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ティベリウス・ネロの虜囚  作者: 東道安利
第一章 ティベリウス・ネロ
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第一章 ‐3

 


 3



 ローマの中央広場――フォロ・ロマーノでは、メッサラ・コルヴィヌスが演壇に立っていた。若いながらも名声を博する雄弁家であり、ティベリウスの友人マルクス・メッサラの父親でもある。

「市民諸君、ローマには今二人の男がいる」

 この言葉とともに始まった演説は、もっぱらオクタヴィアヌスを持ち上げ、マルクス・アントニウスを非難するものだった。市民の安全のために戦い、戦利品を公共事業に当て、質素そのものの暮らしをするオクタヴィアヌス。それに引き替え、エジプト女王の虜となり、敗北し、失政を犯し、想像を絶する贅沢と自堕落な暮らしを謳歌して、もう四年も首都に戻らないアントニウス。そしてその裏切り。

 そのあり様を見るに堪えず、メッサラは六年ほど前にアントニウスの友人をやめていた。憤懣やるかたないとばかりに、時折演壇に足裏を叩きつけていた。

 彼の聴衆をかき分けながら、ティベリウスは我が家へと急いだ。押しのけられた人々が罵声を浴びせたが、気にも留めなかった。

 パラティーノの坂をのぼる。ネロ家の邸宅はすぐそこだ。

 都市ローマの基礎である七つの丘の一つパラティーノは、ローマ一の高級住宅地である。下とはまるで別世界かと思うほど自然が彩り、心地よい風が吹きつける。ここにローマの有力者たちはこぞって邸宅を構えたが、クラウディウス一門もその例外ではなかった。

 ティベリウス・クラウディウス・ネロが生まれたのも、この丘の上だった。アエミリウス・レピドゥスとムナティウス・プランクスが執政官の年(前四二年)十一月十六日、ネロ家の邸宅で産声をあげる。赤みがかった茶髪に白皙の体、そして碧眼と、一族によくある特徴を備えていた。父親は古式に則って息子を床から抱き上げ、我が子と認めた。同じころ、東方のマケドニアでは、フィリッピの戦い――アントニウスとオクタヴィアヌスによる神君カエサルの仇討ち――が佳境を迎えていた。

 それから、まもなく九年が経とうとしていた。

 坂を登りきる。行く手を阻むように、有力者たちの邸宅が立ち並ぶ。ティベリウスは走り続ける。

 あと角を一つ曲がれば自宅玄関というところまで来たとき、ユルス・アントニウスの姿が目に飛び込んできた。ユルスはネロ家の外壁に寄りかかり、難しい顔つきで手元の巻物らしきものを見つめていた。驚いたティベリウスは、足を止めた。

 それに気づいたユルスも驚いたのだろう。慌てた様子で外壁から背中を離す。そして足早に、ティベリウスが来た道と反対方向に去っていった。

 後ろの従者二人が追いつくまで、ティベリウスはあっけにとられて立ちつくしていた。

 ユルスはマルクス・アントニウスの次男だった。年齢はティベリウスより一歳上。現在はカエリウス丘にある家で、マルケルスと一緒に暮らしている。

「坊ちゃま、どうされました?」

 トオンが息を切らしながら尋ねた。

「…いや、なんでもない」

 ティベリウスは再び駆け出して、角を曲がった。

 家の玄関に立つ。ネロ家の邸宅は、周囲のそれよりも古びていて、装飾も少なく、質素な印象を与える。待ち構えていた門番が、ただちに中へ招き入れる。五日ぶりの我が家だった。

 玄関をくぐると、吹き抜けの広間であるアトリウムに入る。中央にある内池が、陽光を受けてきらきら輝いている。アトリウムの奥には応接間がある。通常は朝の伺候に訪れた客に、家父長が応対する場所である。

 この場合の家父長をパトローネス、客をクリエンテスという。二者は相互扶助関係にあり、パトローネスはクリエンテスの権益保護に努める。たとえば経済援助や官職への取立て、もめ事に巻き込まれた場合は法廷で告訴や弁護も引き受ける。一方クリエンテスも、パトローネスが選挙に打って出れば後援者になる。非常時には軍役にも集う。

