。

「でも、君と一緒には行けない。ぼくはローマ人なんだ」

「どうして?」

 カエサリオンは混乱しているように両腕を広げた。

「ローマになんか帰ってどうする? お前は捨てられたんだぞ、オクタヴィアヌスに! 今さら戻ったって、あいつはお前を受け入れるもんか!」

「それでも、ぼくの帰る場所はローマしかない」

 吹き込む風を貫くように、ティベリウスは告げだ。それから少し苦しくなって、声を歪めた。

「最後に君へ忠告させてほしい。ロドンを信用するな。あいつは裏切り者だ。君をカエサルに引き渡す気だ」

「なにを言ってる?」カエサリオンは固くせせら笑った。「ロドンはぼくの子どもの頃からの教師だぞ。そんなことするはずない」

「生きたいなら、信じてほしい。あいつは、ぼくのことも手土産に加えて、たくさん褒美をもらう企みでいるんだ」

「馬鹿を言うなよ」

 カエサリオンは声色を厳しくした。

「裏切り者はお前じゃないか」

 ティベリウスはその言葉を受け止めた。まっすぐに見つめたまま、胸中でがくんと力を落とした。

 一度たりともカエサリオンの熱望を受け入れた覚えはなかった。しかし聞く耳を持たないだろうし、今となってはどうでもいい。彼には裏切り者と見なされてもしかたがない。

 しかし、またしてもティベリウスの思いは通じなかったのだ。

「ここは通さないぞ」

 両腕を広げたまま、カエサリオンは凄んできた。

「お前はぼくのものだ。ずっと一緒にいるんだ。さあ、もう馬から降りろ。今ならまだ許してやるから…」

 ティベリウスはなにも言わなかった。代わりに、ドゥーコの短剣を抜き放った。

 カエサリオンの笑みが強張った。

「ぼくを倒す気か?」彼は信じられずに確かめた。「プトレマイオスであるこのぼくを? ファラオであるこのぼくを? アレクサンドロス大王の子孫で、ユリウス・カエサルの息子であるこのぼくを!」

 高らかな哄笑が、ナイルの大地に轟く。

「そんなのは無理だ! ぼくにかなう者なんているわけがない!」

 ティベリウスは馬を歩ませた。カエサリオンはあわてて腰の剣を抜いた。刀身はドゥーコのよりさらに短そうで、ルビーと黄金がきらびやかに輝いている。

「ぼくはこの世界の王だ!」

 剣を突き出し、カエサリオンは大声で知らせた。

「だれよりもふさわしい、王の中の王! だからエジプトもローマも、ぼくのものだ! この広い世界に君臨するのは、このぼくなんだ!」

 ほんの一瞬、ティベリウスの手が震えた。偉大すぎる血を前にしていた。エジプトのファラオが、アレクサンドロス大王が、歴代プトレマイオス王が、カエサリオンの背後に見える気がする。

 神君カエサルの姿も浮かぶ。実の息子ならば、あの人もまたカエサリオンに力を貸すのだろう。

 しかしティベリウスはカエサリオンを傷つけたいのではなかった。帰りたいだけだ、ローマに。そして彼方へ広がる世界に。書物で読み、地図で眺め、実際に目にして触れて、それでもなお果ての見えない世界に。

 目の前の王が君臨する世界ではない。見たいと思う世界は、この向こうにある。

 ローマが造る。あの人が導いていく。そして――

 ――神君カエサル、今一度力を貸してください。

 柄を握りしめた。

 ――ぼくは、世界に成したいことがある!

 西風が吹きすさんだ。砂が巻き上がり、カエサリオンは思わず伏し目になる。しかしティベリウスはかっと両目を剥いていた。馬の腹を蹴り、短剣を高く掲げ、前傾姿勢で突き進む。

 カエサリオンも目を見開くのが見えた。しかし彼は動かなかった。馬に指示を出すそぶりもなく、砂のベールの向こう側で固まっている。

 息を呑むような風の音がした。ティベリウスはベールを引き裂き、きらびやかな刀身に短剣のそれを叩きつけた。

 転がる果実のように、ルビーが宙を舞った。ティベリウスはそのまま駆けていった。勢いを増す砂風へ入り込んでいった。

 振り返らなかった。カエサリオンの声も聞こえなかった。頭を伏せ、歯を食いしばり、先も見えない前へと進んだ。

 ――さようなら。

 すでに消えたであろう影へ、つぶやいた。すると砂風の中に、屈託ない無邪気な笑顔ばかり映った。道が危ういにもかかわらず、ティベリウスはぎゅっと目を閉じた。彼がカエサリオンでさえなかったらと思った。

