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ティベリウス・ネロの虜囚  作者: 東道安利
第三章 アクティウム
23/57

第三章 ‐9

 


 9



 九月一日、嵐はまだ続いていた。だが少しずつ、テントを打つ雨の勢いが弱まっていくのがわかった。本営は静けさに包まれていた。

 昼近くまで眠っていたティベリウスに、マルケルスはずっと寄り添っていた。

「また起きなくなったんじゃないかと思った」

 そう言って、ティベリウスの肩に頭をこすりつけてくる。それをなででやりながら、ティベリウスは願った。明日が、マルケルスの長い不安が終わる日であるように。

 九月二日、快晴。

 日の出とともに、司令官タウルス以下全陸軍が、アクティウムに並んだ。目は一様に、アンブラキア湾の奥に注がれていた。ティベリウスとマルケルスも、岬の最前列に立って見守った。

 まばゆい朝日を浴びて、敵艦隊がついに動き出した。タウルスはただちに狼煙を上げさせた。コマルスに待機するオクタヴィアヌス艦隊は、これで時が来たことを知る。陸上軍は、自分たちもともに出撃するかのように、一斉にラッパを吹き鳴らした。すると、対岸の岬を埋めつくす敵陸軍も、同じく大音を響かせた。

 曲がりくねった湾口に、じりじりと敵艦隊が押し寄せる。

「大きいね」

 陽光に目を細めながら、マルケルスがつぶやいた。眼下に迫る軍船。そのほとんどが、情報どおり大型だった。五段櫂船以上だろう。

 ティベリウスは敵船の数を数えようとしていたが、朝日に邪魔されて上手くいかなかった。それになにより数が多すぎた。

「当初は軍船五百、補給船三百の計八百でしたよね?」

 ティベリウスは後ろのメッサラに確認した。執政官であり、情報を統括している彼ならば、敵戦力の正確な規模を知っているかもしれないと思ったからだ。

 だがメッサラは慎重な様子でうなずくと、これだけ言った。

「現在はそれを大幅に下回っているだろう」

 そう言うとコマルスから来た伝令を迎えに、堡塁のほうへ下がっていった。ティベリウスは目をしばたたいて見送った。

「戦力は両軍ほぼ互角だ」

 そう声をかけてきたのは、陸軍司令官スタティリウス・タウルスだった。寡黙な男で、大柄な体を司令官椅子に沈めている。メッサラは、この人物のほうが自分より軍事の才に秀でているからと、執政官であるのに司令官を辞退したらしい。

「我が方としては、敵の大型船と、アントニウス殿の武勇にどう立ち向かうかだ」

 そう言いながら、タウルスの鋭い目線は眼下の艦隊よりも、対岸の陸軍を注視していた。艦隊に乗せられる戦闘員には限りがある。こちら側もそうであるように、敵も半分以上の戦力が陸に留まっているのだ。もし敵陣に動きがあれば、タウルスとメッサラが陸軍を率いて応戦しなければならない。そうなればティベリウスとマルケルスも巻き込まれずにはいられないだろう。

 いずれにしろ、海上の行く末が陸の運命も左右することは明らかだった。

 ひときわ大きなラッパの音が、青空へ突き抜ける。岬の北から、オクタヴィアヌス艦隊が南下してきた。アントニウス艦隊はまだアンブラキア湾口に達していないのに、驚くべき速さだった。

「叔父上…!」

 マルケルスが駆け出し、イオニア海に向かって立つ。ティベリウスとユバも後を追った。

 オクタヴィアヌスの戦力は軍船四百隻、戦闘員三万七千と知らされていた。これで敵戦力と互角の見通しとのことだが、実際は、艦隊の一部をパトラスなどに残しているため、四百隻以下であるはずだった。

 だが、ティベリウスは思う。三月に上陸して以来、いやそれよりも前から、オクタヴィアヌスは実に辛抱強い作戦を展開してきた。アグリッパがこの戦略を考案し、実際の指揮を執ったのは疑いもない。だがこの二人の連携は完璧だった。少しでもずれや軋轢が生じれば、作戦は機能し得なかった。

 当初は戦力の規模といい、軍費に地盤といい、敵が明らかに有利だった。だがオクタヴィアヌスとアグリッパは、半年をかけてついに互角に持ち込んだのである。忍耐を重ね、情報収集と共有を怠らず、地道な作戦を続けた結果。

