第一章 ‐2
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入浴を済ませると、ティベリウスはマルケルスたちと別れて競技場の外に出た。目の前には、緑鮮やかなマルスの野が広がる。
首都ローマ北西部に位置するこのマルスの野は、もとはローマ軍の訓練場であり、軍団の集結地だった。しかしローマの支配する領土が拡大するにつれ、その限りではなくなる。そしてその伝統を完全に破壊したのは、先代の神君カエサルだった。
ほんの十数年前まで、このマルスの野と首都ローマとは、市壁によって厳然と隔てられていた。ところが神君カエサルは、長年にわたって首都を囲んでいたそれを、ほとんどすべて破壊してしまった。まるでローマは市壁などなくとも平和でなければならないと、示すかのように。
それでいて神君カエサルは、ローマ本国はもちろん、属州各地までローマ式街道の整備に熱心に取り組んだ人だった。
神君カエサルの大胆不敵はほとんど信じがたい。征服地に街道を敷くことは、およそ三百年前から続くローマの伝統である。しかし現在は数が桁違いに多い異民族を相手にしている。神君カエサルが制覇したガリア、未だ蛮族が息をひそめるヒスパニア、そして未開の地ゲルマニア。
もしどこかで反乱でも起ころうものなら、首都ローマはあっというまに攻め込まれてもおかしくはない。ここから十二本もの立派な道路がまっすぐに伸びている。つまりそれらに乗れば、あとは一直線に進むのみなのだ。
しかしこの覚悟の先にあるものこそが、神君カエサルが実現せんとした新しいローマだった。その規模と耐久において史上後にも先にも勝るものはない国家。少年ティベリウスは、まだその真の姿を知らない。
こうしてかつての役目を終えたマルスの野には、現在までに公共建築物が次々造られていった。神君カエサルと大ポンペイウス。時代を動かした二大巨頭が、命無きあともここで競い合っている。
大ポンペイウスの劇場。ティベリウスの位置からも、緑の野にどっしりと構える壮大な石壁が見える。列柱廊にはずらりと商店が並び、人足の途絶えることがない。最近オクタヴィアヌスによる改修工事が行われた後ではなおさらだ。
対抗するは、神君カエサルの建造になるサエプタ・ユリア。こちらは市民集会の投票場であり、選挙のたびに人でごった返す。
このフラミニア競技場も、建造されたのは百九十年ほど前だが、最近、将軍ドミティウス・カルヴィヌスが自身の凱旋記念として神殿を付属させた。今もその奉献物の数々が、人々の目を奪っている。
マルスの野は、市壁を失くした市民の憩いの場になりつつある。日々の平和を謳歌しながら、気楽に足を運ぶのだ。
競技場の階段を下り、ティベリウスは顔を上げる。眼前に広がる緑の野は、白光りする建造物群に埋められながら、ローマ七つの丘へと続いていく。神々の住まうカピトリーノの丘は、陽光を浴びてひときわまばゆく輝き、下の急峻な崖の黒光りと対照をなしている。
市民の暮らす六つの丘は、屋根の赤でぎっしり埋まり、ときおり思い出したように公園の緑が顔を出す。いく筋もの浴場の白煙がそれらを霞ませながら、抜けるような青空に昇っていく。丘の裾はなだらかな線を描いて、ティベリス川の青に吸い込まれていく。
いつまでも見ていたいと思う景色の中に、世界の中心に生きる人々の喧噪も、ティベリウスの帰る家もある。
ティベリウスはマルスの野へ駆けだす。従者の奴隷が一人あとを追う。これから父を訪ねる予定だった。
いや、正確には「父を訪ねる」ではなく「家に帰る」だった。ここ五日ほど、ずっとカエサル家にだけ出入りし、ネロ家には戻っていなかった。父ネロの顔は、もう一ヶ月近く見ていない。