 こうやって他人を傷つけながら先へ行くのだろうか。償えない罪悪を背負い続けることが、生きるということなのだろうか。

 それでもティベリウスが選んだのはこの道だ。だから詫びることなど許されない。

 風に流されながら進み続けた。その向きが変わっていないことだけが頼みだった。もしかしたらすでに方向感覚を失っているのかもしれない。しかしティベリウスには、前と思う方へ行く以外になかった。このまま砂に埋もれ果てる運命であろうと、それが自分に課した責任だった。

 ずっと進んだ。馬もよく走ってくれた。長いあいだ、世界には二つの命しか存在しないような感覚にさらされた。しかし変わらないものは世界に無い。そう教えられるように、やがて頬に当たる砂粒が勢いをゆるめていくのに気づく。ティベリウスは顔を上げた。

 黄金散りばめた青空があった。思わず息を止めた。光の粒はきらきら舞い踊り、ティベリウスと馬をくすぐりながら横へ流れていく。   

 ティベリウスは手を伸ばす。流れに浸し、その先を追う。黄金は満々と水をたたえるナイルへ向かう。その彼方の赤い山脈に、太陽が燦然と輝いている。

 ティベリウスは流れの一片を掬う。包んだそれは、赤みがかった砂だ。指を開くと、また黄金の粒になって流れ去る。

 ティベリウスは頭を振る。するとそこからも黄金が零れ落ち、神の下へ集う精霊のように、自らを照らす存在へ引き寄せられていく。

 正面に顔を戻す。きらめく砂粒の川から上がるように進む。すると雲一つない大空の下に、砂に埋もれたピラミッドが連なっていた。

 ティベリウスの目が輝いた。太陽の光を浴びながら、もう長いあいだ闇の淵に沈み込んでいた魂が、喜びの声を上げて目覚めた。

 群青の空。黄金の海とピラミッドの島。そして地平線の彼方へ伸びるナイルの道。そこへ全身を伸ばして飛び込むように、ティベリウスは馬を走らせる。

 肩に翼が生えたようだ。昨日までは死に絶えていた眺めが、今日は奇跡に見える。

 これほど輝きに満ちた景色がまだ見えるのなら、生きることには続ける意味があるはずだ。





 ティベリウスの手元には皮袋が一つ残っていた。表裏に女王とアントニウスが刻まれた金貨ばかり、ぎっしり詰まっている。これくらいは頂戴してもかまわないと思うことにした。それだけ大変な目に遭ったのだし、エジプトですべて使い切ることで還元しようと考えた。

 七月二十九日昼前、ティベリウスはメンフィスの市門をくぐった。興味関心を懸命に抑え込みながら、最初に見つけた店で、水と食料を買い込んだ。金貨を差し出したら、店主は目玉を飛び出させた。周囲の色黒の大人たちも視線を集結させてきた。ティベリウスは大あわてで荷物を背負い、市門を飛び出した。お釣りがあったかもしれないが、気にしなかった。

 金貨で支払いをする馬連れの子どもは目立つと気づいた。急いで乾燥イチジクを口に押し込み、水を飲んだ。馬にも与えた。それからまた騎乗して、北への旅を再開した。

 戸惑いはあったが、それでも道のりはすばらしかった。三大ピラミッドを左手に見ながら、ティベリウスはとても晴れ晴れとした気持ちで進んだ。

 捕らわれの身は終わっていた。それにしてもこれほど爽快な気分は初めてだ。家族もいない。友人もいない。付き添いの奴隷さえいない。ローマで暮らしていた頃でさえ、こんな時間はほとんどなかった。十一歳にして一人旅だ。完全な自由だ。

 自らで手にしたからこそ価値があった。目に映るあらゆるものが輝く景色に、思う存分心を解き放つ。それは、彼が勉学に夢中になるもう一つの理由だった。自由で限りない心の世界を持ち続ける。世界をそれで感じ尽くす。教師テオドルスは、ただ教え子のためだけにあるよう願い、その宝の種を植えた。

