第三章 ‐7
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季節は夏の盛りを迎えていた。あれ以後、敵は目立った動きを見せなかった。オクタヴィアヌスは一個大隊を失ったが、戦争全体の規模から見れば、小競り合い程度の事件とされた。ティベリウスとマルケルスはおよそひと月、コマルスの小さな家で母と過ごした。
母の顔を見た翌日から、ティベリウスは通常の生活を再開した。午前は読書と書き物に没頭し、午後は港のまわりを走った。ただ黙々と、独りで。
見舞いに訪れたピソはあっけにとられた。カルヴィヌスは苦笑を漏らした。アグリッパは船の甲板から、動きまわるティベリウスを目で追った。ドゥーコは同じ姿を背後に、ずっと港で釣り糸を垂らしていた。オクタヴィアヌスも窓からその姿を見とめた。マルケルスをローマへ帰すか否か、姉と話し合っているところだった。
「ティベリウスは大丈夫そうですね。すっかり立ち直ったようだ」
メッサラ・コルヴィヌスが見舞いに訪れた時も、ティベリウスはなに事もなかったような顔で書き物をしていた。
「ギリシア語の勉強か」
メッサラは注意深げにティベリウスを見つめた。
「君ほどまだ使いこなせていないが、私の息子もこのあいだギリシア語で手紙を書いてきた。なんとか解読してみたところ、『父上、戦争で大活躍して、早く帰ってきてください。そして、マルケッラとぼくを婚約させてください』だって。まったくだれに似たのか――」
「敵陣の様子はどうなのですか?」
ティベリウスは目線を上げて尋ねた。メッサラは一瞬言葉に詰まったが、柔らかな調子のまま続けた。
「海戦で勝負することに決めたようだ。もっとも、それを押し通したのは女王クレオパトラだけで、残るアントニウスの友人全員が最後まで陸戦を主張したらしいが。体じゅうの傷を見せて、涙ながらに詰め寄った老兵もいたというのだから気の毒だ。我々歴戦の戦士より異国の船乗りを信用するのか、とね。当のアントニウスは気楽に手を振るばかりで、聞く耳を持たなかったらしい。もはや彼は、兵を奮起させるあの並外れた人望すら失ってしまったようだ」
ティベリウスはなにも反応せず、ただじっと見つめて聞き入るだけだった。メッサラはかすかに戸惑うような表情を浮かべた。
「…アントニウスが陸戦をやる利点はあった。彼はローマ将軍のだれより陸の経験が豊富だ。軍団兵も騎兵も、存分に力を発揮できる。漕ぎ手を養う必要もなくなる。実際、彼の友人たちはそれを声高に唱えたんだ。それなのに、あの強欲な女王が、黄金満載の自国艦隊を自ら指揮したい一心で、彼らの主張をひねりつぶした。まったく、戦争を酒宴の余興とでも思っているみたいだな」
たとえそうであっても、自分には女王の甘さを非難する資格はないと考えていたティベリウスは、相変わらず黙したまま聞いていた。
「…我々としても、海戦は望むところだ。なぜだと思う?」
「敵の戦略が限定されるからです」
問われたので、ティベリウスは答えた。メッサラはその感情のない言葉の続きを待っていたようだが、それで終わりだった。
「…そうだ。敵は湾口から外へ打って出るか、このまま疫病で消耗し果てるかしかない」
メッサラは何度も首を縦に振った。
「カエサルの作戦どおり、敵の疫病は今最盛を迎えている。それが収束するまでは、どこでやるにしろ戦争どころではないだろうな」
メッサラはあまり詳しく語りたくない気配だったが、ティベリウスの沈黙にうながされるように教えてくれた。疫病で倒れた者は数千人。放置された死体には鼠が群がり、衛生状態は最悪。これに物資欠乏が加わって、死者はさらに増える見通しだという。
それなのに女王は相も変わらず王然とした豪勢な生活を続けている。メッサラは最後にそう付け足した。ティベリウスはメッサラの手を取り、わざわざ足を運んでくれたことに礼を述べた。自分はもう大丈夫だから、どうかこれ以上お気遣いなく、と。しかしメッサラの顔は悲しげだった。
「ティベリウス、以前、君が養子縁組のことで私と話したのを覚えているかい?」
「はい」