 これは家だけではなく、国家規模でも適用される関係だった。パトローネスが覇権国ローマ、クリエンテスが属州や同盟国である。家父長制と同様、この関係は古くから国家ローマの基幹となっていた。したがってローマきっての名門貴族クラウディウス・ネロ家ともなれば、抱えるクリエンテスの数も多い。それも本国ローマだけではなく、世界各地にいる。

 しかし、このところネロ家へのクリエンテスの出入りは減っていた。家父長である父ネロが、体調不良を理由に面会を断っているためである。息子でさえも、ここひと月ばかりまともに顔を合わせていない。

 執事のプロレウスが、応接間の天幕をめくって姿を現わした。家の奴隷たちをたばねる彼は、ティベリウスの祖父の代から忠実に仕えてくれている。家父長が病で、その妻である女主人もいない今、ネロ家はプロレウスなしでは成り立たなかった。

「坊ちゃま――」

「父上は?」

 ティベリウスの問いかけに、プロレウスは曇った顔つきではあるが、頷いた。

「少し落ち着かれました。さあ、こちらへ。寝室にいらっしゃいます」

 プロレウスが奥の天幕をめくる。ティベリウスは応接間を横切って、中庭に踏み出す。

 そこでは、草葉がすでに秋の色合いに変わっていた。木立には小さな金色の実がふくらんでいる。どこか物寂しい気色に思えるのは、冬が近づいているからだけではないのだろう。噴水から細く流れ落ちる水音だけが、邸内に響いていた。

 ティベリウスは庭の真ん中を突っ切る。中庭は列柱に取り囲まれ、その奥にはいくつもの部屋が並ぶ。奴隷たちがいるはずなのだが、気配がしない。

 柱のあいだには、一門の祖先の像が並ぶ。来客に見せるためアトリウムに誇らしげに飾る邸宅が多いなか、ネロ家は奥の中庭に置いていた。

 ――誇りとは見せびらかすものではなく、各人がおのれの中に確固保持するものである。

 父が息子に語った、数少ない教えだった。

 ティベリウスは父の質実な精神を尊敬している。自分もその品格を継ぐ男でありたいと心から思う。

 ただ、おかげでネロ家の中庭は、子どもの遊び場には不適だった。ドルーススでさえ、誤って先祖クラウディウス・カエクス像の顔面にボールをぶつけて以来、この場ではしゃいでまわることはなくなった。

 この中庭に入るたび、ティベリウスはいつも誇らしさで胸がいっぱいになると同時に、緊張し、圧倒される。

 貴族クラウディウス氏は、コルネリウス氏、ファビウス氏、ヴァレリウス氏、そしてユリウス氏とともに、ローマ最高位の名門に数えられる。この中でもクラウディウス氏の繁栄は赫々たるもので、現在までに二十八度の執政官職、五度の独裁官職、七度の監察官職を得ている。軍功面においても六度の凱旋式と二度の略式凱旋式を挙げている。

 一門の始祖は、サビニ族のアッピウス・クラウディウスである。サビニ族は、伝説の英雄アエネイスがイタリアに上陸する以前からティベリス川東岸に住み、王政ローマとはその国王を輩出するほど深くかかわってきた。

 今からおよそ四百七十年前、アッピウス・クラウディウスは五千人もの一族郎党を率いて国家ローマに合流した。ロムルスとレムスの双子による建国から数えて二百五十年、王政が倒れ、共和政体が確立して五年後のことだった。

 かつてない規模の移住だった。アッピウスはただちに貴族に列せられ、国家の中核を担った。

 以来、クラウディウス氏は、長きにわたって国家に貢献する人材を輩出し続けるが、その中でも傑出した人物が二人いる。

 アッピウス・クラウディウス・カエクス。街道の女王と呼ばれるアッピア街道の建設者。アッピア街道は、ローマが征服地に敷いた初めての道で、後に属州の端々に至るまで敷設されるローマ街道の第一本目である。

 さらには、都市ローマに最初の水道を引いた人だ。先ごろオクタヴィアヌスとアグリッパが新たに完成させた水道も、その第一本目はカエクスが敷設したアッピア水道なのである。