 すべてを賭ける、この日のために。

 オクタヴィアヌス艦隊は、瞬く間に沖合に整列していった。未だほとんど動かない敵艦隊に対し、動きが素早い。漕ぎ手を十分に鍛え、軽快な走行を重視した三段櫂船中心の編成である利点だった。敵大型船の脅威がささやかれようと、アグリッパは自信を持ってこの戦術を進めた。

 その彼の明晰な総指揮によるのだろう、艦隊が戦闘準備を整えた。陸上の会戦のように、右翼左翼中央の三隊に分かれている。湾口からはおそらく一キロ以上距離をとっているが、それでも岬からよく見えた。

 決戦のすべてが、目の前で展開する。

「勝てるよね」

 マルケルスの張りつめた声に、ティベリウスは大きくうなずいた。勝てるはずだった。そう信じた。これほど入念に準備を行ってきたのだから、負けるはずがないと思った。オクタヴィアヌスとアグリッパは、完全勝利を手に笑顔で戻ってくるのだ。

 だがドミティウス・カルヴィヌスがつぶやいた。

「戦は終わってみるまでわからない」

 ティベリウスははっとなった。この老将軍は、かつて圧倒的劣勢を何度もくつがえしてきた世界一の将軍を、傍らで見てきた。敵将アントニウスもしかりである。

 総大将の力量で、すべてが決する。

 晩夏の太陽はゆっくりと天頂を目指し、まもなく人の業で荒れ狂うイオニア海をまばゆくきらめかせていた。星屑が遊泳しているようだ。

「おかしいな」

 ふいにユバがつぶやいた。アンブラキア湾口を見つめていた。

「さっきから敵艦隊が全然動いていないように見える」

 そういえば、とティベリウスとマルケルスも目をしばたたいた。敵は湾口を出てすぐのところで固まったままだ。

「実際、動いていないんだよ」

 教えるカルヴィヌスに、ユバが丸い目を向けた。

「我が方の艦隊に怖気づいたのでしょうか?」

「そうではないと思う。おそらくは追い風を待っているのだろう」

 今は無風状態だ。アントニウスは東からの追い風に乗って一気に突撃をかけようと、待機を命じているらしい。

「カエサルの側から攻撃をかけないのでしょうか? 狭い湾口で迎え撃てば有利では?」

 ユバの言葉に、カルヴィヌスは首をかしげた。

「どうかな。敵は大型船だ。狭苦しいところでやり合っても、制圧するのは難しい。戦いも長引くし、また湾内に引き返していくかもしれない。おそらく我らが最高司令官は、敵を海上におびき出し、大型船一隻を数隻で取り囲んで倒すつもりだろう」

「でもアントニウスに追い風に乗られたら、叔父上はその勢いをまともに受けてしまう」

 マルケルスは心配そうに眉尻を下げた。ティベリウスも難しい顔をした。艦隊が敵とほぼ同数なら、複数で囲む余裕があるのだろうかと考えていた。

 カルヴィヌスは空を見上げて、首をまわした。

「我らが海の風は気紛れだからね。どうなるかな」

 結局敵が動かないまま、太陽は天頂に達した。

 夏の盛りを過ぎたとはいえ、日差しは強い。そのうえいつ敵が動き出すともしれない緊張状態である。居並ぶ軍団兵たちは平然としていたが、子どもの身にはこたえてきた。マルケルスはしだいに肩で息をつく回数が多くなった。いっこうに動かない時間が流れるなか、ティベリウスは海上のオクタヴィアヌスの体調を心配していた。だがユバがふらついたのを見て、ようやく身のまわりの事態に気づいた。マルケルスの手を引き、ユバにも声をかけて、司令官タウルスの上に設置された日よけに退避した。水を配りながら、二人に申し訳ない気持ちになった。

 そこへメッサラがやってきた。

「我が方は左翼をアグリッパ、中央をアルンティウス、右翼をカエサルとルリウスが指揮という布陣だ」

 コマルスに連絡船が届いたのだろう。右翼に指揮官が二人いるのは、最高司令官であるオクタヴィアヌスが、戦況に応じて各戦列を動きまわるためである。

 タウルスは黙ってうなずいた。

 メッサラは、ティベリウスがマルケルスやユバと一緒に座っているのを見とめた。すると小さな頭に、褒めるようにそっと手を乗せ、それから沈着な目で湾口を見下ろした。

 太陽が天頂から下りはじめた。

 するとこれまで草葉一本揺れなかったアクティウムに、風が吹きはじめた。ティベリウスは日よけから出ると、指を舐めて外気にさらした。風は微風程度だった。海からの西風だ。