「あのとき君は、二ヶ月も悩み苦しんでいたね。実家に帰らず、ずっとカエサル家にこもって。それで私は見かねて相談にのった」
「はい。その節は…」
「君は私にこう気持ちをぶちまけた。『父上はぼくがいらなかったのですか?』涙目になって、必死に」
「…そうでしたか」
「今、君が考えていることはわかる。ここで気落ちしている姿を見せては、敗北になる。このくらいで心が折れたと思われたくない」
「……」
「中途でローマに送り返されたくない」
「…ぼくは執政官殿やカエサルに迷惑をかけました。ぼくにここに残りたいと主張する資格はありません」
「何度でも言うが、先だっての事件で君が責任を感じる必要はない。だが、私が今言いたいのはそのことじゃない。つまり、君はもっと感情を吐き出してよいのだ」
「ぼくは父の葬式でも泣きませんでした。それが奴隷一人失ったぐらいで涙に暮れろと?」
「ティベリウス」握る手に、メッサラは力を込めた。「君は強いし、強くなった。亡きお父上の存在か、それともほかのことのためか。だが本当に理解してほしい人には、ちゃんと思いのたけを伝えなければ。でなければ、いつか苦しみが積み重なってつぶれてしまう」
プロレウスにトオンの遺灰と託したということは、メッサラの指摘どおり、ティベリウスにはこのままローマに帰るつもりはなかった。決戦が行われるまで従軍を続けるつもりでいた。
数日後、マルケルスもティベリウスの無言の主張に加わった。しかしどこかためらいがちな様子だった。それはマルケルスが恐るべき体験から立ち直っていないからというより、ティベリウスが独りにしておいてくれと言わんばかりの雰囲気を強烈に醸し出していたからだろう。
ティベリウスもマルケルスに強制するつもりはなかった。だが結局、二人ともこのまま従軍し続けることが決まった。八月半ば、母たちは本国へ帰り、ティベリウスとマルケルスは堡塁に戻った。
「これまでにも増して、可愛げのない顔つきになりよったな」
夕暮れ時、ドゥーコが声をかけてきた。ティベリウスは堡塁の片隅をぼんやり歩いているところだった。
「お供の奴隷が死んだら、独りで歩いてもいいのか?」
ドゥーコはぶっきらぼうに訊いた。ティベリウスはうつろな顔のまま、ただ見た。ドゥーコはため息をつき、ティベリウスの腕をつかんで、自分のテントの前まで連れていった。
この四ヶ月間、何度も訪れた場所だった。ティベリウスがドゥーコの話に夢中になっているあいだ、トオンはいつも影のように付き添ってくれていた。
あれからひと月が過ぎた。母リヴィアは息子のために新しい奴隷を置いていってくれたが、そのことがいっそう、トオンの不在を実感させることになった。新しい奴隷は無能なわけではないが、気が利かなかった。衣服の用意とか、食事の盛りつけとか、日常のほんの些細な違和感に出くわすたび、今までどれほどトオンに甘えていたか思い知らされる。だが当たり前に後ろにいた影はもういない。
慣れなければと思った。新しい奴隷の気が利かないなら、気が利くようにしつけなければならない。トオンに世話を焼かれることは、もうないのだから。
「なにがあった?」
御座に座らせ、ドゥーコが問いただした。ティベリウスはしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。
「カエサルが具合が悪くて寝込んでいるので、お見舞いに行った」
「フン」
「マルケルスが先に来ていた。彼は、ぼくが最近ずっと怖い顔をしている、どうしたらいいか、心配だ、と話していた」
「それで、カエサルは?」
「ティベリウスはもともとあんな感じだろうとおっしゃっていた」
ため息を吐きつつ、ドゥーコは向かいの丸太にどかっと腰を下ろした。ティベリウスはぽつぽつと続けた。
「ぼくはマルケルスに心配をかけている。それどころか怖がられているみたいだ」
「フン」
「ぼくは、普通にしているつもりなのに」
「フン、フン」
「ぼくは、マルケルスがそばにいてほしいと言うからそうしたのに…」
最後のほうは、つい恨めしい感じの声色になってしまった。ドゥーコは膝の上に頬杖をついて聞いていた。しかめ面で口を開いた。