 ティベリウスはこの先祖の像を、いつも畏敬をも超えた思いで見つめるほかない。はるかガリアの果てまで怒涛のように街道を建設した神君カエサルを含め、これまでに国家を担った数多くの指導者たちも、この偉大な人物を踏襲しているのだ。

 そしてガイウス・ネロ。その大胆不敵な行動でハンニバルを出し抜き、弟ハシュドバルを討ち取った、勇将。十六年にわたった戦争の勝利の端緒を切り開きながら、凱旋式の栄誉を軽蔑した、傲慢不遜の男。

 ネロ家も含め、クラウディウス一門は総じて強硬な貴族主義の気質で知られていた。共和政体のローマでは、平民出身でも実力次第で元老院議員になれるのだが、クラウディウス一門は貴族の血統を格別誇った。常に貴族の権勢を支持し、擁護したため、平民階級との軋轢がしばしば生じた。だから庶民にしてみれば、クラウディウス一門はだれもかれも鼻持ちならない傲岸不遜な人々に映っただろう。平民などに国益のなんたるかがわかるはずもない。選ばれた者が、揺らがぬ理性と不抜の責任感でもって、国の統治を担うべきである。一門の人間は、女も含めてこのように考えていた。

 それでだいたい嫌われ者だったのだが、一門のほうでも、他者にへつらうような真似は一切しなかった。たとえば、裁判で死刑を宣告されようと、だれひとり喪服に着替えて人々に慈悲を請わなかった。

 他者に同情はもちろん、理解さえ求めようとしない。おのれが良かれと思ったことを、ただ誇りと不屈の意志のみで行う。傲岸不遜の貴族主義は、自利のためではない。そんなことは誇りが許すはずもない。すべてはおのれの一門が担うと強烈に自負する、国家ローマのためである。クラウディウスの精神はこのようにあった。

 こうした祖先のことを、父ネロは息子に語って聞かせたことがあった。その話しぶりは厳格で、国家ローマと常に共にあった血統を継ぐ誇りに満ちていた。しかし、自分の話はほとんどしたことがなかった。

 ティベリウスの知る父は、いつも書斎にいた。外へ出て、息子に声をかけることなどめったになかった。会いに訪れれば、いつでもいかめしい顔をしていた。同じ表情ばかりしているためか、刻まれた皺は深い。口調は常にゆっくりとして、重々しく、体の動きもそれに呼応しているかのようだった。対面するときも、窓越しにふと視線が合うときも、その双眸は陰鬱で、深く物思いに沈んでいた。

 どうして父がいつもそんな目をしているのか、ティベリウスにはわからなかった。息子である自分になにか問題があるのか。父の意に背くような育ち方をしてしまっているのか。それとも、なにかほかに苦悩を抱えているのか。

 しかし父はなにも言わなかった。

 自分は父に遠ざけられている。そうティベリウスは思っていた。最近知ることになった養子縁組の件が、その不安を強くしていた。

 マルクス・ガリウスという男が、ティベリウスを養子にして死んだのは五年前だった。母リヴィアが父と離婚し、オクタヴィアヌスの妻となってまもなくのことだ。当時幼少のティベリウスは、その縁組自体なにも知らなかった。遺言による養子縁組であり、父ネロの家父長権支配から外れるわけではない。しかし、遺言どおり養子となって遺産を相続するなら、養父の家名を継ぐことになる。

 このとき、父ネロにはもう一人息子がいた。先妻リヴィアが、カエサル家に嫁いでから産んだ次男である。父はこの次男の名を、デキムス・クラウディウス・ドルーススからネロ・クラウディウス・ドルーススに改めた。

 つまり、長男にガリウスの名を継がせ、次男にネロの名を残すという意図にほかならない。

 これを知ったティベリウスの衝撃はとてつもなかった。

 ネロ家の嫡男、クラウディウス一門直系の男、それが自分だった。それ以外のなに者であるというのか。

 父が祖先について語ってくれたのは、自分にクラウディウス一門の血だけでなく、精神も継がせるためではなかったのか。その血を誇り、祖先の名に恥じぬ男になって故国に貢献せよと、伝えていたのではないのか。