ティベリウスはユリウス・カエサル家の子どもではなく、クラウディウス・ネロ家の長男である。母が離婚後カエサル・オクタヴィアヌスの妻になろうと、彼は同名の父ネロの嫡男であり、その家父長権の支配下にある。それでも、近ごろ自宅から足が遠のいていないといえば嘘になる。
父に会いたくないわけではなかった。むしろ会って話がしたかった。しかし一方で、気が重くもあった。それは話をしたい事柄のせいなのだが、なにより父は、最近体調が思わしくなかった。執事プロレウスによると、父は息子たちも含めだれも部屋に通すなと言いつけているとのことだった。
自分とドルーススがそばにいてはいけないのかと悲しい気持ちになりながら、ティベリウスはますますカエサル家で過ごすことが多くなっていた。オクタヴィアヌスも、歓迎するどころかもはやカエサル家にいるのがごく当たり前という態度で、継子二人に接してくれていた。認めるのは心苦しかったが、カエサル家にいるほうが楽しいのは確かだった。
今日は会ってくださるだろうか。お顔を拝見するだけでもかなえばいいのに――。
「坊ちゃん!」
背後から声がかかった。曇りがちだったティベリウスの表情が、ぱっと晴れやかになった。振り返ると、思った通りの人物が、顔をくしゃくしゃにして競技場の階段を下りてくるところだった。
「よかった。行き違いになったかと思った」
「アグリッパ!」
ティベリウスはすぐさま踵を返した。アグリッパは、彼が笑顔で駆け寄る数少ない大人の一人だ。
「今日は飛び込んできても大丈夫ですよ」
アグリッパは両腕を広げて知らせた。ティベリウスは足を止め、目をしばたたいた。
「今日は下水道ではなく、上水道の監督をしてきましたからね、坊ちゃんの可愛らしい鼻も曲がらないはずです」
ティベリウスは笑い声を上げて、彼の腰に腕をまわした。そんなの気にしないのに、と請け合いながら。
アグリッパはカエサル・オクタヴィアヌスの右腕である。生まれは賤しいが、先代カエサルに才能を認められ、その姉の孫オクタヴィアヌスと引き合わされた。それ以来、彼はオクタヴィアヌスの最も忠義な友であり、無二の理解者であり、欠くべからざる右腕となった。
彼なしに今のオクタヴィアヌスはない。なにしろ政治面では驚くべき才能を発揮するオクタヴィアヌスだが、軍事面での才能は乏しく――いや、ほぼ皆無だった。
オクタヴィアヌスが単独で軍の指揮をとるとの知らせが届くと、ティベリウスもカエサル家の人々も、心配のあまり眠れない夜が続いた。そして実際、その心配をあおってやまない報告ばかり届くことになるのだが、そこへアグリッパが駆けつければ、いつも状況は一転した。
オクタヴィアヌスが先代の後を継いで十一年。その間ローマ本土、シチリア、ガリア、イリリアと続けて戦争があったが、最終的にすべてに勝利をおさめることができたのは、アグリッパの貢献あってこそだった。
アグリッパはオクタヴィアヌスと同じく、今年で三十歳になる。その若さゆえ、経験こそ東方にいるマルクス・アントニウスに劣るが、今や当代最高の戦果を誇る武将であることに間違いなかった。
しかも彼には、栄光に必ずつきまとう嫉妬さえ無縁だった。凱旋式をことごとく辞退するほどの謙虚さと、出自を隠そうともしない飾らない精神が、オクタヴィアヌスからもローマ市民からもこよなく愛された。ティベリウスもその例外ではない。継父の無比の守護者が、このアグリッパなのだ。
十年余りにわたってオクタヴィアヌスとアグリッパは戦争に明け暮れていたが、今年になってようやくそれがひと段落した。二人とも首都ローマにいる日が多くなり、ティベリウスたちには喜ばしい日々が続いていた。