「お前さんが普通にしているつもりでも、わかるやつにはわかる。いっそ普通にするのなんぞやめたらいい」
「ぼくはどうしていいのかわからない」
淡々と述べるティベリウスに、ドゥーコはやれやれと首を振った。
「あの子だけじゃないぞ。お前さんと仲良しのあの若僧、お前さんたちの前では陽気にしとるが、仲間内ではお前さんたちの仇を討ってやると、四六時中かっかかっか息巻いとる」
「ピソのこと?」
ティベリウスは目線を上げた。
「独りでエジプト軍を壊滅させる気だ。あれでは次の戦闘で命を落とすぞ」
「そんなの嫌だ!」だしぬけに、ティベリウスはわめいた。「ピソが死ぬなんて嫌だ!」
ドゥーコは無言で、久しぶりに感情を噴出させたティベリウスを眺めていた。両手で頭を覆い、ティベリウスは長いあいだ震えていた。
「ぼくは…ぼくは、どうすればいい?」
「無力だ、子どもは」ドゥーコの言葉は非情だった。「ましてや戦場においては。だからお前さんたちはこんなところに来るべきじゃなかったが、それはお前さんの責任でもなかろう。子どもは子どもらしく、泣くしかない。祈るしかない。それが戦争だ」
ぎゅっと目を閉じ、髪を鷲づかみにし、ティベリウスはうめき続けた。こんなに戦争を憎んだことはなかった。
自分にはなにもできなかった。どれだけ勉強しても、訓練しても、優れた人から話を聞いても、相変わらず無力なまま。過ちを回避することすらできなかった。本当に、なんのためにここへ来たのだろう――。
「ところで、お前さんにはおらんのか?」沈着に、だが力を込めるように、ドゥーコは訊いてきた。「お前さんが泣こうが、黙ろうが、わめこうが、気にもとめないだれかが。自分の調子を狂わさず、それでいてお前さんのことをちゃんと見ておるだれかが」
ティベリウスは目をしばたたいた。地面を見たまま、頭をよぎるいくつもの顔を眺めていたが、真っ先に浮かんで脇にのけておいたやつだけが、いつまでも居座り続けた。
『うん、試しに今の君の顔を銅像にして、テントじゅうに並べてみたらいいと思うよ。そしたら君もマルケルスの気持ちがわかって、これからは毎日にこにこ朗らかに過ごそうって気になるかもしれない。そしたらカエサルも泡を吹いて、君をローマへ送り返すんじゃないかな?』
ほんの少しだけ、体が軽くなった気がした。皮膚の下からすうっと力が抜けていく感じがした。そのあとに押し寄せてきたのは、なんとも言えない腹立たしさだった。
目線を上げると、ドゥーコがにやにや笑っていた。あのいまいましい顔にそっくりだ。
「いくらか元気になったようだな。可愛げのあるむくれ面だ」
アンブラキア湾に火の手が上がった。朝日が登ってまもなくのことだった。岬に出たオクタヴィアヌス以下将軍たちは、至極冷静にもくもくと立ち上る煙を眺めていた。なにが起こっているのかすでに情報が届いていたし、実際に見ることもできた。アントニウスが艦隊の一部を焼き払っているのだ。
疫病で漕ぎ手を失ったアントニウスは、手持ちの艦隊すべてを動かすことは不可能になっていた。つまりはいよいよ、戦闘可能な残る全艦隊を率いて打って出る意志を固めたのである。
決戦は間近に迫った。
翌八月二十八日、風が吹きすさぶ昼、堡塁内の広場に召集可能なすべての兵が集まった。決戦を前に、最高司令官オクタヴィアヌスが激励の演説をした。それが終わると同時、将軍たちは直属の軍団に指令を発し、乗船準備を始めた。風は勢いを増してきたが、これが治まる時が決戦の始まりであると、だれもが知っていた。
夜、アントニウス側からの脱走者がまた一人、オクタヴィアヌスの堡塁を訪れた。前執政官ドミティウス・アヘノバルブス。アントニウスの最も親しい友人であり、パルティア遠征では副将を務めた人物だった。決戦直前の今になって、その彼までがアントニウスを見捨てた。
だが、すでにアヘノバルブスは瀕死の床にあった。彼もまた疫病に侵され、担架で堡塁内に運び込まれたのである。
「近づかないように。疫病がうつるといけない」
騒々しい気配に、ティベリウスとマルケルスがテントの外へ出てくると、カルヴィヌスが沈着に制した。
「残念だが、彼はもう長くないだろう」