 それなのに、父の嫡男である証をどうして奪うのか。

 その後二ヶ月間、ティベリウスは自宅に顔も出さず、カエサル家に寝泊まりし続けた。

 ついにメッサラ・コルヴィヌスが相談に乗った。友人の父親であるばかりでなく、将来はその下で学問しようと、ティベリウスが心に決めている人だ。

 メッサラはいかにも気楽に笑いながら言った。

「気にするようなことではない。養子縁組なんてよくあることだ。まだ小さい君には難しいかもしれないが、色々な理由で大人がよくやることなんだよ。たとえば、ネロ家との結びつきによって権威を高め、出世を狙うとかね」

「でも遺言でですよ」ティベリウスは抗議した。「死んだ後では結びつきもなにもないでしょう? ガリウス殿には息子だっていなかったのに」

「そう、だから君を養子に望んだわけだが、実のところ男子の親族もいなかった。だからガリウスの場合は、名家と縁を結ぶためではなく、遺産を相続させるための養子縁組だったのだろうな」

「だけど、ぼくを養子にしなくてもよかったでしょう。遺産なら、父を相続人に指名すれば済んだはずです」

 友人など、親族ではない者を相続人に指名することは、ローマではよく行われていた。

「それではガリウスの名を残せなくなるからね」

 メッサラは落ち着いて言った。

「名と遺産の両方を相続させたいなら、養子縁組しかない」

「なぜ、ぼくなのです?」

 ティベリウスは詰め寄った。

「ぼくはガリウス殿のことを知らない。なぜぼくを指名したのです?」

「お父上のネロ殿と知り合いだったのだろう。それでなんらかの理由で幼い君を気に入った。ありうることだ」

 メッサラは微笑んでみせた。

「ぼくにはわかりません」

 しかしティベリウスは頑なに言った。

「でも…それなら父は、ガリウス殿がぼくを養子にするつもりだと、知っていたはずですよね。だから断ることだってできたんだ」

「いや、知らなかったのかもしれない」

 メッサラはあっさりと言った。

「遺言が公になって初めて知ったのかもしれない」

「…だとしても、そのとき相続を断ることもできた」

 痛切に、ティベリウスはうめいた。

「父はなぜ承諾したのです? 遺産がほしかったのですか? ぼくからネロの名を奪って、ガリウスの名を与えてまで」

 目の前にいるのが父本人であるかのように、ティベリウスは迫った。

「父上はぼくにネロ家を継がせたくなかったのですか? ぼくになにか悪いところがあって、ドルーススに継がせることにしたのですか?」

 視界がゆらいだ。

「父上はぼくがいらなかったのですか?」

 ネロ家を継ぐのは自分だと思っていた。父の子として、生涯ネロの名を背負って生きる。

 なにがあろうと、それは変わらないはずだった。

「それは違う。まあ、落ち着きたまえ」

 メッサラは優しくティベリウスの肩を叩いた。

「まずなにより、お父上は君からネロの名を奪うつもりなどなかった。たしかに、養子が元の家名の代わりに養父の家名を名乗る場合は多い。たとえば、そう、カエサルがおられるね」

 ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌスは、神君カエサルにより、遺言で養子とされた。養子になる前の名はガイウス・オクタヴィウスである。

 オクタヴィアヌスは長男で、実父は騎士階級から元老院議員にのし上がった人だったが、このときはすでに他界していた。

 ティベリウスは考えただけで怖気立った。

 もしその例にならうならば、自分の名は――。

「しかしそうではない場合もある」

 メッサラはすぐに言った。

「たとえば、先代カエサル暗殺者の一人になるが、デキムス・ユニウス・ブルートゥスがそうだね。彼は養子縁組してから、デキムス・ユニウス・ブルートゥス・アルビヌスと名乗った。元の家名のあとに、アルビヌスという養父の家名を添えたんだ」