自分の腕の見せどころであった戦争が終わっても、アグリッパの忙しい日々は変わらなかった。彼の新たな任務は、首都ローマの再開発だった。
アグリッパが今最も精力を傾けている仕事は、上水道の整備だった。首都ローマの人口は増える一方で、良質の水の確保は、国家の最重要責務だ。ユリア水道が新たに建設され、最良の水を最大規模で供給するマルキア水道も、修復工事が大々的に行われている。今や首都に暮らす人々は、豊かでおいしい水をなに不自由なく使うことができるのだ。
上水道がもたらした大量の水は、巨大な下水道網に流れ落ちる。クロアカ・マキシマと呼ばれるそれは、首都の足下を轟々と流れ、ティベリス川に排水する。アグリッパは最近こちらの整備にも熱心で、ティベリウスが前回会った折には、下水道を船で航行した際の様子を、さながら波瀾万丈の冒険談のように語って聞かせてくれた。蟹を手土産に捕まえてきて、弟ドルーススを喜ばせた。
アグリッパはいつも幸せそうだった。国家に貢献できることがうれしくてならない様子だ。これもすべてカエサルのおかげ、と彼は口癖のように言っていた。カエサルとは、先代の神君カエサルか、オクタヴィアヌスか、きっと両方なのだろう。彼の心底からの幸福は、周りの人々に惜しみなく分け与えられ、ティベリウスをも自然と笑顔にした。
「ぼくを待っていたのですか?」
額にアグリッパの接吻を受けたあと、ティベリウスは尋ねた。
「ええ」アグリッパはうなずいた。「トロイヤ競技祭まで待ちきれず、いざ坊ちゃんの勇姿を拝まんとマルキア水道に飛び込みました。あの豊かな水流の中をかき泳ぎ、こうして素早く参上できた次第です」
ティベリウスはまた声を上げて笑った。奴隷でもないほかの大人から「坊ちゃん」と呼ばれ、へりくだった言葉で話しかけられたら侮辱と思うところだが、アグリッパからなら気にならなかった。いつも日なたのぬくもりにくるまれるような気持ちになった。
「全然、気づかなかった。カエサルと一緒ではなかったですよね?」
「ええ。カエサルは奥方とドルースス坊ちゃんと楽しんでおられる様子でしたので、私は入口の蔭からこっそり、坊ちゃんとマルケルス坊ちゃんの演技を堪能しました。いやはや坊ちゃん、見事なお手並みでしたな」
「見ていたのですか」きまり悪くなって、ティベリウスは小さく首をすくめた。「途中で落馬しちゃったけどね」
アグリッパは口の端をつり上げた。
従者の奴隷は二人に遠慮して、少し離れたところに控えていた。それをさりげなく確認してからだろう。アグリッパはかがんでティベリウスの耳に唇を寄せた。
「わざと負けましたな?」
ティベリウスの体が、ぎくりとひきつった。まんまるに見開いた目でアグリッパを凝視し、すぐに逸らした。
「…なんのことですか?」
ははっ、とアグリッパは笑って顔を離す。
「坊ちゃんはあまり嘘が得意でない。それでもなかなか巧みに『演技』されたが、このアグリッパの目はごまかせませんぞ。坊ちゃんはきわめて冷静に、落下の時機を計っておられた」
冷や汗がにじみ出した顔を、じっと覗いてくる。
「あのまま最後まで演技を続けていれば、審判で坊ちゃんが勝っていたと私は思う。どうして勝ちを譲ったのです? 組長の責を負うのが恐ろしかったのですか?」
その顔が、今度は思いがけない言葉にさっと青ざめた。深く傷ついた目は、アグリッパをとらえて激しく揺れる。
「違う! ぼくは――」
「申し訳ない。君を侮辱するつもりはなかった」
アグリッパはすぐに詫びた。