 ところが、これで敵艦隊が動き出したのである。

 岬の軍団兵たちが色めきたった。すし詰め状態だった敵艦隊の南端が海上へ漕ぎ出し、それが左翼であることが明確になる。

 どうしてなのだろう。ティベリウスだけでなく、岬に立つ多くの兵が思ったに違いない。追い風どころか逆風である。こう着状態にしびれを切らしたのだろうか。

「このまま風が強まれば、岬に打ちつけられかねないからな」

 メッサラがつぶやくように言うと、足早に日よけの外へ出た。

「いよいよだ」

 そのとおりだった。敵左翼に続いて右翼、それから中央も前進を開始する。タウルスはまた狼煙を上げさせたが、オクタヴィアヌスからも確認できただろう。彼のいる右翼が、先陣をきる敵左翼に呼応して動き出すのが見えた。メッサラの横で、ティベリウスは両拳を固く握りしめた。

 マルケルスとユバも前に出てきた。

 敵右翼が、足下の岬をなぞるようにじりじり前進していく。船は高さも幅も、オクタヴィアヌスのそれを圧倒していた。青銅で頑強に武装した衝角が、不気味な鈍い光を放つ。それらの大型船が次から次へと櫂を掲げ、波に突き刺し、青きイオニア海へ展開していく。威圧感だけで、行く手を塞ぐあらゆる船を追い散らしそうだ。

 はっと、マルケルスが息を呑むのが聞こえた。ティベリウスが見ると、彼は愕然と、青ざめた顔で打ちのめされていた。目線をたどる。そこにはちょうど眼下を通り過ぎようとする軍船。舳先には銀鷲旗。そして、陽光と同じ色に輝く甲冑をまとった男。

 紅紫色のマントが風になびいた。

「父様…!」

 その言葉に、ティベリウスも慄然とした。遠目ではある。はっきりと容貌は確認できない。だがあそこで指揮棒を手に立つ男こそ、敵の最高司令官マルクス・アントニウスその人である。継子であったマルケルスには、およそ六年ぶりの再会となる。もっとも、アントニウスにはかつての継子の姿は確認できないだろうが。

 ところが、そのアントニウスがこちらを振り返った。まるで目線が重なったかのように、マルケルスの肩がびくりと跳ね上がった。海上から見上げるアントニウスに、個人を識別できたはずがない。よしんば軍団兵にまぎれた小柄な人影に気づいたとしても、それがかつての継子だと判別できただろうか。

 それでも、アントニウスは笑ったように見えた。マルケルスに。アクティウムに立つ陸軍全員に。彼は手を上げた。

 マルケルスが震えだした。だがそれは恐怖からではなかった。悲しみと、恋しさと、怒り。彼は猛然と岬を駆け下りていきそうだった。崖から飛び下り、船まで突進し、アントニウスの胸倉をつかみ、感情をすべてぶちまけてやりたいのだ。

 どうして! どうしてこんなことに……!

 アントニウスは岬に船尾を向けた。待ち受けるオクタヴィアヌス艦隊へ、北へ寄りながら前進する。つまりは彼が右翼だ。左翼のアグリッパと直接対決するのだ。

 ティベリウスの体も震えた。

「見ろ!」

 そこへ、後方からどよめきが届いた。ティベリウスとマルケルスが振り向く。

 湾口から、並外れて巨大な船が現れた。

 スフィンクスを描いたエジプト軍旗がはためく。船体はひときわ高く、重々しく、海上にいるすべての船を木端微塵につぶせそうだった。浮いているのが信じられない。海を歩く怪物のようだ。だが怪物と言うには、その巨大船は絢爛だった。白い波を掻く櫂はすべて銀色。船首も船尾も黄金で装飾され、船縁には房飾りもたっぷりの紅紫色の幕が掛けられている。脅威と洗練を兼ね備えたエジプト国力の結晶、旗艦アントニアがごくゆっくりとイオニア海に乗り出した。