 デキムス・ブルートゥスは、神君カエサル暗殺の首謀者マルクス・ブルートゥスとは別人である。しかし暗殺実行部隊には加わっていた。ガリア戦役での軍功著しく、神君カエサルが最も信頼を寄せていた部下の一人だった。なにしろ神君カエサルは、オクタヴィアヌスが遺言による相続を断った際の、第二位の相続人にこのデキムスを指名していたのだ。

 今はもう、亡き人である。

「君の父上も、そういう形で名前の継承を考えていたのではないかな? ほらっ、私などがそうだが、養父の名前でなくとも、家名の後に添え名を重ねることは、皆よくやるから」

 メッサラの本名はマルクス・ヴァレリウス・メッサラ・コルヴィヌスである。コルヴィヌスが添え名になる。

「だとしたらなぜ、ドルーススの名前を変えたのです?」

 父は次男の個人名をデキムスからネロと改めた。ネロは普通個人名に使う名前ではない。つまり、兄からネロの家名を取るので、弟に強引に与えたと考えるしかないではないか。

 ティベリウスは弟ドルーススをほかのだれよりも愛していたが、これは別問題だ。

「前提がまちがっている」

 しかしメッサラは言った。

「君の養子縁組とドルーススの改名には、直接の関連はない」

「どうしてそんなことが言えるのです? 同じ時期のことでしょう?」

 無礼になるほどの勢いで、ティベリウスは食ってかかった。

「なぜ私がデキムス・ブルートゥスの例を挙げたと思う?」

 メッサラは質問を返した。ティベリウスははっと息を呑んだ。

 デキムス・ブルートゥス。最悪の暗殺者。カエサルに最も愛されていながら、その体に凶刃を突き刺した裏切り者。事切れる間際、カエサルは「ブルートゥス、お前もか」とつぶやいたという。

「改名したくなったのかもしれない。たまたま同じ時期に」

 メッサラは言った。

 ティベリウスは頭が混乱してきた。

 メッサラの説明はもっともらしい。父が息子のデキムスという個人名を改めた理由は、暗殺者を思わせるからだったのかもしれない。オクタヴィアヌスへの配慮から思い立ったことなのかもしれない。しかし、どこかおかしい。

 父は長男にネロ、次男にドルーススという異なる家名を与えた。母方のリヴィウス・ドルースス家の名を残すためであり、また、成人した後の次男に、兄の家父長権から離れた、一家の主の身分を与えてやりたかったのだろう。そこまではいい。

 だが改名の際、あえて個人名にネロを入れた、そのことは説明できるのか。

「ぼくにネロの名を残すつもりなら、ドルーススの個人名はネロでなくてもよかった。ハシュドバルを倒したあのガイウスがすぐ思いつくはずだし、グネウスでもティトゥスでも、ほかに色々あった」

「ドルーススにもネロの名を残してあげたかったんだろう」

 メッサラの返答に、ますます困惑した。

「だったら…」ティベリウスはなんとか言葉を発する。「はじめからネロ・クラウディウス・ドルーススにすればよかったではないですか…」

「それは結果論だよ、ティベリウス。人の考えは変わる。こうした微妙な問題なら特にね」

 ティベリウスはうめくしかなかった。

 納得していいのだろうか。

 微妙な問題とメッサラは言うが、父が次男の名前を決める前後、起こっていたことはなにか。

 ドルーススはクラウディウス・プルケルとガイウス・フラックスが執政官の年(前三八年)四月、カエサル邸で生まれた。デキムス・ブルートゥスが死んで五年、フィリッピの戦いから四年が過ぎていた。

 ドルーススが誕生すると、世間では「このごろは結婚するや、三ヶ月で子どもが生まれるようになったねぇ」と面白おかしくささやかれたという。というのも、オクタヴィアヌスとリヴィアの結婚式が執り行われたのが、その年の一月だったからである。赤ん坊はオクタヴィアヌスの子どもだとしきりに噂された。その不品行の評判を避けるため、オクタヴィアヌスは赤ん坊をすぐに実父の下へ送った。

 父ネロが赤ん坊を認知し、デキムス・クラウディウス・ドルーススと名づけたのはそのときである。

 オクタヴィアヌスの気持ちを慮るなら、その時点でデキムスという名前は避けておくべきだった。というのも父ネロは、認知するやすぐに我が次男をカエサル家に送り返したからである。「母親の下で養育されるほうがよかろう」と言って。