「君がそんな男でないことは、私がよく存じ上げています。誇り高きクラウディウス一門の血が、そのような臆病を許すはずがない。ただ、もし君のしたことを見抜いた者がほかにもいたら、そのように受け取られてもおかしくはないのだと、知っておいていただきたかったのです」
ティベリウスは言葉を失った。
「坊ちゃん」アグリッパはティベリウスの頭にそっと手を乗せた。「君はカエサルに遠慮したのでしょう? カエサルのために、自分が負けてマルケルス坊ちゃんが勝つべきだと思った。そうだね?」
今度はなにも答えなかった。アグリッパの顔を見ようとせず、唇を固く引き結ぶ。その目つきは強情だったが、睫毛がひどく頼りなげに震えていた。
「だからお友だちの前だろうと、母上と弟が観戦してようと、かまわずに敗北を選んだ。結果は君の望んだとおりだったでしょう。二ヶ月後の競技祭本番では、マルケルス坊ちゃんが年少組を率い、君は十二騎の配下の一人として従う。カエサルもそれを望んでおられたはずだと」
ティベリウスは黙りこくっていた。嘘が不得手と言われてはこうするほかなかった。アグリッパはゆっくりと続けた。
「だが坊ちゃん、出しゃばりを承知で言わせてもらえば、私はそうすべきでなかったと思う。もちろん、君が遠慮したもう一つの理由が、マルケルス坊ちゃんに無茶をさせたくなかったからだというのもわかる。まだ練習を始めたばかりという時期、君との対決が白熱すれば、落馬したのは彼だったかもしれない。実際、あの競技は相当危険だ。大人でも難しい技を、十歳にも満たない子どもがこなすのだから。一歩間違えば、跛者になってもおかしくない。命にかかわる怪我もありうる」
ティベリウスの頭に置かれた手に力がこもった。
「けれども坊ちゃん、私はだからこそ、君に組長の座をかけて、全力で戦ってほしかったのですよ」
伏し目がちだった目が再び大きく開き、アグリッパをとらえた。
「それで負けたのならばしかたないが、もし君のほうが技術においても周りへの配慮においても優れていたのなら、君は遠慮すべきじゃなかった。組長となって隊を率い、皆を守るべきだった」
「皆を守る?」
ティベリウスは驚いてくり返した。
「そうですとも」アグリッパはうなずく。「あの競技祭には市民へ少年たちをお披露目するほかに、もう一つ目的があります。君たち名門出の少年は、軍役に志願すれば、ほとんど時をおかずローマ軍の指揮官になること必定です。慣例どおり軍団副官となり、優れた者はそれから大隊長、軍団長、司令官と大きな責務を負いつつ、軍をまとめ上げていくでしょう。そしてその部下の運命は、上官の能力で決まります」
ティベリウスははっと息を呑んだ。アグリッパは目を細めた。
「我々先達は、少年たちの中から見いだしておきたいのですよ。大勢の兵と国民の命を任せるに足る、勇気と才能を持った人材を」
ティベリウスの双眸が震えた。口を開きかけたが、空しく閉じた。そんな彼の頭を、アグリッパは優しくなでる。
「見世物の競技祭でなにを大げさなと思われるかもしれないが、これは我々先達の大切な責務と、私は思っている。だから君に才能を発揮する機会を逃してほしくなかった。たった十二人の部隊とはいえ、組長を経験してほしかった。立場や年齢に遠慮などせず、我こそ最も上手くやってみせると手を挙げてほしかった。君にはそれができたはずだ。自信をもって皆をまとめ、それでいて負傷者が出ないよう慎重を期しながら、競技祭の成功に力を尽くしてほしかった」
ティベリウスは神妙にアグリッパを見つめ、それからうなだれた。その目にもう強情の色はなく、アグリッパが穏やかに、しかしゆるみなくたたみかけるたび、後悔が満ちていった。