「女王だ!」「女王クレオパトラのおでましだ!」

 岬は騒然となった。だれもがアントニア号をこの目で見ようと、岬の先端に詰めかけた。

 乗員は軽装歩兵が主だが、アントニウスが護衛につけたのだろう、ローマ軍団兵の姿もあった。戦闘には不似合いな、着飾った侍女らしき人影も見えた。

 しかし女王その人らしき姿は、船上に見えなかった。おそらくは、甲板中央部に広がる、繊細な白い天幕の中に座しているのだろう。玉座らしき影がかすかに見え、風にゆられてできた隙間から黄金の輝きが漏れてきた。

「あの中に、一体どれだけのお宝が…」

 軍団兵のだれかがつぶやいた。

 アントニア号を取り巻く艦隊の数は、ティベリウスでも確認できた。六十隻ほどだ。当初エジプト船は二百隻と言われていたが、残りはアントニウスらと前線に出ているか、焼き払ってしまったのだろう。

 エジプト女王はこの巨大船でもって、オクタヴィアヌス艦隊へ突っ込むつもりなのか。

 アントニア号はじりじりとまっすぐ進み、中央戦列の後ろについた。しかし旗艦の到着を待たず、左翼はオクタヴィアヌス右翼と衝突していた。

 激しい鬨の声を乗せた風が、アクティウムに吹きつけた。続いて船体のぶつかり合う音。あるいは砕け散る音。

 ティベリウスが唾を呑み込む音は、岬の陸軍大勢のそれと重なった。

「叔父上、がんばれーー!」

 マルケルスが叫んだ。するとユバや周りの軍団兵たちが、我に返ったようにはっとなった。

「ユリウス・カエサルにご武運を!」

 軍団兵の一人が叫んだ。

「我らが最高司令官! インペラトール・カエサル・オクタヴィアヌスに勝利を!」

 ほかの軍団兵たちも続き、剣で盾を叩く音が加わった。頭が割れんばかりの大音声が、アクティウムをゆるがした。

 ティベリウスも大いに叫んだ。沖合にいるオクタヴィアヌス艦隊にどれだけ届くだろう。手前のアントニウス艦隊には聞こえるだろうが、かまわなかった。継父の、アグリッパの、ピソの、ドゥーコの名を呼び、彼らにわずかでも勝運を呼び込もうと腹の底から声を出した。悲鳴のような、祈りでもあった。

 対岸の敵堡塁も、負けじと大音声を轟かせていた。

 岬から戦況を知るのは難しかったが、メッサラとタウルスは海上から逐次暗号を受け取っているようだった。少し時間差は生じるが、連絡船が出入りするコマルスからも伝達吏が到着した。

 それらの情報によると、現在、両軍はほぼ互角。オクタヴィアヌスの右翼はやや劣勢、アグリッパの左翼はやや優勢であるという。

 アグリッパの左翼が、しだいに北へ戦列を長くしていく様子が見えた。ティベリウスがカルヴィヌスに尋ねると、アグリッパは敵艦隊を囲い込むつもりなのだろうと教えてくれた。敵右翼のアントニウスも、その動きに対抗して戦列を伸ばしていく。

 これが作戦なのだとわかってはいたが、ティベリウスは、アグリッパがオクタヴィアヌスの右翼からどんどん離れていくことに不安を覚えた。戦素人の感情ではあるが、押され気味のオクタヴィアヌスの下へ、すぐにでも援軍に駆けつけられる位置にいてほしかった。

 だが戦列はどんどん広がっていった。それも悪いことに、敵にとっての追い風が吹きはじめた。岬の声援を送り届けようとするかのような、ありがた迷惑な東風。これに乗って、鈍重だったアントニウス艦隊が勢いづく。巨体に任せてアグリッパの戦列を突破しようと試みているはずだ。

 オクタヴィアヌスの戦列全体が、押されているように見えた。沖合に後退していく。小ぶりな艦隊は、死力を尽くして敵大型船に総攻撃をかけているのだろう。転覆していくあの船は、敵のなのか、味方のなのか。