 気は抜けなかった。危険はいつも隣に寄り添っていた。それでもティベリウスは満ち足りていた。昨日までが嘘のような元気な体があった。十分なお金があった。たっぷりの食料もあった。移動にはこのうえなく頼もしいお供も連れていた。

 けれどもなによりも旅をすばらしくさせるのは、帰る場所があるという確信だった。





 ナイルデルタの起点まで来たとき、ティベリウスは馬を止めた。ここから最も西側の支流に沿って行けば、アレクサンドリアに着く。来た道を戻るというわけだ。おぼろげながら、人家が多かったことを思い返す。地図はないが、迷わないはずだ。

 ところがどういうわけか、ティベリウスはためらった。馬で駆ければ、日暮れ前にも目的地にたどり着ける距離だった。それなのになんだか気が進まない。

 後ろを振り返った。ピラミッドの影がかすかに見えるが、ティベリウスを追いかけてくる姿は確認できない。

 当然だと思った。カエサリオンはティベリウスにかまっている暇などない。たとえ彼がまだティベリウスに執着したとしても、護衛隊長が止めるだろう。子どもを捕まえに戻るなど、百害あって一利なし、今はただ南へ、と。

 しかしロドンのことを考えた。彼は逃避行をできるかぎり遅らせようとするはずだ。国王を巧みに口説き、せめてデルタ村のあたりまでは、などと進言して、引き返させる可能性が無くもない。

 日差しが強さを増していた。ティベリウスは馬の体力を思った。そして自分自身の体力を思った。今は元気だが、そのうち昨日一昨日のつけが来ないとも限らない。少しのあいだ、後方の憂い一切なくのんびりしたかった。

 それに、一昨日まで捕らわれていたアレクサンドリアへすぐに戻るというのも気が滅入る。もちろん二度と捕虜にされるつもりはないが、今しばらくは近づきたくなかった。要するに、このすばらしき自由をまだ手放したくなかったのだ。

 ティベリウスは馬首を返した。ナイルのほとりへ近づき、しきりにきょろきょろした。

 渡し守を見つけたとき、十一歳の顔にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。





 ヘリオポリスのオベリスクを右手に、ティベリウスと馬は船で川を下った。それから川岸に下り立つと、ゆっくり北を目指した。傍らの支流はタニティオコンといい、途中でまた大きく枝分かれして、デルタ最東端のペルシオンへも通じる。渡し守がそう教えてくれたのだが、ギリシア語を解する者だったので、ティベリウスはほかにも目印となる街などの話を聞いた。別れ際、一掴みの金貨を支払うと、渡し守は船底にひっくり返った。

 つくづくだが、ギリシア語を勉強しておいてよかったと思った。ティベリウスは機嫌良くタニティオコン支流に寄り添った。つまりアレクサンドリアとはまったく反対方向に進んでいたのだが、そのことで胸はますます躍った。秘密の冒険に出かけている気分だった。

 もちろんこのままペルシオンまで戻るつもりはなかった。この日が終われば、馬首をきっぱり西に向けると決めていた。

 もう後方を気にする必要はなかった。独りきりだが、だれにもなにも求められない自由は快適だった。あちこちに爛々と輝く顔を向け、異国の雰囲気を堪能しながら旅を続けた。

 日が傾きかけたころ、頂に街がある高台へ上った。馬から降り、ナイルの豊かな流れを眺めながら食事をした。パンが香ばしかった。果物が芳醇だった。干し魚のうま味が体に浸み込んでいくのを感じた。馬には草を食べさせたが、残りの果物類はすべて与えた。それだけの働きをしたと思うし、明日は明日で上の街からでもまた買えばいいのだ。そろって水をごくごく飲んだ。

 太陽が夕日に変わるより早く、ティベリウスは茂みの中へもぐり込んだ。ぎっしり葉のついた枝を重ねて枕にし、母のマントにくるまる。気分は、スケリア島のオデュッセウスだ。