「わかるね? 君は力を出すのを惜しんではいけない。組長として、自分こそ仲間の最高の守護者になると、名乗りを上げていいのだ。マルケルス坊ちゃんを守りたいならなおのこと」
「マルケルスは強いよ」ティベリウスは消え入るような声で言った。「ちょっと優しすぎるけど」
「そのとおり」
アグリッパはにっと笑った。苦笑にも見えた。
「君の澄んだ目は、いつでも事実を見誤らない。まったく、マルケルス坊ちゃんは強い。気は優しいが、間違いなくあの『ローマの剣』の子孫だ。君が勝負を下りなくても、もしかしたら結果は変わらなかったかもしれない。だが、確かに言えることは、君が本来の力を出し切らなければ、マルケルス坊ちゃんだって、眠っている限りない才能を発揮できないままだ」
もうティベリウスにはなにも言えなかった。アグリッパの顔を見るのが辛かった。それでも、犯した過ちは認めなければならない。アグリッパは、子どもではなく責任ある一人の男と見て、誠実に諭してくれた。その期待には、微塵の疑いもない。応えなければならない。
アグリッパの目は、変わらずあたたかだった。
「どうかお互いのために全力で競い合ってほしい。私も、なによりカエサルも、それをいちばん望んでいるのだから」
「はい、アグリッパ」
ゆっくりとうなずき、ティベリウスは約束した。
アグリッパはそっと微笑し、ティベリウスを抱擁した。ためていた胸の痛みを吐き出すかのように、ほうっとため息をもらす。
「次こそは君の真の力を、カエサルに見せて差し上げなさい」
腕が解かれると、ティベリウスはふいにまた青ざめた。
「カエサルは気づいたかな?」
「は?」
アグリッパは一瞬きょとんとした。
ティベリウスはうろたえた。ほとんど取り乱していた。
「カエサルが! ぼくの演技のこと!」
「ああ」アグリッパはわずかに目を逸らした。「たぶん、大丈夫でしょう。まぁ、ばれていたとしても、たいしたことにはならないと思いますが…」
「え?」
「それより坊ちゃん」アグリッパはふいに背筋を伸ばした。「今日私が坊ちゃんを探していたのはほかでもない、実は会っていただきたい者がおりましてな」
「は、い…?」
ティベリウスがまだ放心しているあいだに、アグリッパはくるりと後ろを向いて手を振った。すると女が一人、競技場の階段を下りてきた。腕に赤ん坊を抱いていた。
「坊ちゃん」女を傍らに立たせると、アグリッパはいそいそと赤ん坊に腕を差し伸べた。「まだちゃんと紹介しておりませんでしたな。娘のヴィプサーニアです」
「やあ、ヴィプサーニア」
ティベリウスは赤ん坊に微笑みかけた。実のところ、ヴィプサーニアに会うのは初めてではなかった。アグリッパの妻ポンポーニアが、以前カエサル家に連れてきていたからだ。今ヴィプサーニアを抱いているのは母親ではない。アグリッパ家の乳母なのだろう。
「まもなく一歳になります」アグリッパは笑顔で説明した。「幸いなことに父親に似ず、可憐な容貌に生まれてくれました。そう思いませんか?」
ティベリウスはくすくす笑った。名将アグリッパも、一人娘の愛らしさを前にしては、降参するしかないらしかった。目尻が下がりっぱなしだ。
「ヴィプサーニアは可愛いですよ」ティベリウスは保証した。
「けれどアグリッパにも似ています。なんというか、雰囲気が…」
ヴィプサーニアの髪と目の色は母親譲りだった。元気いっぱいの亜麻色だ。しかし目鼻立ちのえもいわれぬ愛嬌は、間違いなくアグリッパから継いでいた。
「ぼくはヴィプサーニアと仲良くなれそうです」
「おおおっ」アグリッパは躍り上った。「世辞など決して言わない坊ちゃんからそのような言葉をいただこうとは! きっとまぎれもない真実に違いない!」