 伝達吏が現れた。全戦列が勢力伯仲。まるで陸上戦のごとき様相を呈しているとの報告だった。というのも、海戦では通例の、衝角を使った船同士の激突がほとんど起こらなかった。鈍重な敵船はそれをするだけの速力に乏しく、小ぶりな味方船は青銅で固めた敵大型船に正面からの突進を避けたためである。それでまずは飛び道具で攻撃となるのだが、船体の高さがあるぶん敵が優位であり、さらに甲板に櫓を立てて器械を使い、石や矢を浴びせてくるという。

 しかし、これに味方は敵大型船を数隻で取り囲むことで対抗している。盾で頭上を守りながら槍を投げつけ、敵が一方に集中している隙に、他方から梯子を掛けて乗り込む。そうなればもはや肉薄戦となり、陸上の、それも攻城戦のような激闘が各所で展開している、とのことだった。

 アグリッパとアントニウスはせめぎ合いながらさらに戦列を広げ、これに両軍中央戦列が参戦する。オクタヴィアヌスの右翼は乱戦状態だ。

 ティベリウスはもう声を出していなかった。額から顎へ、幾筋もの汗が伝い落ちる。ほかの者も同様で、一様に拳を握りしめ、固唾を呑んで海上に目を凝らしている。だがなおも戦局はわからなかった。

 太陽が西の空に傾いた。

 アンブラキア湾から吹きつけた風が、ふいにおさまった。変わって、岬をなぞるような北風が流れてきた。

 それは突然だった。戦場の中央に、地中海世界で最も希少な色がはためいた。紅紫の空。だれの目にも一瞬でわかった。戦場で最も大きく、最も絢爛な船の帆が、いっぱいに張られたのだ。エジプト女王の御座船、旗艦アントニアが動いた。帆に風をたっぷりはらみ、銀の櫂を全速力で漕ぎ、戦列の中央に進み出る。

 そこには隙間ができていた。アントニウスとアグリッパが戦列を北へ展開していたために。十段櫂船の巨体が、六十隻のお供を従えて入り込む。

 ティベリウスはぎょっとした。女王自ら戦列を破って背後にまわり込み、オクタヴィアヌスかアグリッパを挟み撃ちにするのではないかと思ったからだ。そして恐れていたとおり、女王率いるエジプト艦隊はオクタヴィアヌスの右翼のほうへ移動した。継父が十段櫂船につぶされてしまう。

 だがティベリウスは、海戦で帆を広げることの意味を理解していなかった。

 女王の艦隊は、オクタヴィアヌスになにもしなかった。それどころか彼と自軍左翼との戦いの脇をすり抜けるように、南へ動いた。

 そしてそのまま、地平線の彼方へひたすらに向かっていったのである。

 全員があっけにとられた。岬に立つ一兵残らず、あんぐり口を開けたまま紅紫の帆を見送った。おそらくは戦闘のさなかの両軍も同様だったに違いない。

 十段櫂船の全力は速かった。見る間に、旗艦アントニアは地平線に消え入った。

 吹きつける北風だけが、アクティウムで音を立てた。

「……逃げた」

「逃げたのか…?」

「女王が逃げたぞ!」

 驚きのあとに湧き上がってきたのは、喜びと言うより怒りだった。軍団兵たちは口々に海上へわめき散らした。だが教えられなくても、海上で戦うだれもが気づいただろう。いかに激戦の只中にあろうと、あの帆が目に入らないはずがない。だが岬の陸軍は、全世界に知らせるように叫びまくった。エジプト艦隊が逃げた、女王クレオパトラが敵前逃亡したぞ、と。

 ティベリウスはまだ立ち直っていなかった。目と口を丸く開けたまま首をまわすと、まったく同じ表情のマルケルスがいた。二人は長いあいだ、顔を見合わせて固まっていた。

「女王が、逃げた…」

 呆けたように、マルケルスがつぶやいた。ティベリウスはこくりとうなずき、それからふいに全身がわななくのを止められなくなった。

 女王が――ローマに戦争を仕掛けた張本人が、逃げ出したのだ。利用しぬいたアントニウスとその部下を置き去りにして。裏切って。

 今眼前で血みどろで戦うローマ軍とローマ軍。彼らをこのような運命に引きずり込んだのはあの女王ではないか。

 どこまで侮辱を働けば気が済むのか。

 その眼前の戦況が変わりつつあった。

 戦列の中央は元通り塞がれた。中央率いるアルンティウスと連携しながら、アグリッパは北から敵艦隊を取り囲んでいく。オクタヴィアヌスの右翼では一進一退の攻防が続いていたが、そこで目に見える変化が起こった。火の手が上がったのだ。炎と煙が南から全戦列に拡大していく。