フィリッピの戦いの前にカルヴィヌスを海上で敗北せしめたのが、このアヘノバルブスだった。そのとき同行していたドゥーコは、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「良い気味ですよ。ユリウス・カエサル暗殺に手を貸して生きながらえておったのは、あの男だけでしょう」
アヘノバルブスは医療テントに担ぎ込まれ、これまでの脱走者と同様、メッサラが事情を聴いたという。
ところが深夜になって、奇妙な出来事が起こった。堡塁に、アヘノバルブスの荷物と奴隷、それに友人たちまでが、そっくりそのまま届けられたのである。アントニウスが計らったとのことだった。
これを知ったアヘノバルブスは、天井を見上げたまま、黙して涙に暮れていたという。そして翌日、息を引き取った。
八月二十九日、吹きつける風はさらに強まり、雨交じりになった。だがオクタヴィアヌスはついに乗船命令を下した。四百の軍船に乗り、戦場の海へ向かうは三万七千の兵。指揮を執るは最高司令官オクタヴィアヌス以下、アグリッパ、アルンティウス、ルリウスら若き将軍たち。残る軍勢は堡塁に留まり、海上の運命を見守りながら、次の動きに備える。陸軍の指揮官はスタティリウス・タウルス。執政官メッサラも地上に残り、各方面の情報収集に努める。
ティベリウスとマルケルスも、堡塁で決戦の結果を待つことになった。
出陣のときが来た。
「坊ちゃんがた」アグリッパはにっこりと子ども二人を見まわした。「お二人がいてくださったおかげで、我らが最高司令官も大きく体調を崩すこともなく、今日の日を迎えることができました。これはどんな前兆よりすばらしいことですぞ」
「体調を崩すことなく…?」
ティベリウスとマルケルスは控えめに目線を交わし合った。
「いえいえ」アグリッパは大げさに手を振ってみせた。「これでも、いつもに比べれば全然。そうですな、カエサル?」
「まいったな」
オクタヴィアヌスは気恥ずかしげな笑みを浮かべて見せた。だが確かに、どんより荒れ模様の空の下でも、オクタヴィアヌスの顔色が良いことがわかる。調子はめずらしく最高のようだ。幸運なことに。
これが、決戦が終わるまで続いてくれると良いのだが――。
「叔父上!」
マルケルスはオクタヴィアヌスの首にしがみついた。
「どうか…どうか、必ず、ご無事でお戻りください! ぼくのために、母オクタヴィアと妹たちのために、ローマの人々の幸せのために!」
「わかっているよ」オクタヴィアヌスも甥を抱きしめる。「お前には辛い思いをさせるな」
「いいえ」マルケルスはきっぱりと言った。「アントニウスを倒してください。女王からローマを救い、彼の目を覚まさせてやってください。たとえ、それが悲しい結果になろうと…正義を果たしてください!」
「約束する」オクタヴィアヌスはうなずき、甥と接吻を交わした。「必ず勝利して戻ってくる。私にはまだ、やらねばならないことがたくさんあるのだ」
「坊ちゃん」アグリッパはティベリウスを腕の中に収めていた。「今こそ、このアグリッパ、人生最大の勝負に打って出ます。どうか心配せず、最後まで見ていてください」
「信じています」
彼の目をまっすぐに見つめ、ティベリウスはうなずいた。アグリッパは微笑んだ。
それが、ほんの少しだけおびえているように見えたのは気のせいだったのだろうか。神君カエサルに見いだされ、今やローマでだれもが認める第一位の将軍となったアグリッパ。その彼がこれから挑むは、同じ人物に認められた先達であり、当代最強と謳われた将軍である。三万七千と国家の運命を背負って。
だがそれも一瞬のことだった。双眸には鋭く、ゆらがぬ光が宿る。
「この私のすべてをカエサルに。大恩ある先代に恥じぬために。そして遠くない将来、婿殿と共に戦場に立つ日のために」
二人も接吻を交わした。
「ティベリウス」オクタヴィアヌスの手が両肩に置かれた。「マルケルスを頼んだぞ」
「はい」ティベリウスはうなずいた。「カエサル」
「うん?」
「カエサルは約束を守ってくださると、ぼくは信じています」
「…ああ、そのとおりだ」
まばたきのあとで、オクタヴィアヌスは穏和な微笑を浮かべた。