 父はデキムスという名前を意識していたのだろうか。意識していながらあえて、その名前をつけてカエサル家に送り返したのか。

 ティベリウスは大きく首を振った。

 意識していなかったのかもしれない。だから後になって、しまったと思い直したのかもしれない。メッサラの言うように。そうだ、そうに違いない。

 だが…だとしたらなぜ、一族に多い名前でもないデキムスを最初に選んだのか。偶然と言い切れるのか。

「ティベリウス?」

 メッサラが心配そうに呼びかけるが、聞こえない。

 それで今度はその数ヶ月後、ティベリウスをガリウスの養子にし、次男のデキムスの名前を改め、ネロとする。

 この父の意図は、いったいなんなのか。

 あるいは父とだれかの意図が、絡み合っての結果なのか。

 両肩を叩かれて、ティベリウスははっと我に返った。

 メッサラが情け深い目で彼を見つめていた。同情しているようにも見えた。

「問題点を整理しよう。君が恐れている第一の問題だが、お父上は君からネロの名を奪うつもりなどなかった。もしそうだとしたら、今ここにいる君はティベリウス・ネロと名乗っていないはずだ。ガリウスが死んだとき、お父上は君との養子縁組に同意した。それは故人の遺志を尊重したから、なにより将来の君のために遺産を預かりたかったからで、ドルーススの改名とは別件だ。

 では第二に、なぜドルーススの個人名を改めたのか。たまたま同じ時期、お父上が思い直したからだ。お父上の予想以上に、カエサルは君とドルーススを可愛がった。嫁だけ連れていくのが通例なのに、カエサルはめったにいない、心の優しい継父になった。おかげでカエサル家とのつながりがますます深くなり、デキムスという名前をつけたことを、後悔しはじめた。そこで新しい名前を考えたが、ドルーススにも我が家名を残してやりたくなり、ネロに決めたというわけだ」

 ティベリウスはなおも困惑したままメッサラを見返したが、なにも言えなかった。

 メッサラの説明は筋が通っていないわけではなかった。これ以上反駁はできなかった。

「ぼくは――」ティベリウスは拳を握りしめた。「養子のことなんて知らなかった。ガリウスの名を持っていることを、だれもぼくに教えなかった」

「その理由は、もう君も知っているはずだ」

 メッサラは言った。

 実は、養子縁組を知って衝撃を受けたのは、ガリウスという名前にも理由があった。ティベリウスが生まれる少し前のことだが、事件があった。

 クィントゥス・ガリウスという男が、カエサル邸に朝の伺候にやってきた。クリエンテスとしてご機嫌うかがいをしたわけだが、このときクィントゥスは衣服の下に武器を隠し持ち、応対した家父長オクタヴィアヌスの殺害を図ったという。その場はほかの伺候者がいたためか、凶行にはおよばなかった。しかし陰謀を察したオクタヴィアヌスは、ほどなくしてクィントゥスを投獄した。その年の法務官だったクィントゥスは、裁判官席から連れ出されたという。

 このクィントゥスが、ティベリウスを養子にしたマルクス・ガリウスの弟だった。

 その後オクタヴィアヌスは、彼を追放処分にした。だがクィントゥス・ガリウスはもうこの世にいない。オクタヴィアヌスによると、追放地へ向かう途中、船の事故か強盗に遭うかして命を落としたという。ところがその後、オクタヴィアヌスがクィントゥスを奴隷も同然に拷問し――法はローマ市民への拷問を禁じている――その手で目玉をえぐりとり、あげくに処刑した、などという噂が巷に流れた。

 そんな噂、ティベリウスは信じなかった。カエサルの政敵による嫌がらせだと思っていた。そして、自宅で安心しているカエサルを狙うなど、そんな卑劣なことがあっていいのか、と無邪気に憤慨したものだった。

 このときネロ家の奴隷が、「もうそのようなことは起こりませんよ。今やガリウス家の権利は、坊ちゃまにあるのですから」などと口を滑らせなければ、養子のことを未だ知らないままだったに違いない。