「あれは我が軍が放ったものだ」

 陸上の動揺を防ぐために、メッサラが知らせた。

「これが最終局面だ」

 事実上の最高司令官とも言われた女王が逃亡しても、敵は敢闘した。迫り来るアグリッパの包囲網に頑強に抵抗した。それでもしだいに押され、煙に包まれながら岬に近づいてくる。北西に向きを変えた風が、それをあおった。

 炎に包まれ、敵船がまた一隻、イオニア海に崩れ落ちていく。煙は岬にまで達したが、オクタヴィアヌス艦隊には迫らない。

 アグリッパとアルンティウスにより、北と西は完全に封鎖された。残るオクタヴィアヌスの右翼では、敵が執拗な攻撃を続けていたが、北の戦線に迫られ、やがて後退を余儀なくされる。

 すでに逃亡する敵船が出ていた。数隻がエジプト船同様に南へ抜け出す。残りはほかにどうしようもなくアンブラキア湾内に逃げ込もうとしたが、我先にと何隻も狭い湾口に詰めかけたため味方同士で衝突し、あるいは岬の岩場に打ちつけられる。

 ティベリウスとマルケルスは言葉もなく眼下の惨事を眺めていた。血まみれの甲板の残骸。それにしがみついて敵兵は命を保とうとするが、次から次へと高波に呑まれていく。オクタヴィアヌス艦隊は弧を描いて、湾口を取り囲んだ。

 夕刻を迎える直前だった。強烈な西日を浴びて、何十本もの櫂が一斉に掲げられた。それは見る間に一隻から敵艦隊すべてへ広がっていく。櫂はそのまま静止した。もはやどの船もイオニア海を漕ぐ気はないことを示した。

 降伏の合図だった。

 アクティウムに一瞬の静寂が訪れた。

「…勝った」

 マルケルスがつぶやいた。

「叔父上が、勝った…」

 とたんに歓声が爆発した。軍団兵たちの叫びに、岬が揺れた。彼らは拳を突き上げて最高司令官を呼んだ。

「インペラトール・カエサル・オクタヴィアヌス万歳! 万歳!」

 海上の艦隊からも喜び勇んだ声が届いた。

「戦は終わった! 我らが大勝利! インペラトール・カエサル・オクタヴィアヌス万歳!」

 陸海の歓喜が、アクティウムの空へ突き抜けた。

 茫然とたたずむティベリウスに、マルケルスが抱きついた。

「勝った、勝った、叔父上が勝った!」

 繰り返し叫びながら飛び跳ねるマルケルス。ユバが、子ども二人を思いきりかき抱いた。

「終わったよ、ついに終わったよ!」

「カエサルは?」

 ティベリウスは調子はずれの声を上げていた。

「カエサルは無事なの?」

 そのとき、艦隊からラッパの音色が聞こえた。異なる旋律で四度、青空へ抜けていく。

 メッサラが、この日初めて、にんまりと深い笑みを浮かべた。

「最高司令官カエサル以下、アグリッパ、アルンティウス、ルリウス将軍、全員ご無事との報告だ」

 再び、割れんばかりの歓声が轟いた。

 ティベリウスは全身から力が抜けた。ユバとマルケルスが支えていてくれなければ、崩れ落ちていたかもしれない。涙にぬれたマルケルスの笑顔を見た時、ようやく体の芯から熱い感情が込み上げてきた。

 勝った。勝ったんだ。

 ティベリウスもマルケルスをきつく抱きしめた。感激に身を任せ、大声を上げて飛び跳ねた。

 カエサルが勝った。アグリッパが勝った。長い戦争が終わった。もうすぐ無事で帰ってくる!