「勝利して、必ず無事で戻る。リヴィアとドルーススの待つ家へ、一緒に帰ろう」
彼はティベリウスの頬を軽く叩いた。
子ども二人は、メッサラやユバとともに、将軍二人を見送った。若きカエサルとその右腕は、肩を並べて雨の中に霞んでいった。
マルケルスは必死で涙をこらえていた。ティベリウスはいかめしい表情のまま、石のように動かなかった。
軍団兵の列があとに続いた。
マルケルスがユバのマントに顔をうずめると、ティベリウスは泥を跳ね飛ばして駆け出した。
「ピソ!」
ティベリウスが呼ぶと、ピソは一瞬ぴたりと固まり、それからくるりと陽気な笑顔を見せた。
「どうした? 挨拶ならさっき済ませじゃないか。なんだってそんな永遠の別れみたいな顔してるんだ?」
「ピソ、死ぬな!」
人目をかまわずわめいた。
「死んじゃだめだ!」
「おいおい」
ピソは苦笑し、列から離れてきた。指先で、ティベリウスの額をつつく。
「だれがいつ死ぬなんて言った? ぼくは仲間のだれより長生きすると決めてるんだ」
「無茶するな! 絶対に、無謀な行動をとるな!」
ぎゅっと握った六歳年上の右手は、両手で包みきれないほど大きかった。
「そんな顔するな。君らしくもない」
ピソの目尻が痛ましげに下がった。
「笑って見送ってくれよ。それが無理なら、いつもの超然とした顔でいてくれよ。今日はこのぼくの記念すべき初陣なんだぞ」
ピソは力強く左拳を振った。しかし穏和な顔の仮面が崩れかけるように、皮膚が引きつっていた。
「君とマルケルスをひどい目に遭わせた連中を、ぼくは片っ端から斬って斬って斬りまくってやる。だから君は、早く元通り元気になって――」
「そんなこと望んでない!」
ティベリウスは大声で教えた。
「ぼくはピソが無事に帰ってきてくれればそれでいい!」
「こらこら」
ピソはティベリウスの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。
「命を惜しんでいて、国家が守れるか? ローマの戦士たる資格があるか? ぼくは最後まで勇敢に戦ってやる。カルプルニウス・ピソ家の嫡男として、国家に、祖先に、友に、なにより自分に、恥じないように」
指が解かれた。打ちひしがれるティベリウスの肩を、ピソは軽く押し、後方に退いた。
「貴族の君にならよくわかるはずだ。さぁ、もう戻れよ。えらい嵐だ。風邪を引くぞ」
「ピソは待ってくれないのか!」
拳を握り、足を踏み鳴らし、ティベリウスは叫んだ。
「ぼくがピソのところへ行くまで、待っていてくれないのか!」
ピソの双眸が見開かれた。雨に打たれる青白い顔から、毒気を抜かれたように凝りが消えていく。
次に見せたのは、あの見慣れた泰然自若の笑みだった。
「そうだな。君と一緒に戦場へ出てみたいな。戦略は? 地味でしんどい中央はファビウスに任せるとして、左翼のレントゥルスが居眠りして全軍包囲され、ぼくと君とで、葡萄酒片手に反省会だな」
雨の中、ティベリウスは肩を落としてたたずんでいた。背後から、濡れた土をしかと踏みしめる足音が近づいてくる。
「いよいよじゃな、坊主」
とっくに聞き慣れた声だった。ゆっくり、うつろな顔で振り返ると、兜の下で溌剌とした笑みを浮かべた老兵の姿があった。初めて見る表情だ。
「達者でな」
ドゥーコはティベリウスの頭を二度軽く叩いた。そのまま通り過ぎようとした。
ティベリウスは頭から猛然と飛びついた。ファレラエに額を押しつけ、鎖かたびらに指を食い込ませ、じっと動かなくなった。
このまま、時が進まないように願った。
「なんだ、おい」
上からドゥーコの声が聞こえた。
「優れた将軍になる男が、兵一人戦場に送り出すこともできんのか?」
言葉とは裏腹の、優しい声だった。ティベリウスは喉の奥でうめいた。地面をにらんだまま、小刻みに首を振り続けた。
「アントニウス殿は賢明な判断をされた」
陰気な空の下でも、ドゥーコの口調は晴れ晴れとしていた。
「儂らベテラン兵の力を恐れたから、陸より海で戦うことを選んだ。さすがだ。しかし儂らの力が海では発揮されんと考えているとしたら、それは大間違いだ。世界を股にかけたカエサルのベテラン兵は、いかなる環境でも史上最強。かなう者などおらん」