アグリッパはティベリウスの肩をわっしとつかんだ。その勢いにティベリウスはびっくりした。
「坊ちゃん、今の言葉は本当ですな?」
「は、はい…」
「とくにあとのほうは重要ですぞ」
「…よくわかりませんが、本当です。嘘はつきません」
「いやはや!」アグリッパは叫んだ。「よかった。この父は感無量です!」
あまりに大げさなアグリッパに、ティベリウスはあっけにとられた。娘というものは、そんなに可愛いものなのだろうか。
アグリッパは娘に真面目くさった顔を向けた。
「娘よ、こちらにおわすはローマ貴族の中でも最も高名なる一門のご長男、ティベリウス・クラウディウス・ネロ殿であるぞ。長きローマの歴史において、クラウディウスの名が刻まれぬ時代はかつてなかった。この若きご子息も必ずや祖先の名に恥じぬ、いや、偉大な祖先をもしのぐ男になるであろう」
「ちょっと、アグリッパ――」
ほかの人間から出た言葉なら憤慨するところだが、アグリッパからとなると困惑するしかなかった。アグリッパはいつでもティベリウスに誠実だった。今もまったくもって本気で娘に言い聞かせているように見えた。
ヴィプサーニアが父の言葉を理解できたはずがなかった。けれども先ほどから、興味深げにティベリウスを見つめていた。父親と同じ、陽気に輝く目だ。
ヴィプサーニアは乳母を見てなにやらつぶやいてから、ティベリウスに指を向けた。アグリッパへの礼儀のために、ティベリウスはその手を取った。するとすべての赤ん坊がそうするように、ヴィプサーニアは驚くべき力でしっかと握りしめてきた。
やわらかい微笑が自然と浮かび、ティベリウスはつないだ手を上下に振った。
乳母がさりげなく体を傾けたように見えた。するとヴィプサーニアはティベリウスの胸に転がり込んできた。
ティベリウスはあわてて赤ん坊を抱きかかえた。右足を少しだけ踏ん張ったが、なんとか無事に腕の中へ収めた。
鼻先で、ヴィプサーニアと目があった。らんらんと光る双眸が、くしゃっと細くなった。
「おおっ、おおっ」また大喜びするアグリッパ。今度はいくらかわざとらしかったが。「娘は坊ちゃんのことが気に入ったようです。坊ちゃん、どうか、どうかよろしく、可愛がってやっていただきたい!」
「う、うん」
やけににこにこ喜色満面なアグリッパを訝りつつも、ティベリウスはヴィプサーニアに笑い返した。
「よろしくね、ヴィプサーニア」
「坊ちゃま! ティベリウス坊ちゃま!」
突然割り込んできた声に、ティベリウスは驚いて振り返った。
「よし、ではさっそくお願いにうかがわねば…」とかつぶやいていたアグリッパも顔を上げた。
ネロ家の奴隷トオンだった。顔面蒼白で、息を切らしながら走ってくる。
ティベリウスの前まで来ると、たまらず顔を歪めて背中を丸くした。
「どうしたんだ?」
その切迫した様子を見て、声が自然と強張る。
まさか――。
「だ、旦那様のっ……ぐ、具合が、急にっ…」
たちまちティベリウスの顔から血の気が引いた。
「早くっ…坊ちゃまにお会いしたいとっ……」
呼吸を乱しているのは全力で走ってきたからだけではなかった。トオンは目に涙を浮かべていた。
「なんということだ」
アグリッパがうめいた。それからティベリウスの腕から娘を取り上げる。
「坊ちゃん、急ぎお父上の下へお行きなさい。カエサルとリヴィア殿には、私から伝えておく」
ティベリウスはがくがくとうなずいた。それから控えていた従者とトオンの二人を連れて駆けだす。
手足の震えが止まらなかった。それでも必死に走った。
息もできないほど胸をきつく締めつける痛みは、罪悪感だろうか。