 こぼれた一筋の涙は、マルケルスやユバや大勢の軍団兵のそれに混じって土に消えた。

 こうして、史上アクティウムの海戦と呼ばれた戦闘は、オクタヴィアヌスの勝利で終わった。

 だが、一人だけ歓喜の渦に巻き込まれない男がいた。

「第六軍団、第七軍団、堡塁前に整列せよ!」

 スタティリウス・タウルスが声を張り上げた。戦闘が終結して初めて、彼は司令官椅子から腰を上げた。

「これより湾岸に向かう! 残りの者も、敵陸軍に警戒を怠るな!」

 ティベリウスははっと息を呑んだ。軍団兵たちも夢から醒めたようにはたと固まった。それから一様にゆるんだ顔を引き締め、きびきびと次の行動に移る。

 そうだ。まだ戦争は終わっていないのだ。対岸の敵堡塁にはまだ数多くの陸軍が待機している。

 マルケルスは困惑顔になってティベリウスを見つめていた。ユバは自分も騎兵隊を従えてアンブラキア湾をまわらねばならないかと、きょろきょろしていた。ティベリウスが目をやると、対岸の敵堡塁は死んだように静まり返っていた。

「心配はいらない」

 メッサラが子どもたちにささやいた。

「敵も海上の勝敗を見た。女王にも逃亡され、戦意を喪失しているはずだ。剣を交えることなく降伏してくるだろう」

 子ども二人もユバも、同時に安堵の息を漏らしたのだった。しかし吐き出す途中で、ティベリウスはふと静止した。

 敵将アントニウスはどうなったのだろう。





 その日の夕方、子ども二人はメッサラに連れられてコマルスの港へ下った。長く日差しの下で声援を送り続けた二人のために、メッサラは輿を用意させた。その中で、マルケルスはうきうきと待ちきれない様子で体をゆらしていた。

「早く叔父上に会いたい」

 向かい側に腰かけたティベリウスは、うなずきを返した。

 輿の外も、興奮醒めるやらぬ軍団兵たちの声であふれていた。タウルスがいかに気を引き締めようと、勝利の艦隊を出迎える一行は、戦勝に心躍らせて当然だった。

「これでローマは救われた」

 マルケルスはまた感極まり、涙目になっていた。

「悪い女王は追い払われて、ローマの人々は安心して暮らせるんだ。全部叔父上のおかげだ。母上や妹たちも、もう怖い思いをしなくて済む」

 疲れ果てて、それでもこのうえなく幸せそうなマルケルス。彼の長い不安も恐怖もすべてぬぐい去られたのだ。ティベリウスはただ微笑んで見守っていた。

 だが目頭をぬぐったとき、マルケルスの顔に翳が差した。

「アントニウスは、死んだのかな……」

 コマルスに着くと、勝利の艦隊はまだ戻ってきていなかった。連絡船によると、高波が続いているので、最高司令官以下全員が今夜は船上で過ごすとのことだった。敵味方問わず、海に投げ出された人命の救助も行っているという。

 信じがたい知らせは、この次に伝えられた。

 ――最高司令官マルクス・アントニウス、エジプト女王を追って逃亡。

 だれもが、逃げた女王を目撃した時以上に愕然となった。ティベリウスがぽかんとした顔をまわすと、メッサラ・コルヴィヌスも顎がはずれるほどあんぐり口を開けて固まっていた。

 伝えるところ、エジプト女王の逃げ去る姿を見るや、アントニウスはたちまち戦線を放棄したという。最高司令官である我が身を忘れ、死にゆく部下も、武人としての誇りも捨て、ただひたすらまっしぐら恋する女人の尻を追いかけた。船を乗り換え、死闘の只中を縫って走り、クレオパトラがいなくては死んでしまうとでもいうような必死の体だったという。敵軍は、よもや最高司令官に捨てられたとは思いもせずに戦いを続行していた。

 耳を疑う、無責任な所業だった。

 はじめに怒りを爆発させたのは、かつての継子だった。

「それでも将軍ですか!」

 彼の激情に、港に詰めかけた大勢が賛同の怒声を上げた。

「みんなっ…みんな彼のために戦ったのにっ! 最後まで命がけでがんばったのにっ! あんな、あんな女王なんかのためにっ…!」

 喜びの涙は、激怒のそれに代わった。

「ぼくはアントニウスを見損ないました!」

 コマルスに非難の嵐が吹き荒れた。当人ははるか南に消えた後ではあったが。ティベリウスがぼんやり見上げると、メッサラはひっくり返るほどのけぞって天を仰いでいたが、やがて背中を丸めて頭を抱え込んだ。

「まさか…ここまで堕ちていたとは……」

 本心からの、絶望の吐息に聞こえた。

 アクティウムの長い一日は、喜びと失望が交錯するなかで暮れた。





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