 目を閉じて、また開けると、辺りは夜になっていた。

 いつもの目のおかげで、恐怖は感じなかった。茂みから這い出ると、期待に違わず、満天の星空が迎えてくれた。

 馬は繋いでおいた場所でくつろいでいた。ティベリウスは服を脱ぎ、ドゥーコの短剣だけを持って川辺に下りていった。そしてナイルの水へするする浸かっていき、頭頂部まで見えなくなった。

 しばらく、ナイルは静かに星空を映していた。やがて黒い流れが盛り上がり、ティベリウスの頭が飛び出した。月を掬い上げてきたかのように、その首に黄金のブッラがきらめいていた。

 ティベリウスの目も星屑でいっぱいだった。黒い空から短剣を引っ張り上げると、とても満足して刀身に触れた。辛く不自由な目にずっと耐えてきた。短剣からも、この身からも、あらゆる穢れが流れ落ちていく感じがした。

 ナイルから上がると、裸のまま母のマントをかぶった。短剣を膝に、馬のそばの草原に座った。そのままじっくりと天空を眺めた。

 見渡すかぎりが星の海。久しぶりの光景だった。見れば胸が潰れ、我を無くしてしまうと思っていた。だが今は、そっと微笑み返すことができる。

 彼らはそこにいた。ずっと見守ってくれていた。それなのに自分が長いあいだ顔を背けていた。思えばこのブッラも、短剣やマントを奪われたときでさえ身に着けていたのに、寄りかかることができなかった。恐れていたのだ。ブッラの中には父の指輪が収まっている。どんな顔をしてすがれよう。捕虜となる不名誉を受けた身で、継父の胸に飛び込んだ身で。

 けれども、父はすでに知っていた。

 ――お前は、おのれが正しいと思うことをなせ。どのような決断であれ、これからはお前の正しいと思うことこそが、クラウディウスの意志である。

 あの日二人で過ごした時間、息子に語ってくれた言葉のすべて、それが父ネロの愛だった。今になってティベリウスは、その深さを知った。

 アントニウスが話したことを、全部は否定できない。しかし父は言えなかったのではない、言わなかったのだ。息子の人生を息子に委ねたのだ。息子がクラウディウス・ネロである、その一事を認めたがゆえに。

 今ならばわかる。父に一切の負い目も罪悪感も抱いてはいけない。それはなによりの侮辱だ。クラウディウス・ネロとして息子に向き合ってくれた意志への裏切りだ。あの時間こそが、父と息子が共有した真実なのだから。

 父がなにを思い、どのような人生を送ろうと、息子は自分で決めなければならない。アントニウスが最後にした推測は残酷だが、それでもティベリウスには確信を持って言える。父は最期まで父だった。クラウディウス・ネロであるがまま死んだ。その人生はほかのだれのものでもない。息子が背負うべきは、その誇りだけだ。

 祖先の多くがそうであったように、父もまたおのれの決断を生きた。だから息子ネロもそうする。

 ――いずれ死して我々祖先と神々の前に引き出されようと、そこでたとえその全員を敵にまわすことになろうとも、胸を張っておのれの正しさを主張する、そのような生き方をしてみせよ。

 青い海のような愛だった。最も孤独な道であると父は言っていた。けれども最も大きく、勇気があり、誇り高い愛に支えられている。

 ティベリウスはブッラを握りしめていた。

 星空に、父の厳しい顔を思い浮かべた。その孤高の背中を思った。父へ応えるただ一つの方法は、生きることだと知った。クラウディウス・ネロの誇りを胸に、おのれを生きること。

 この目は、最も愛しい人を映すときも、決して曇ってはならない。最も憎い人を捉えるときも、歪んではならない。

 この肩は、責任を負うことから逃げてはなけない。

 この胸は、いかなる誘惑もはねつけ、いかなる苦しみにも耐え、おのれを保たなければならない。

 ゆらがぬ魂で、必ず立ち上がる。神々にさらわれるその瞬間まで。父がそうであったように。

 神々の前で、ティベリウスは父を敵にまわすかもしれない。だがそれでも今この時と同じく、父は寄り添ってくれると知った。

 幾筋もの雫が頬を伝っていた。およそ三年が過ぎ。ティベリウスはようやく父のために泣くことができた。けれども涙はこれで最後だ。

 夜空を見上げ、ティベリウスは父の誇りを疑ったことを詫びた。そして、きっとそこにいる魂たちに、もう大丈夫だと告げた。





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