頑として動かないティベリウス。その頭に、ドゥーコはがっしりと手を乗せた。大きくてしわくちゃで、数多くの血に染まり、数多くを守ってきた手。
「ガイウス・ユリウス・ドゥーコ、最後の戦いだ」
ティベリウスは顔を上げた。だが誇りに輝くドゥーコの顔に、かけられる言葉はなにもなかった。
生命の喜びに満ちる瞬間の顔は、なによりも熱く、人の胸に焼きつく。
「儂の名は歴史に残らん。だが儂にはわかる。人の世が続くかぎり、世界じゅうすべての男が儂をうらやむ。なぜなら儂はユリウス・カエサルのベテラン兵。世界一の将軍の百人隊長だった男」
ティベリウスの腕から強張りが消えていった。赤い目は絶望と悲しみに打たれていたが、ゆらがなかった。
ドゥーコがひざまずくと、腕はだらんと垂れ下がった。子どもの頭に手を乗せたまま、老兵は目線を合わせた。
「ドミティウスの旦那に伝えてくれ」
まっすぐに見つめ、ドゥーコは笑った。
「感謝する。儂は死に場所を授かったつもりでいたが、あなたがくれたのは未練だった。ずっと、ずっと、見ていたいと思った」
雨と風が、ドゥーコの背中をかき消した。
皆行ってしまった。
風は嵐に変わり、海は渦巻くほど荒れていた。昼でも夜のように暗く、風雨が轟音となって堡塁じゅうのテントを打ちつけた。ギリシア商人は、この時期にしてはめずらしい天候だと話しながら、まもなく戦争が決着することを喜んでいた。この嵐が去り次第だ。
ティベリウスとマルケルスは、自分たちのテントの片隅で、じっと身を寄せ合っていた。ユバがそばについていたが、四六時中そわそわと落ち着かない様子だった。
雷が鳴り響く夜を、二人はそのまま目を閉じて過ごした。夜が明けても、嵐は収まらなかった。
「この戦争が終わったら」マルケルスがそっと口を開いた。「叔父上はもう戦いに行かなくなるかな?」
「きっと」ティベリウスは答えた。オクタヴィアヌスが戦争に負けた場合のことは口にしなかった。
「叔父上は、平和なローマを造るとおっしゃってた」マルケルスは誇らしげに教えた。「ローマが造る平和な世界。叔父上はそのために戦うんだって。それが先代カエサルの遺志だから」
それが、オクタヴィアヌスが跡継ぎに語った自分の志なのだろう。
幼い甥を戦地に連れ出してまで見せたかった、カエサルの名に継がれる責務だ。
「戦争を始めたのは神君カエサルだった」ティベリウスはぼそりと言った。「たとえ平和のための戦争でも、たくさんの人が犠牲になった。色々なものが壊れた。長いあいだローマは内乱で殺し合い、世界じゅうを振りまわした」
「でもこれからは、ローマ人同士は戦わない」マルケルスは強い口調で言った。「叔父上ははっきりおっしゃった。まずローマを平和に。そのために女王を倒すんだって」
女王を倒す。女王は外敵だ。外敵がいてもローマは平和でいられなくはない。ローマを平和にするために、絶対に倒さなければいけないのは内敵ではないか。
マルクス・アントニウスがいるかぎり、オクタヴィアヌスは志を遂げられない。
ティベリウスは目を閉じた。
マルケルスがぎゅっと手を握ってきた。
「もし平和のためにまた戦争が必要になったとしても、今度はぼくたちも一緒だよね? 戦いに行くよね?」マルケルスは自分でこくりとうなずいた。「待つのも、もう最後だよね?」
ティベリウスは小さくうなずき返した。
「がんばらなくちゃ」マルケルスは大きくもう一度うなずいた。「強くなろうね、ティベリウス。ぼくもがんばるからね」
マルケルスはひたむきに心を奮い立たせていた。そうしなければ心細さに負けてしまいそうだったのだろう。ティベリウスがこめかみに口づけすると、少し安心したように力を抜いた。
その夜、眠りについたマルケルスをユバに任せ、ティベリウスはそっとテントを後にした。頬を打つ痛いほどの雨を突っ切って、目指すテントに向かった。暗闇の中に、やわらかな明かりが浮かんでいた。天幕を持ち上げてその中に入ると、ティベリウスは独り杯を傾けていた男に言った。
「父の話を聞かせてください」
「ようやく来たね」
カルヴィヌスは微笑を浮かべた。