「なぜ」ティベリウスの声が震えた。「なぜ父は、あんな男の家族とぼくを養子縁組させたのですか!」

 父がクィントゥスの事件を知らなかったはずがないのだ。

「君の第三の問題がそれだ」

 メッサラはあくまで落ち着いていた。

「しかしティベリウス、だれかが罪を犯したからと言って、その家族まで責めるのは酷というものだよ。クィントゥスは単独で陰謀を実行しようとした。マルクス・ガリウスはかかわっていなかった。お父上としても、弟の罪のために兄の遺志を拒否するのは忍びなかったのだろう」

 メッサラは微笑した。

「それにね、君の第一の問題は、第三の問題がすっきりさせてくれるんじゃないのかい」

 つまりメッサラはこう言いたいのだ。父ネロははじめから遺産だけ相続させるつもりだった。養子縁組した手前ガリウスの名は息子に残さなければならないが、使用させる気はまったくなかった。もし故人の遺志を守っていないと非難されても、カエサルに陰謀を企てた男と同じ家名だからという名目が立つ。いずれだれもが養子縁組の件を忘れてしまうまで、その言い訳を通せばいい。

 結局、父はただ遺産を相続したかっただけなのか。メッサラの話から建前をとれば、そういうことにならないか。

 だが、建前をとった事実が、本当に真実なのか。

 メッサラは軽くティベリウスの肩を叩いた。

「まだ混乱しているだろうが、いずれ君にもわかるよ」

 ティベリウスにはこれ以上なにも言えなかった。父の意図、父という男の真相は、いつまでも宙に浮かんだまま、少しもつかめた気がしなかった。

 だが、メッサラが教えなかったことが一つあった。マルクス・ガリウスはアントニウスの腹心だったのである。

 その後、久しぶりにネロ家に帰ったときのことだった。元老院議員のトーガを着た来客が四人もいた。父の支度ができるのを待っていたのか、アトリウムをぶらついていた。

 ティベリウスを見ると、客たちは名乗りもせず、すぐさま取り囲んできた。そして勝手に手さえ取って、しきりに話しかけてきた。

「お父上は元気か?」「このところお見かけしないが、お体の加減が悪いという噂は本当か」「ぜひ東方で療養されてはいかがか。ロードス島や、エフェソスなどはどうか」「もちろん、きみも一緒に」「きみの祖父はアジアで属州総督を務めていた。行ってみたいだろう?」「アントニウスが歓迎するはずだ」「きみの養父ガリウスが生きていたら、そう勧めたに違いない」

 直後、恐ろしい形相の父が飛び出してきて、四人を家から追い出した。

 およそ愛想とは無縁の父だったが、礼儀は心得ていた。そのときの行動は異常だった。

 困惑している息子を見て、父はなぜ戻ってきたのかと問うた。ティベリウスが絶句していると、自分の病気がうつるといけないから、カエサル家に帰るがいいと言い捨て、部屋に戻っていった。

 それ以来、父の顔を見ていない。

 それから今日まで、幾度となく二つの名前を反芻して過ごした。

 アントニウスとマルクス・ガリウス。

 この二人はつながっていた。

 それも、あとで調べたことだが、かなり親しい仲だった。

 そして、弟のクィントゥス。

 彼はカエサルの命を狙った。

 さらには、父とも知り合いだったに違いない。この事件があった年、父ネロその人も法務官だった。クィントゥスの同僚だったのだ。

 ガリウス兄弟はオクタヴィアヌスの敵だった。

 アントニウスと近しい間柄だった。

 父の意図について、ティベリウスは、自分が手にしようとしている答えがなんなのか、わかりつつあった。それは、最も望ましくないものだ。

 デキムスと言う名の次男をカエサル家に送り返したのも、長男をガリウスと養子縁組させたのも、同じ思いから出た行動だったのか。

 真情は、父ネロという人物を知る以外、つかめそうになかった。しかし父自身はなにも語らないし、語るつもりもないように見えた。

 だが、父がオクタヴィアヌスの敵だったことは、ずっと前からわかっていたはずではないのか。




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